『スパイス』 第7章 超越

「あなたの仕返しのお礼をするわ」
 ジェシカがライリーに目配せし、ライリーが頷く。
「え――何?なに?」
 困惑する楓に二人はただフフ、と笑う。
 ジェシカがベッドの横の棚から洒落たボトルを取り出した。透明な液体がゆらゆらと揺れ、ランプの明かりでキラキラと輝く。この上なく美しいそれに、楓はとてつもなく危険な予感がした。
「な――何それ」
「ローションよ」
「それ、どうするの」
「もちろん、あなたに使うのよ」
 カチッとフタを開ける音がして、フワッと艶やかな香りがする。
「限界を一つ、超えてみましょう」
 その言葉に楓の背筋が凍りついた。
「大丈夫よ、怖くないわ」
 とジェシカが微笑み、
「そう。怖がるにはまだ早い」
 とライリーが恐ろしい同意の仕方をする。
 ジェシカがボトルを傾けると、楓の脇腹に冷んやりとした感触が着地した。
「あっ!」
 ピクッと震える楓に、ジェシカとライリーが顔を見合わせて微笑んだ。
「っ――、っっ――――!」
 ジェシカの指が腹部を滑ると、たちまち全身に鳥肌が立った。まだくすぐっていない。ローションを広げているだけだ。まったく、くすぐってなどいない。そのことが楓の恐怖を煽る。
 ジェシカが楓を見てもう一度微笑み、遂にその指を動かした。

 何これ!何が起こってるの!

 楓の身体がビク、と一度大きく震え、それから不規則に暴れ出す。声になり損ねた呼吸が喉の奥から押し出される。
「そうよね、くすぐったいわよね。分かるわ」
「フフフ。カエデ、あなた本当に良い反応するわね」
 ライリーは共感し、ジェシカはただ楽しんでいる。楓がついに声を取り戻すと、壮絶な悲鳴が部屋中を揺らした。
「大丈夫よ、カエデ。初めてだから混乱してるだけ」
「そう、慣れれば大丈夫」
「いえ、慣れる訳ではないのよ、ジェス。言うなれば、慣れないことに慣れるの」
「流石ね、ライリー」
 そんなことを話している間もジェシカの手は動き続けていた。経験したことのない感覚に楓は混乱した―――こんなの今までなかった。
 楓はこれまで、至るところをあらゆる方法でくすぐられてきた。決して耐えられる訳ではないが、それでも色んなくすぐったさを知っているつもりだった。
 それなのに今感じている刺激は、そのどれでもなかった。たくさんあるはずの記憶は何一つ役立たず、余りにも未知のこの刺激をどう受け入れ、どう処理して、どう耐えればいいか分からない。
「ローションがあると弱点も変わるわね」
「本当ね。ここ、こんな効き方じゃなかった」
 ジェシカが楓の肋骨を爪でなぞる。
「っ!」
「あとここも。全体的に効き方が変わってる」
 今度は脇腹を爪でひっかかれ、悲鳴が上ずった。
 ローションを塗った範囲がみな同じ刺激になる訳ではなく、場所や触れ方によってまったく別の刺激になる。その一つひとつが素肌だった時とも違う感覚で、次々と与えられる初めての刺激に楓は翻弄された。くすぐったいことは分かるのに、他は何も分からない。
 そうしてしばらくは翻弄されていたが、脇腹のあたりにあった手が段々上がってきていることに気づいた――怖い。
 だめ。
 そう言おうとしたのに声が出ない。どうしよう。だめ、だめ、だめ―――。
「ジェス!ちょっと待って。本当に怖がってるわ」
「あら、ほんとね」
 ライリーの声にジェシカが手を止めた。刺激が去ったことが分かると全身から力が抜ける。
「カエデ、大丈夫?」
 そう聞かれるが、正直なところ、自分が大丈夫かどうか分からない。
「一旦休憩しましょう」
 拘束具が外され、ゆっくりと身体が起こされる。
「頑張ったわね、カエデ」
「うん…」
 ジェシカが楓を抱きしめた。楓はジェシカの肩にぐったりと身体を預ける。ライリーが楓の肩に手を置くと、その感触にほっとして思わず感情が溢れ出した。
「あらあら、怖かったら今日はもうやめてもいいのよ」
「ち、違う!これは怖い涙じゃない!ほっとしたから」
 たしかに怖かった。けれど、その恐怖から救ってくれたのも二人だ。本当に怖いところでちゃんと止めてくれる。この二人ならば安心して不安になることができる。そのことに何より安堵したのだ。
「だけど、怖かったのも事実でしょう?」
「うん…」
「無理することないのよ」
「でも…」
「でも?」
「せっかくここまで頑張ったのに」
「そうね、頑張ったわ」
「くすぐりがそもそも無理だもん。いつも怖いもん。ローションがあってもなくても関係ない」
「もう、カエデったら」
「挑戦したいの?」
「うん…もう一回だけ」
「分かったわ」
 ジェシカが微笑み、再びボトルを手に取った。ライリーがもう一度楓の両手を拘束する。楓は覚悟を決めた。
「いいわね?」
 うん、と頷くと、両方の脇にローションが注がれる。楓の喉が高く鳴った。
「ライリー、お願い」
「分かったわ」
「なるべくくすぐったくないように触れましょう」
「そうね」
 ライリーとジェシカが楓の右と左で、それぞれローションを広げ始めた。
「あっっ!いや――」
 まだ広げているだけだが、楓はジタバタと喚いてしまう。
「ごめんなさい。くすぐったいわよね」
「大丈夫よ。すぐ済むわ」
 ほどなくしてローションを広げ終わり、いよいよ準備が整ってしまった。
「少しずつ試すわ、いい?」
「うん」
「やめたかったらすぐにジェスか私の目を見るのよ、分かった?」
「分かった」
 二人の手が動き出すと、一瞬にして楓の全てが混沌に支配された。壮絶な悲鳴と拘束具の音が部屋中に響き渡るーーーもう分かっているのだ。この刺激が何か。「くすぐったい」という未知なのだということが。
「っやだ!やだ!」
「あら、言葉が出たじゃない」
「本当ね。さっきは言葉すら出てなかった」
「最初の混乱が去ったのね」
「混乱の次は何か分かる?ーーー翻弄よ」
「もう、ジェスったら」
「あなたこそ、少しも手加減してないじゃない。ライリー」
 言葉こそ優しいが、その手は執拗なまでに楓の弱点を捕えていた。二人の爪に、細胞の一つひとつが悲鳴を上げる。始めは優しかった触れ方も、指の腹から爪に、一本の指から複数に、新たに見つけた弱点にと、どんどんサディスティックになっていく。不協和音のような耐え難い刺激が身体中で暴れ回り、弾けるような感覚に楓は喉が枯れるほど叫んだ。
「いや!」
「大丈夫よ、カエデ」
「弱いからって受けられない訳じゃない。それとこれは別。できるわ」
 反射的に拒絶の言葉が出てしまうが、そしてそれはある意味では事実だが、この二人になら安心して委ねられる。二人のつくる「恐怖」には、安心して乗っていい。それでも、
「だめ…」
「本当に弱いわねぇ」
「大きく反応する訳じゃないのに、寧ろ反応を抑えようとしてるのに、それでもこれだけ暴れるんだもの」
「暴れてるうちはまだ大丈夫よ」
 楓は段々と自分のコントロールが失われていくのを感じた。呼吸が震え、身体が震え、抑えようとしてもまったく抑えられない。その震えにまた自分が翻弄され、何が何だか分からないーーーすると、
「今日はここまでね」
 ジェシカが言い、二人が手を止めた。
「よく頑張ったわ、カエデ」
「本当に頑張ったわ」
 そう言って二人は楓の頬を撫でる。楓はぐったりと横たわったまま、震えが止まるまでじっと待っていた。ライリーが拘束具を外し、くしゃくしゃになった髪の毛と服をジェシカが整える。そうしているうちにやっと少し落ち着いてきた。
 ジェシカが楓を抱き起こし、そのまま抱きしめる。 
「頑張ったわ。すごいじゃない」
「うん、できた」
「ジェスはずっとあなたにローションを使いたいって言ってたわ。でも私が止めていたの。あなたにはまだ早いって」
「そうだったの?」
「でもあなたが手加減して欲しくない、知らないことがあるなら嬉しいって言ってくれたから使うことにしたの」
「そうだったんだ…」
 楓は胸が熱くなった。制止してくれていたことも、意地も含めた楓の気持ちを尊重してくれたことも、紛れもない二人の優しさだ。
「それで、ローションは気に入ったかしら?」
「えっーーー」
 急に聞かれて楓はあたふたと焦る。
「嫌いじゃないけど嫌い!」
 楓の答えにジェシカとライリーは笑った。
 照れ隠しで答えたが本心は、二人の優しさのお陰で挑戦できたこと、新たな世界を知れたことがこの上なく嬉しかった。そして、限界を一つ超えられた自分が誇らしかった。

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