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実家の犬が旅立ちました

2月12日、実家の犬が亡くなりました。14歳、人間でいうと70歳くらいでしょうか、まだまだ元気に生きていてほしかった。

年末に帰省した時、左前足を庇うように歩いていたものの、自分から散歩にも行きたがり、食欲もあって元気でした。いつもの散歩道を、何の迷いもなく突き進む姿、わんちゅ~るを嬉しそうに食べる姿、大好きなジャーキーを遠くまで持っていって安全を確保しながらモグモグする姿、全て当たり前の光景でした。

ただ、昔に比べて眠っている時間が増えたこと、関節炎の症状が出始めていること、目が白濁して耳が遠くなったこと、抗えない「老い」がすぐ近くまでやってきている、その足音に気付かないふりをしながら。

2週間ほど前だったでしょうか、「立ち上がることが出来なくなった」両親から連絡が来たのは。散歩に行くため犬舎を飛び出るやいなや、尻を低くして、めちゃくちゃに走り回っていた、あの愛犬が立ち上がることが出来ないなんて。

関節を触っても「痛い!」と鳴くことはなく、患部が痛むというより、足に力が入らないという感じだったそうです。何度も病院に連れて行き、薬や点滴をしても症状は改善されず。寝たきりになったものの、最初のうちは食欲があり、ご飯をたくさん食べていたようです。

もしや、電気毛布に包まりご飯を食べるという至福の時間を堪能しているだけなのでは?と思えてしまうほど。愛犬が居なくなることが想像できないあまり、暖かい春の訪れと共にきっと関節炎も治まって、また立ち上げれる日がくるはず、そう思いたくなってしまうほどに。

まだ大丈夫、そう思っていた矢先、一昨日からご飯も食べられなくなりました。身近に死を経験したことのある人なら分かる、「ご飯を食べなくなった」が指す意味。お願いだから、今年の冬が終わって桜の蕾が芽吹く、肌寒いながらも嬉々として、新しい季節を迎えるその時まで、どうか生きて。

表現しにくい感情を押し殺しての数日間。昨晩22時、両親が様子を見に行った時は、顔を上げてこちらを見てくれたそうです。それが最期になりました。今朝8時、愛犬が亡くなった知らせが届きました。

昨日の日中、両親は実家から1時間ほど離れたわたしの住む家に来ていました。家に残した愛犬が心配と、所用を済ませてすぐに帰って行きましたが、「ゆっくりしてくればいいのに、まだ逝かないよ」もう神様と相談してあって、1日だけ旅立つのを待っていてくれたのかもしれません。

今日は両親の仕事が休み。明日は、動物病院へ点滴を打ちに行く日。「今までありがとう、もう大丈夫だよ」最期の最期まで、本当に良い子でした。


愛犬が家にやってきたのは、14年前の春。先代の犬が亡くなってから7年ほどが経った時、両親にとって最後の犬を迎えることになりました。

何頭もいる犬の中で、騒ぐことも吠えることもなく、良い子に座っていた愛犬に、母が一目惚れ。我が家に、子熊のような顔をした、黒いモフモフのベビーがやってきました。

当時、わたしは大学生でひとり暮らしをしていました。実家に帰省するたび、愛犬と遊び…というよりも、どちらかと言えば遊ばれて、散歩させられていたように思います。そのくらい元気でヤンチャ、でもとても賢い子でした。

祖母がリードを持つ時は、絶対に引っ張りませんでした。数歩後ろを歩く祖母の様子を気に掛けながら、ゆっくり一歩ずつ歩く。その様子を祖母が嬉しそうに、そして誇らしげに語る姿は、今でも忘れられません。もう少ししたら、そちらに愛犬が行くと思います。しばらく散歩してあげられないから、たくさん遊んであげてほしい。

愛犬は、どんな時でも、いつも変わらず接してくれました。嬉しい時も、悲しい時も、耐えがたい時も、心が張り裂けてしまいそうな時でも。大学から一人暮らしをするわたしとは、一緒に暮らしたことは無くても、わたしたちは家族でした。


急に具合が悪くなったときに、顔を見に行っておけば良かった。そう思わなくもありません。

それでも、わたしの身勝手と言われればそれまでですが、来週から怒涛の仕事ラッシュが始まります。気持ちが途切れて、立ち止まってしまったら、一気に崩れてしまう、そんな感覚さえあります。

そんな中、わたしの知らない愛犬の姿を目の当たりにして、ひとり切ない想いを抱えて戻ってくる、その気持ちを抱えながら奮起できるほど、きっとわたしは強くない。それなら、全て落ち着くまで、愛犬の生きる力を信じよう。そう思うことにしました。

結果的に、わたしが知る愛犬は、左前足を庇いながらも元気に歩く姿が最後になりました。それで良かったのだと、そう思える日までもう少し時間が掛かりそうです。

命あるものは、必ず尽きる。その瞬間は突然やってきます。自分にとって大切な人を、大切にできる、その時間にさえ無限ではない。でも、有限の中にこそ、本質があると教えてくれました。

しばらくは思い出して泣いてしまうし、残された実家の両親も心配です。でも、後ろを振り返るのは、愛犬が後ろを歩く祖母を気に掛けていた時のように、決して悲しいものではなく、温かな視線が溢れる瞬間でありたい。

最期の最期まで賢くて、良い子だった愛犬。天国では思いっきり走り回って、美味しいご飯を食べて、たまにわんちゅ~るも貰って、また私たちを見つけてほしい。この広い世界の中で、出会ってくれて本当にありがとう。


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