『スパイス』第6章 複襲

「え、何――?」
 ジェシカに手首を掴まれ、その隙にライリーがジェシカの手枷を外す。
「ちょっとライリー?何してるの?どういうこと?」
 カチャン、カチャン、と音がして、両手が自由になったジェシカに両の手首を掴まれる。さらに二回、金属音がして、ライリーがジェシカを完全に自由にする。
「――そういうことなの!」
 楓の味方をしていたライリーがジェシカに加勢し出したことで楓は察した。
「私に協力してくれるって言ったじゃない!」
「言ったわ。でもジェスに協力しないとは言ってない」
「そんな―――ライリー、私あなたには何もしてないじゃない!」
「私はあなたにはぐり。そしてあなたはぐら。他に理由が必要?」
「何て開き直り方なの!」
 楓は信じられないとばかりにライリーを睨んだ。一方のジェシカは、
「ということは、私はいいのね」
 とニヤリと笑う。この2人には敵わない―――!
「ひどい!2人とも!こんなことって―――っあ!」
 脇腹を撫でられ、楓の腰がストンとベッドに着地する。もう一度撫でられると上体が崩れ落ち、そのまま一気に組み敷かれる。楓に馬乗りになったジェシカと、同じく楓を見下ろすライリー。形勢逆転、どころか四面楚歌だ。
「待って―――!」
 ジェシカはもう撫でてはくれず、遂に指を立てて強烈なくすぐったさを楓に送り込む。待ってなどもらえないことは分かっているが、急に襲ってきた刺激に楓は頭が真っ白になった。
「ねぇ待って!本当にだめなの!」
「知ってるわ。カエデ、それがあなた」
 ジェシカは満足げに言って楓を責め立てる。これが楓のあるべき姿だというように。仕返しの仕返しは、正しい回帰だというように。
 ビリビリと駆け巡る刺激に、自分でも情けなくなるような声が出て、自分でも驚くくらい身体が跳ねる。ついさっき、楓がしたことと同じことされているだけなのに、ジェシカにとっては唯一の弱点だったのに、比べ物にならないくらい大きな反応をしてしまう。反応しないジェシカの後では、自分がどれだけ暴れ叫んでいるのかをどうしようもなく痛感した。どうして――どうして、こんなに反応してしまうんだろう。
「カエデって本当に弱いのね」ライリーの声がする。
「フフ。でしょう?」ジェシカが嬉しそうに答える。

 そうか。私、弱いんだ。

 これまで分かっていたつもりだったが、楓は分かっていなかったのだ。それが分かると、急にくすぐったさが増した気がして、思わずジェシカの手を掴んでしまう。
「ダメよ、カエデ」
 ジェシカが優しく囁くのを聞いて、楓は背筋が凍り付いた。ジェシカがこの声を出す時は、最もサディスティックな時だ。
「ライリー、お願い」
「分かったわ」
 ジェシカがライリーに目配せすると、ライリーが楓の両手首を掴む。
「いやだ!いやだ!」
 ライリーの手に力一杯抵抗するが、楓の手は段々と頭の方へ上がっていった。その様子をジェシカはただ楽しそうに眺めている。
「いや――――!!」
 ジェシカの指が脇に触れた瞬間、楓は我を忘れて叫んでいだ。もはや抵抗もできず、楓は悶えることしかできなくなった。ビクビクと震えながら、心の中はたった今理解したことへの動揺で一杯だった。

 どうして私は、こんなに弱いの。

 どうして、どうして。そう思う程にくすぐったく感じてしまい、楓は自分の感度が恨めしくなる。
「ねぇ、ごめんね、ジェシカ」
「何?」
「ごめん、謝るから」
「何に謝るの?」
「仕返ししたこと。いやだったなら謝るから」
「だから?」
「だから手加減して――――っあ!」
 脇腹を撫でられ、口を封じられる。
「カエデ、あなた分かってないわ」
 ジェシカは手を止め、楓をまっすぐ見つめた。
「ねぇ、私があなたに仕返しされて嫌だったって、あなた本当に思ってる?」
「えっ――?」
「どうなの?」
「いや…じゃなかったと思う」
「そうよ、私はあなたに仕返しされても何も嫌じゃない。だからあなたは謝らなくていい」
「じゃあどうして――」
「あなたをくすぐるか。それは私がそうしたいからよ。それ以外の理由はない。謝罪なんかで手加減してもらえると思わないで―――それに」
 ジェシカの手が弱点に触れ、楓は危険を感じた。
「あなたがくすぐったがりだから、私は簡単なんでしょう?それでどうやって手加減するって言うの?」
 楓はドキッとした。『私がくすぐりに弱くて良かったね』ーーー楓が仕返しの終わりに発した言葉。これがジェシカの逆鱗に触れたようだ。
「ねぇ、私は簡単だったって?あなたの感度に甘えていたって?―――これでも?」
 ジェシカは骨の輪郭を辿るようになぞり始める。楓の余りにも苦手な場所。余りにも正確な指の通り道。絶妙な力加減。許しがたいほどの刺激が体中を駆け巡り、楓は絶叫した。余りのくすぐったさに何が何だか分からなくなる。
「これでも?ねぇ、どうなのよ。言ってみなさいよ。私があなたの一番弱い場所を、一番弱い触れ方を、探す努力をしなかったって。まだまだ余裕だって、言いなさいよ」
 楓はついに声が出なくなり、身体は不規則に痙攣し出した。それでも刺激は容赦なく襲い続ける。いつもなら止めてもらえる所なのに止めてもらえない。これ以上は受けたことがない。楓は感じたことのない恐怖を覚えた。
 ふわっと意識が遠のきそうになったその時、
「ジェス、それくらいにしといたら?」
 ライリーの声がした。ライリーが手を離すと、ジェシカも楓をくすぐるのを止めた。過ぎ去った刺激の激しさに楓はいまだ恐怖していた。今のは確実に、今までで一番辛かった。
「ジェス、今のはちょっとやりすぎよ」
「ごめんなさ――」
「いいの」
 楓はジェシカを遮った。
「謝らないで、ジェシカ」
 それだけ言うのが精一杯だった。まだ全身が震えている。何とか身体を起こして水を飲み、そしてまた倒れ込んで呼吸を整える。二人は楓が話せる状態になるまで待ってくれた。
「仕返ししてみて分かった。くすぐるのって、そんなに簡単じゃないんだって。もちろんジェシカは殆ど効かないけど、そういうことじゃなくて、場所を探して、触れ方を探して、考えることは本当にいっぱいある」
 ゆっくりと繋がれる楓の言葉を、ジェシカとライリーは静かに聞いている。
「私は弱いから、どこをくすぐられてもくすぐったいけど、それもそういうことじゃなくてーーージェシカ、あなたは私のもっとくすぐったい場所を、もっとくすぐったい触り方を、いつも探してくれてた。分かってたよ?だって―――だってあなたにくすぐられるの、本当にくすぐったいから」
「いいのよカエデ、あなたが分かってたことも分かってる。私こそ、強くてごめんなさいね」
「なっ―――」
 照れて言葉を失う楓の頬をジェシカが撫でる。
「あなたたち、大概ね」
 ライリーが呆れるやら感心するやら、ため息をつく。
「確かにそうね。もちろんカエデは弱い。だけどその弱さに甘えるジェスじゃない」
「でも限度が分からないのはダメね。カエデ、ごめんなさい。辛かったでしょう?」
「うん。でももう大丈夫」
「もう、カエデったら。タフガイね」
 ジェシカはそう言って服の中に手を入れてくる。
「あっーーちょっと!」
 ジェシカの手が触れた瞬間、楓は跳び上がった。触れられた場所からぶわっと鳥肌が立つ。
「優しく触ってるだけよ?」
「だめっ」
 身体がどうしようもなく跳ねてしまい、どうしたらいいか分からなくなる。
「カエデ、落ち着いて。大丈夫よ」
「だめ!やめて!」
 手足をバタつかせて喚くと、流石のジェシカも手を止めた。
「普段はこんなに怖がらないじゃない。どうしたの?」
「だって…」
 楓の目から涙が溢れる。この事実を自分の口から言わなければならないことに慄きながら、それでも声を絞り出す。
「私、弱いから…」
 ジェシカとライリーが顔を見合わせる。
 楓は気づいてしまったのだ。自分は本当にくすぐりに弱いのだということに。もちろんジェシカがくすぐるのが上手いということもあるだろう。しかし何よりも、楓が弱いのだ。一度自分がくすぐる側を経験し、くすぐられる人を客観的に見たことで、その上で再びくすぐられたことで、自分の感度は否応なく浮かび上がった。楓は、自分がくすぐりに弱いのだと初めて自覚した。
 それを説明すると、ジェシカとライリーはひどく拍子抜けした様子だった。
「もしかしてカエデ、今まで自分は弱くないと思ってたの?」
「いや、何ていうか…弱いのは分かってたよ?だけど、ここまでだとは思わなかった…」
「ジェスがいつもあなたを弱いって言ってたのは、嘘だと思ってたの?」
「嘘っていうか、ただ私をからかってそう言ってるだけだと思ってた。でも、本当だった…」
 これまで挑発だと思っていたことが、単なる事実に過ぎなかったことに動揺を隠せない。
「だからそんなに怖がるの?」
「自分がこんなに弱いんだって思うと、前よりくすぐったく感じちゃって、それで前より怖くなっちゃって…」
 そう言うとジェシカが楓を抱きしめた。
「もうあなた、何て可愛いこと言うのよ」
「え?」
「自分の感度に怯えてるだなんて!仕返しして自覚したなんて!あなたはどうしてこうも自分の首を絞めてしまうのでしょうね?」
「結局のところあなたは、ジェスに仕返ししたつもりが、自分がどれだけ弱いかということを自分で自分に証明してしまったのね」
「もう!2人でそこまで言わなくても…………あっ!」
 楓の涙を拭おうとしたジェシカの手が耳に触れ、それだけで反応してしまう。
「もういやだっ!」
 楓は悔しくてジェシカの手を振り払った。
「ライリー、交代する?」
「どういうこと?」
「私じゃ刺激が強すぎるみたい」
「カエデ、いい?」
 ライリーに確認され、楓は頷いた。ジェシカの刺激から解放されるなら何でも良かった―――しかしほっとしたのも束の間、ライリーが恐ろしい言葉を放つ。
「やっとあなたをくすぐれるわ」
 眼鏡の奥の瞳が不気味に光る。ライリーの指が触れ、動き始めると、楓は衝撃を覚えた。
 何、このくすぐり方ーーー!
 こんなくすぐり方をする人に出会ったことがない。同じ場所をくすぐっているようで少しずつ場所を変え、何度も繰り返しているようで毎度違う触れ方をする。弱点を探しているのではない。そんな概念では稚拙だ。弱点のみならず、どこが、どれくらい、どう弱いかまで、すべてばれてしまう。無駄のない、精緻で、正確な、いかにもライリーらしいくすぐり方。
「カエデって分かりやすいわね」
「そうなの。くすぐられている時がいちばん素直よ。ね、カエデ?」
「――っ!――っ!!」
「このあたり弱いわね。やっぱりこの触れ方ーーなるほどね」
 弱点を見つけはするが、見つけた弱点を集中してくすぐる訳ではない。ただフ、と笑って、目を鋭く光らせるだけだ。まるで、あなたの弱点を把握した、今でなくてもいつでもくすぐることができる、とでも言うように。何一つ隠せない。取り繕うこともできない。弱みを一つ一つ把握されていって、最後に自分はどうなるのだろうと、そういう種類の恐怖に包まれる。すべてを見透かされていて、この人の前に自分は圧倒的に無力なのだと、ライリーのくすぐりはそんな風に思わせる。
「待って。私、そこ知らない」
 急にジェシカが身を乗り出した。
「ライリー、ちょっと代わって。今のどこだった?ここ?どのくらいの角度?」
 ジェシカはライリーと同じ場所をくすぐろうとあれこれ場所を探し始めた。
「合ってる?カエデ?」
「き、聞かないで――――っあ!」
「「イエスね」」
 ビクッと震える楓を見て、二人はまたハモった。
「ライリー、やっぱりくすぐってる時のあなた、怖いわ」
「あなたに言われたくないわ、ジェス」
「だってくすぐるのが目的じゃないんだもの。くすぐるための準備をすべて整えようとしているような感じだわ」
 確かにその通りだ。苦しめるのではなく、苦しめようと思えばいつでも苦しめることができる状態が作られていく。実際そうならなくても、そうなるかもしれない可能性に恐怖だけが膨れ上がっていく。しかも、実際はそうなっていないばかりにその恐怖には際限がない。
 するとカチャ、という音がして、楓の恐怖に追い討ちをかけた。ジェシカが楓の手を拘束しようとしている。ジタバタし出した楓を、
「カエデ、ここは従った方が無難よ」とライリーが諭す。
「それとも、もっと苦しみたい?」とジェシカが脅す。
 楓は抵抗するのをやめ、渋々拘束を受け入れた。楓を拘束し、ジェシカが加勢すると楓は焦った―――これまで、相手が二人だったことはない。
 ジェシカとライリーの手が、今や楓の弱点を知り尽くしてしまった四つの手が、楓の敏感な場所を正確に捉えていく。
「っ―――!」
 楓が大きく跳ねると、ライリーとジェシカは目を合わせて嬉しそうに笑う。 
 この上なく優しい触れ方。決して激しくない刺激。だからといって耐えられるかというと、断じてそうではない。丁寧に、丁寧に、刺激を与えられ続け、身体の奥まで染み込んでいくようなその感覚に楓は気が触れそうになる。
 次第に楓は混乱してきた。なぜなら、まったく同じ感覚だからだ。ジェシカの手も、ライリーの手も、四つの手がすべて、同じ刺激を与えてくる。どこがジェシカの手で、どこがライリーの手か分からない。
 相手が一人なら、手が二つなら、ギリギリ分かった。耐えられなくても、どこをどうくすぐられているのか、なぜくすぐったいのか、脳は理解できていたのだ。しかし、四つなど、理解できるはずがない。
 あるいは違う刺激なら、区別がついたはずだ。相手が二人でも、少しは理解できたはずだ。それなのに二人はまったく同じ触れ方をしてくる。四つの刺激は、打ち消し合うことなく、互いに融合して楓を責め立てる。
 信じられないほど優しく、信じられないほど暴力的な刺激に、楓は呻きながら震えることしかできなくなった。
 ふいに、四つだった手の感覚が二つになった。ジェシカがくすぐるのをやめ、その手を楓の頭の両側に当てた。
「自分の声を聞いてみて」
 両耳を塞がれ、楓の音の世界にヴェールがかかる。自分の呻き声が自分の頭の中で響き渡る。
「き、聞こえてる!いやだ!」
 自分が苦しむ声を聞かされ、楓は恥ずかしさで狂いそうだった。
 ジェシカの意図を理解したライリーが、緩急をつけて色々な触れ方をする。色んな悲鳴を聞かされて、いてもたってもいられない。
 いや、いや。そう言うように首を振ると、頭とベッドの擦れる音で自分の声がかき消される。味を占めたように首を降り続けると、
「ダメ。擦れたら痛いわよ」
 ジェシカの手に力が込められ、頭を動かせないよう固定される。何とか見つけた抵抗も封じられ、再びどうしたらいいか分からなくなった。
「もう、そういう逃れ方はダメって言ってるじゃない」
 楓はいつしかぎゅっと唇を噛んでいた。
「仕方ないわね」
 その声でジェシカの手が楓の耳を離れ、ライリーの手も止まった。
「前にも言ったでしょう?自分に傷がつく耐え方はダメ。いい?」
「うん」
 久々についた唇の跡を感じながら、楓は頷いた。
「そうだ」
 ジェシカが何かを思い出した様子で微笑んだ。
「あなたの仕返しのお礼をするわ」

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