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『スパイス』 第3章 日常

 この家も懐かしい。
 楓は辺り一面をぐるっと見渡した。一年半前、ジェシカに出会う前の二週間、楓はライリーの家で過ごしていた。今回は始めからジェシカの家に滞在しているが、ジェシカが仕事で家を空けるため、今日から数日間はライリーの家で過ごす。家の中をゆっくりと歩きながら思い出に浸っていると―――
「ちょっと!それはダメよ!一度目は私がいただくのよ!」
 ジェシカの大きな声が聞こえてきた。振り向くと、ライリーがよろめいてソファに座り込むところだった。
 さっきまで普通のボリュームで話していた二人だが、ライリーが何か大それたことを言ったらしい。ジェシカが警告するようにライリーをくすぐった。
「じょ、冗談よ」
「そうして。まだ使ってはダメ。私がやるから」
「分かってるわよ。そ、そもそもあなたの家にあるんだから、私が使えるはずないじゃない」
「買ったり――」
「しないわよ」
「Ok」
 ジェシカは念押しするようにもう一度くすぐり、ライリーが小さく呻いて身を捩った。
 ごく自然にくすぐり、くすぐられる二人に、楓の方がドキッとしてしまった。ジェシカとライリーが、楓と知り合うずっと前から互いに性癖を満たし合う仲だとは聞いていた。しかし実際にその光景を見たのはこれが初めてだった。特に、余裕を失くしたライリーを見るのは。
 冷静沈着、論理的で隙がない。それが楓の知っているライリーだ。けれど今のライリーは、ジェシカにくすぐられて明らかに狼狽えている。端正な顔に動揺と少しの焦りを滲ませて、眼鏡の奥の瞳を揺らしている。そんなライリーは紛れもなく―――
「可愛い」
 楓は思わず口に出してしまい、その声に二人が振り向いた。
「そうでしょう?」
 ジェシカが嬉しそうに言い、ライリーはほんのり顔を赤らめる。楓には分かった―――ライリーも意外と弱いんだ。
「ねぇ、何の話?」
「何でもないのよ」
「そんな。教えてよ」
「Need not to know. あなたはまだ知らなくていいわ」
「何それ」
「いつかちゃんと教えてあげるから」
「えー、ジェシカの意地悪」
「あら、どうも」
「それよりもカエデ、時差ボケはもう治ったの?」
 ライリーがソファから立ち上がる。すっと伸びた背筋に理知的な表情――もういつものライリーに戻っている。
「えぇ、治ったわ」
「じゃあジェスももう手加減しなくていいわね」
「えっ?」
「手加減されたくないのは、まだ余裕だからよね?」
「あ、いや――」
 するとライリーが楓の耳のすぐ下あたりに指を当てた。鋭い眼力に射貫かれる。
「ライリー。それ、カエデには効き目ないわよ」
「あ、そうね。確かに」
 ジェシカの言葉にライリーが手を引っ込める。
「え、何?なに?」
 楓が質問すると、今度はジェシカが同じ場所に指を当てる。え――何かは知らないけど、効き目はないんじゃないの?そう思いながらも楓は少し身を引いてしまった。
「ほら。触れられただけでドキドキしてしまうんでしょう?」
 ジェシカはそのまま首筋にすっと指を滑らせる。ビクッとなる楓を横目で見ながらライリーに言った。
「そんなことをしなくても、この子は私たちに嘘を吐いたらどうなるか分かってるはずよ―――そうよね?」
 最後の一言は楓に向けられた。ご丁寧にウインクまでするジェシカにむっとする。
「そんなことされなくても本当のことを言うわよ!」
「じゃあ教えなさい。余裕があったかどうか」
「あ…」
「本当のことを言うのよね?」
「えっと………っ」
 口籠もる楓の脇腹にジェシカが手を添える。
「そんなの覚えてな―――ッ!」
 ジェシカの指が少しだけ動く。くすぐられる――楓は覚悟を決めたが、恐れていた刺激は来なかった。それが却って恐ろしい。
「よ、余裕なんてなかった。いつも限界だった……ただ、まだ私の知らないことがあるなら嬉しいって、そう思っただけ」
「そう。分かったわ」
 ジェシカが納得したように頷き、楓は息をつく―――と、ビリッと電流のような刺激が身体を貫き、楓は膝から崩れ落ちた。
「ちゃんと答えたのに!!!!」
「答えたら何もしないなんて言ってないわよ。それじゃ、adiós!」
 そう言い残して、ジェシカは出張に出かけて行った。
 
「まったく、ジェスには敵わないわね」
 ライリーが楓を助け起こしながら言う。
「悔しい。すごく悔しい。いつもだけど、今日はもっと」 
「ねぇカエデ、ジェスに仕返ししてみたいと思わない?」
「えっ?!」
「いつも翻弄されてばかりで悔しいんでしょう?」
「そうだけど…そんな、すぐに負けちゃうわ。ジェシカほとんど効かないし」
「たしかに、あなたほどは弱くないわね」
「ライリーだって弱いくせに」
「あら、ご挨拶ね。あなたには負けるわよ」
「ライリー!」
「アハハ、ごめんなさい。だけどくすぐったがりのあなたなら、上手にくすぐることもできるかもしれない。私も協力するわ」
「ほんと?ライリーも手伝ってくれるの?」
「えぇ。全力でサポートするわ。だから、やってみない?」
 ライリーとなら、できる気がする。
「やる」
 こうして楓とライリーの策略が動き出したのだった。



Next Episode…「逆襲」
ついに楓がジェシカをくすぐる時が訪れる。ライリーの力を借りて、楓は逆襲を果たせるのか。そしてくすぐられたジェシカはどうするのか。


これまでのお話

登場人物紹介

前作(ぐら目線)

前作(ぐり目線)

スピンオフ


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