『スパイス』 第5章 他作自演

 楓がジェシカに仕返しを試みた。
 一年半前に楓が帰国してしばらく経ってからであったか、ジェシカがそう言っていた。その時の楓をもう一度見たいらしい。
 受け願望は全くないジェシカがそう言うということは、仕返しに挑む楓が余程可愛らしかったのだろう。それを言うとジェシカはうっとりと頷いた。
 くすぐられている楓すらほとんど見たことがないライリーとしては、くすぐっている楓など考えたこともなかった。が、生き生きと仕返しを挑み、上手くいかずに顔をしかめ、最終的に負ける楓は易々と想像できた――私も見たい。
「私がカエデに逆襲を持ちかけでもしたら良い訳?」
「あら、素敵ね」
「本気?」
「えぇ、構わないわ。いつでもどうぞ」
 恐らく本気なのだろう。物好きなのは出会った頃からだ。
「でもやられて終わりなんて嫌よ。必ずお返しするわ」
 そう来ると思った。さらに、
「そんなタイミングがある以上、カエデの好きにやらせてあげてよね」
 などと言ったのだ。
 それならば実行しない手はないと、ライリーは楓にジェシカへの仕返しの機会を与えると決めた。いつ、どこで、どうやって実行するか。それだけが問題だった。
 そんな中、楓が再び渡米し、ジェシカが楓を盛大に煽って出張に出掛け、楓は悔しさに悶えていた。これ以上ないタイミングだった。もしや計画を立てやすいよう、ジェシカはわざと楓を煽って行ったのかもしれないとさえ思った。
 
 ジェシカが留守の間、ライリーは楓とともにジェシカに仕返しする作戦を立てた―――というのは見かけ上の建前で、実際はジェシカ本人の差し金である。そんなことは露も知らぬ楓は、頭を抱える程のいじらしさで聞いてきた。
「ねぇ、仕返ししたら怒らないかなぁ」
「大丈夫よ。ジェスが怒るところを想像できる?」
「できない。だけどね、実は一回だけ仕返ししたことがあって、その後ものすごくきつくくすぐられたから、たくさん仕返ししたら大変なことになるんじゃないかなと思って…」
「一回だけ?仕返しっていうのは、具体的にいうと?」
「本当にちょっとだよ。5分もなかった―――だけど、ジェシカの弱点を見つけたわ」
 そう言って楓は悪戯っぽく笑った。
「やるじゃない!どこだった?」
「ここ」
 楓がライリーの脇腹のあたりを指す。ジェシカが誰かにくすぐられて、くすぐられている人らしい反応をする唯一の場所だ。
「それで、そこをくすぐった後にきつくくすぐられたと」
「うん。仕返ししたらただじゃ置かない、みたいなこと言ってた」
「聞きなさい、カエデ」
 ライリーは楓に向き直った。不要な躊躇いはなくしておくべきだろう。
「ジェスはね、仕返しされること自体はまったく嫌ではないのよ。くすぐられたいとは思っていないけれど、それが嫌な訳でもない。最も、効かないからだと思うけど」
「じゃあどうして――」
「あなたをきつくくすぐったか。それはね、弱点を見つけられたことが悔しかったからだと思うわ」
 仕返しする楓が可愛かったとは散々聞かされたが、弱点を見つけられたとは聞いていない。
「だから仕返ししても大丈夫よ、ジェスは怒らない」
「弱点を見つけても?」
「大丈夫」
 ライリーは確信を持って答えた。第一、あの場所以外に弱点はない。第二に、あの場所以外に弱点があったとしても、そしてそれを楓が見つけたとしても、あるいは見つけなかったとしても、いずれにせよ彼女は楓をくすぐるのだ。ジェシカ・エバンズとはそういう女だ。
「問題は、どのタイミングで拘束するかね」
「えぇっ!ジェシカを拘束?!」
「何驚いてるのよ。いつも自分がされてることでしょう?」
「そうだけど…」
「それに拘束もせずにどうやって仕返しするのよ。ジェスの手が動けばあなたをくすぐって、あっという間に形勢逆転よ」
「あ…」
 拘束の理由はもちろんジェシカではなく、楓の方にある。ジェシカは拘束されなくても動かずにいることなど容易いだろうが、物理的に抵抗できない状態にすることで楓に安心感を与える必要がある。何にせよ、楓の好きにさせろと言ったのはジェシカ本人だ。
「拘束は必須よ。これであなたは安心してジェスをくすぐれる」
「ライリーもいるし拘束もするし、完璧だね!」
 何だか急にワクワクし出した様子の楓に、さあどうかしらね、とライリーは心の中で呟いた。

 数日後、出張から帰ってきたジェシカは何やら意味ありげに聞いてきた。
「楽しかった?」
「何が?」
「私がいない間、カエデと二人で何をして過ごしていたの?」
「特に何も――」
「そう。私は寝るわ。10時間後に起こしてちょうだい」
 そんなことを言って眠りについたのが10時間前だ。つまり、そろそろ「起こす」必要があるのだ。
 楓を呼び、いよいよ拘束を始めると、ライリーは一年半前、ジェシカと二人で楓を拘束した時のことを思い出した。あの時の楓はまだ何も知らなかった。イノセントだった楓に洗礼を授け、有相無相を教えたのは他でもないジェシカとライリーである。まさか今、攻守が交代した状態で再び拘束することになるとは思わなかったが、それほど楓も成長したのだとライリーは感慨を覚えた。
 目を覚ましたジェシカが混乱の色を見せたのはほんの数秒だった。
「あなたたちが私をどうしてくれるのか、楽しみだわ」
 自作自演もとい他作自演とはいえ、寝起きで拘束されていたら流石に驚愕するのではないかと思ったが、すぐに状況を飲み込み、サディストモードまで入ったのは流石と言うほかない。
 一方の楓は始めから弱腰であり、やはり心配すべきはこちらであった。
「……いいの?」
「今さら何言ってるのよ。その気なんでしょう?」
「本当に?」
「もしかして私をくすぐるのが怖いの?」
「怖くない!」
 傍から見ても分かるほど震える手で、楓は恐る恐るジェシカの脇腹に触れた。すぐに反応が得られず、あれ、うそ、なんで、とぼやきながら苦戦する楓の向こうから、『ね、可愛いでしょう?』と言うようにジェシカが目配せしてくる。
 弱点を探されているのに随分と余裕ですこと。
 案外素直にくすぐられているのが意外だが、それは目的が耐えることではなく、仕返しする楓を見ることだからだろう。
 無事に弱点を見つけた楓は、本当に嬉しそうだった。顔を輝かせるという表現がこれほど似合う瞬間をライリーは見たことがない。
「わぁ………かわいい…すごい…」
 自分のくすぐりが効いたことに驚き、そして悶えるジェシカを目にして文字通り感動している。喜びを共有するようにライリーを見て、まるで初めて自転車に乗れた子どものような純真な笑顔を向けてくる。これにはライリーですら悩殺されそうになった。確かに、仕返しさせる価値はあった。
 楓がジェシカの足の裏をくすぐり始めると、ジェシカは案の定逆襲に出た。
「そこじゃないわよ―――もう少し右よ――いや左かも――上かもね」
「ねぇ!」
「アハハ。単純なんだから」
「もう!!」
 平然と楓を操り楽しむジェシカと、見事に操られ膨れる楓。その光景にライリーは妙に納得した。これが二人の力関係なのだ。ジェシカは確かにくすぐられているが、それを誘導しているのもジェシカの方である。楓はジェシカをくすぐっているというよりも寧ろ「くすぐらされている」。今この瞬間だけではない。計画の段階から、ずっとジェシカは主導権を握っているのだ。知り合って10年ほどになるが、この女の圧倒的なサディスト気質を改めて目の当たりにし、密かに動揺した。
 しかしこれでは余りにも楓が可哀想ではないかと、ライリーは忠告した。
「ジェスったら、もう少し手加減してあげても良いんじゃない?」
「私が何を手加減するって言うの?手足を拘束されているのに?」
「もう―――カエデ、気持ちで負けたらいけないわ」
「そんなこと言ったって、効かないんだもん」
「そんなに早く諦めてもいけないわ。効かなかったからってすぐに場所を変えるのは勿体ない」
「ちょっとライ」
「同じ場所でも触れ方を変えたら効くかもしれない。爪か、指か、その間か。覚えておきなさい、指先は使い様」
 ライリーのアドバイスが功を奏し、楓はめでたくジェシカから反応を引き出した。
「やるわね、カエデ」
「それしか言えないよね?いつももっと、これの何倍もひどいこと私にしてるもんね」
 この発言には驚かされた。ジェシカも同意見らしく、目を丸くしてライリーを見つめてきた。これは紛れもない言葉責めである。
「あらカエデ、そんなこともできるようになったの?」
「どういうこと?」
 楓に自覚はないのだろう。それだけに、これほど挑戦的な言葉が自然と楓から出たことは私たちには驚きであった。
「ライリーの教育が良いのね」
「私は何も教えてないわよ。あなたじゃないの、ジェス」
「たしかに私は色んなことを教育してるわ。ね、カエデ?」
「え?色んなことって、私がジェシカから教わってることなんて――」
「何?私に何を教わってるか、ちゃんと言いなさい?」
「やだ!言わない!」
 この話術にはライリーも舌を巻くしかなかった。たとえ楓が言葉責めをしようとも、結局は楓を責める方に会話を持っていく。いたたまれずもう一度くすぐる楓にジェシカは言った。
「ダメよ、そういう使い方をしては。自分の苦し紛れに人をくすぐってはいけないわ。くすぐりは相手を苦しませるためにするのよ」
 弱点を見つけられた悔しさをきついくすぐりで返しておいてどの口が言うのかしらと、ライリーは内心思った。
「じゃあもっと苦しんでよ」
 そう言って楓も懸命に挑むが、実はもう効く場所はないのだ。ジェシカは脇腹と、足の裏に少し反応があるだけで、あとはほとんど効かない。
 「もっと苦しませる」目的でくすぐった脇は全く効かず、それはつまり自分は脇が弱いのであるという楓の自己紹介となってしまった。
「あなたとびきり弱いものね、脇?」
「えっ、違っ、なにっ」
「何が違うの?あ、そうか全部?ごめんなさい、全部弱かったわね」
「もう!」
 助けを求めるようにこちらを見た楓をライリーはフォローすることができなかった。
「笑わないでよ、ライリー」
「ごめんなさい、カエデ」
 拘束すべきはこの女の手でも足でもなく口であったと、ライリーは今さら気づいた。
 仕返しをしているのに、くすぐっているはずなのに、始めからずっと、一度たりとも、楓が主導権を握れたことはない。責め側に回ってもなお翻弄される楓をジェシカは見たかったのだと、ライリーは漸く理解した。
 そんなことを思っていると、ジェシカが意味ありげな表情でアイコンタクトを送ってきた―――私もそろそろだと思っていた。
 ジェシカは自分の手を見て、何かを掴むような仕草をした。次に楓を、そしてライリーを、最後に手枷を少し引っ張った。
 ライリーには分かった。タイミングを見計らってジェシカが楓の手を掴み、その間にライリーがジェシカの手枷を外し、形勢逆転を図るということだ。サインはジェシカの方から送ってくるだろう。
 楓はジェシカの脇腹をくすぐって嬉しそうにするが、
「やっぱりここは弱い!ここがいちばん―――というより―――ここしか弱くないんだね」
 どうしようもない事実に気づいたようだ。これまでもそれほどあった訳ではないが、目に見えて分かるほどに一気に楓から覇気がなくなった。
「ねぇ、無理だよライリー。ジェシカ、強い」
「諦めるの?」
 とは聞くものの、これ以上やっても同じことだろう。
「そうじゃない。難しすぎるってこと」
「難しい?」
「だってそうでしょう?強い人をくすぐる方が難しいに決まってるもん」
 楓は頭を抱えるように額に手を当てた。そして信じられないような言葉を放った。
「私がくすぐりに弱くて良かったね、ジェシカ」
 こんな煽り文句は聞いたことがない。煽っている自覚などない様子であるのが一層罪深い。思わずジェシカを見ると、ライリーと全く同じことを思っているのが分かった――カエデには敵わない。
 次の瞬間、楓の手首をジェシカが掴み、ライリーと合ったその目が言った。
『今よ』

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