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「ご機嫌と願望実現」第22回コア学ゼミ(2021年6月)


この記事は

毎月開催されるコア学研究所の講義を書き起こししたテキスト(有料記事)となります。

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ご機嫌と不機嫌の関係

今回のコア学ゼミでは、サロンに引き続き「欲求とご機嫌」をテーマにやっていきます。最初に私が大事だと思ってることをお話しすると、ご機嫌の反対は不機嫌ではない、ということです。ご機嫌と不機嫌は正反対に位置していないというのが、今回1つ目の大事なポイントとなります。

例えば、自分がやって欲しいことをやってもらえないから不機嫌になると思いがちですが、そうではないんです。逆に言うと、やらないで欲しいことをやらないでくれたらご機嫌かっていうと、そんなことないですよね。ご機嫌と不機嫌をついついセットで考えてしまいがちですが、全然別物です。
  
不機嫌の種をどんどん取り除いて、イライラするきっかけをどんどん避けて踏まないようにしていけば、ご機嫌でいられるかといったら、そんなことないと思いません?不機嫌を回避したところで、ご機嫌になるわけではないんです。

逆に言うとご機嫌じゃないからと言って、不機嫌なわけでもありませんよね。嬉しいこととか楽しいことがないから不機嫌になるわけでもありません。なので、ご機嫌と不機嫌をつい一緒に考えてしまいがちですが、全く違うってことをまずは知っておいてください。

最初のポイントは、不機嫌な時に起きてることと、ご機嫌な時に起きてることは全然違います。違う分野で起きていることであって、正反対ではない、対義語ではありません、ってことです。

前回のコア学サロンの復習になりますが、自分のエネルギーとか感情とか、自分の空気を使って相手をコントロールしようとする状態が不機嫌な感じになります。

ムスっとして、自分が1番!なんで自分の言うこと聞かないの? みんな動いてよ!みたいな不機嫌な状態は、自分の中にリベンジ欲求があります。自分の中で達成できなかった願望や叶えられなかった願望に、復讐つまりリベンジしようとします。そういった過去の映画の映像、ストーリーが自分の中で流れているだけ、というお話をしました。

ですから、自分の中にある「どうせそうじゃないだろうけれど、もしかしたらそうかもしれない」というリベンジ欲求って、誰かの愛を確かめてみるとか、自分は愛されているか確認するとか、疑心暗鬼なことを確かめるとか、不機嫌な時ってそういう感覚です。逆にご機嫌な時は一体どんな時?ってことを話しながら、欲求について深掘りしていきたいなと思います。


願いが叶うってどういうこと?

ご機嫌な時、潜在意識でどういうことが起きてるかというと、自分の本当の願いに気づいただけで、すでに私達はご機嫌なんですね。自分の本心とか、本当に言いたいこと、本当に食べたいもの、本当に行きたい場所、本当にやりたいこと、本当に着たい服、本当に話したいこと…というのは、その瞬間その瞬間、自分にとって一番の真実の願いです。

願いにはいくつか種類がありますが、ここでは今その瞬間にリアルに抱いてる願いのことを本当の願いと表現しています。その願いと繋がった時やその願いに気づいた時、私達はご機嫌になるんですね。

つまり願いが叶った時にご機嫌になるわけではなく、叶ってなくても気づいただけで、実は人ってご機嫌になるんです。ご機嫌かどうかは、その瞬間その瞬間の真実の願いとどれだけ繋がっているかどうかが、1つのバロメーターになります。

皆さん、自分のこととして振り返って欲しいんですけど、 私の話をすると、いつも行ってる美容室が終わった後、何か食べて帰ろう?何を食べようかな?って思った時に、お寿司食べたいと思ったんです。お寿司食べたいって思った瞬間、もうご機嫌でした。

お寿司食べたいって気づいて、頭の中がお寿司でいっぱいで、お寿司~お寿司~お寿司食べたい♪どこのお寿司食べようかな~って経験、皆さんもありませんか?

お寿司を食べたいってことがその瞬間の真実のリアルな願いで、この願いに気づいた時点でご機嫌でした。お寿司を食べる瞬間までのプロセスも、全てご機嫌の連続だったりするんです。お寿司の口になった時点で幸せってことありますよね。

あとは、言いたいことがなかなか言えない時や、言えるけど微妙にモヤモヤが残る時に、最適な気持ちを表現してくれる言葉に出会ったり、そういう表現を誰かが話すのを聞いたりした時、ご機嫌になったりしませんか?わかるわかるー!あるあるー! って、すっきりしてルンルンする感じです。

自分が伝えたいことが言えなかった時はモヤモヤしてたけど、 本当に伝えたかったことを、どこかで誰かが言うのを聞いた時点でご機嫌なんです。自分がそれをできなくても、自分の本当の願いに気づいたことがまずご機嫌なんですよ。そういうものや言葉、人に出会うと、結果とご機嫌は関係ないんだって不思議とわかってくるわけです。

こうしたかった、ってわかっただけですっきりするし、ルンルンしますよね。自分の願いがわかって、たとえそれが今の自分には叶えられない願いだったとしても、それだけでルンルンなんですよね。

食べ物の例でいうと、今日のお昼ご飯は、タイ料理食べようかな?中華食べようかな?そうだ、お蕎麦食べよう!って思って、お蕎麦のことでいっぱいになった瞬間ルンルンだよね。

脳みそってイメージできたことと体感したことの差分がないので、イメージができた時点で既に体験してることになるんです。なので、本当の願いに気づいた時点で、私たちは内的な空間ですでに体験してることになります。

ここまでは皆さんあるある!わかる!って思ってもらえたと思います。大事なのはここからで、そのうえで重要なことは、自分の真実の願いと繋がった時にご機嫌になるのですが、真実の願いは瞬間瞬間で変わっていくものなんだってことです。

ここが面白いポイントで、お寿司食べたい!ルンルンってなって→お寿司お寿司♪って歩いてたらお寿司屋さん見つけて→ここ大好きだったんだーってお店に入って→メニュー開けた瞬間、あ、食べたいものないな…って、そういうことありませんか?

あんなにお寿司食べたくてルンルンしてたのに、実際目の前にお寿司が来たら、そこまでご機嫌じゃなくなったけど、その上でどれにしようかな?どれ食べたらご機嫌かな?って、自分の感覚を大事にしながら、いつもご機嫌をチェックしてます。

そうすると不思議なことに、お寿司食べたいルンルン♪っていうのと、目の前のお寿司を食べるかどうかは関係ないので、食べずに帰ってきてもご機嫌なんです。

私達は大人になってくると、「〇〇をしたい」って願いと「○○をした」って結果が繋がらなきゃいけないと思いがちなのね。お寿司食べたいって願ったら、お寿司を食べる結果まで到達しなきゃっていう、謎のプレッシャーをかけることがあります。

ここでポイントなのは、今自分が言ってる真実の願い、本当の願いは何なのかっていう定義や考え方を今一度切り替える必要があるわけ。願いに気づいた時点では完了していなくて、叶えて現実化させるところまでやらないと本当の願いじゃない、みたいな何かがあるんですよ。

さっきのお寿司の話だったら、お寿司食べたいな→お寿司屋さんに行った→メニュー開いた→そんなに食べたくないな… ってなってはいけない、みたいな。欲しい欲しい!と思って探して買ったけど、なんだか使わないまま…ってこと、ありますよね。

真実のリアルな願いって一瞬一瞬すごく新鮮なものなんだけど、ずっと継続したままちゃんと完了させないといけないってプレッシャーがかかった瞬間、私達の心は曇っていっちゃうんですよね。これが不機嫌になることと関係してきます。

今回一番重要なポイントなのでしっかり押さえてもらいたいのですが、ご機嫌な時はどういう時かっていうと、自分の本当の願いに気付いた時なんです。ってことは、ご機嫌でい続けるとはどういうことかというと、本当の願いに気づき続けることがご機嫌でい続けるってことなんです。

願いを叶えることがご機嫌でい続けることではありません。その時その時の自分の真実の願い、本当にリアルな自分の願いに気づき続けることがご機嫌でい続けるということなんです。

なのに、願ったら叶うまで願いを持ち続けなきゃいけないとか、いつも同じレベルで願い続けなきゃいけないっていうプレッシャーや思い込みとか、自分に対する謎の欲求から自分で自分を窮屈にしています。叶わせることへの呪縛ですね、呪いです。

やりたいって言ったからには最後までやりなさい。好きって1回言ったんだから死ぬまでずっと好きでいなさい、みたいな呪いですよね。叶えるまで好きでいることの呪いみたいなね。


謎の責任感から不機嫌がはじまる…

例えば、私がお寿司を食べたいっていうのはリアルだったの。リアルすぎるぐらいお寿司を食べてたんだよね。お寿司を食べたいなって思って、お寿司屋さんに向かったんだけど、途中にたこ焼き専門店が現れたの。その瞬間、わー、たこ焼きも食べたいって思ったの。

さっきまでお寿司を食べたいのが本当の願いだったのが、たこ焼き専門店を見ちゃったらたこ焼きも食べたくなって、この瞬間、私の本当の願いはお寿司もたこ焼きも食べたい、に変わってるんです。

お寿司じゃなくてたこ焼きが食べたいに変わった、って考えるとややこしくなっちゃうんだけど、違うの。お寿司もたこ焼きも食べたいって変わったんです。お寿司もたこ焼きも食べたいっていうのが真実です。それの何が悪いの?って話で。

お寿司も食べたいし、たこ焼きも食べたい、どっちも食べたい。どっちにしようかな。私は今、お寿司を食べるかたこ焼きを食べるかで悩んでいる。これも真実の自分、その時のリアルな自分です。

その時のリアルな自分は、たこ焼きにするかお寿司にするか真剣に悩んだの。これが私の真実です。でも、真剣に悩んでしばらくしたら、やっぱりお寿司食べたいからお寿司を食べるって欲求に変わったわけね。

だから、その瞬間その瞬間のリアルな欲求に自分の意識を向けていると、一瞬たりとも気が抜けないってことがわかってきます。そこまで真剣にやらなくていいんだけど、自分の欲求の微細な変化を観察してみて欲しいんです。マインドフルネスですね。

○○が好き。△△も□□も好き。××も☆☆も好き。でもやっぱり〇〇が好き。☆☆が好き。って、欲求の種類コロコロ変わるんですね。変わっても最初の欲求に戻ることもあるし、いろんな変化が瞬間瞬間あるのに、私達は1つの願いを主張したり認識してしまうと、それが叶って現実化するレベルまで手離してはいけないって思いがちなんです。これが不機嫌の始まりなんですよね。

願いを持ち続けるって、実は惰性なんです。自分の真実の願いに素直になるためには、その瞬間その瞬間の変化に対応していくってことなので、以前言った願いが変わる可能性は十二分にあるわけ。でも、自分がその責任を持つ覚悟がないと、自分の欲求の変化を無視しちゃうんです。

無視してしまうと自分にプレッシャーを掛けたり、とっくに気持ちは冷めてるのに、1回願ったから最後まで叶えなきゃって蓄積しちゃったり、自分の中に課題が残っていきます。過去に願ったことが頓挫して叶えられてないって溜っていくと、自己嫌悪感とか自分は何もできてないって感覚でいっぱいになるんです。

もしかしたら今も、中学校の時の願いとか3歳の時とか先月願ったこととかに対して、最後まで成し遂げなきゃっていう謎の責任感で、頭の片隅にプレッシャーとか課題意識がずっと残ってる気がしませんか?

そういうものが偽物の欲求に変わったり、皆さんの中で「ねばべき」に変わっていったりするんですね。かつての自分が願ったことは、かつての自分であって、今の自分の願いは真実ではない、ということです。

真実ではないことを受け入れられない、受け入れるのが怖い。昔あんなに願ったことを今の自分は願ってない。あんなに思ってた欲求が今の自分にはない。ってことを受け入れられない。だから、今はもう思ってないのに思ってる風に引きずって、やるべきタスクが溜まっていくわけです。

1つおすすめしたい考え方があります。欲しいと思って探して探して見つけて、レジで買おうとした瞬間、満足してしまった。 だけどレジの店員さんに、ごめんなさいやっぱり買いませんって言えなくて買ってしまった。そうすると買った時点で満足しちゃってるんだよね。だから使わなくなっても、自分を責める必要は全くありません。学びにしたらいいんです。 

なるほど、あの時本当はあそこで私は違う欲求に変わっていたんだけど、欲求が変わったことを受け入れずにそのまま継続してしまったから、服とか靴とかバッグとか使わない状態でいるんだな、教えてくれてありがとう。そういった意味で自分の行いが間違いだと思われるかもしれないけど、自分でそこに責任を持ちますって言えば全然大丈夫です。

自分を責めるとか自分が買っちゃった、やっちゃった、言っちゃった、続けちゃったっていう罪悪感が一番もったいないので、そういう気持ちはどんどん置いていってください。

人って言い訳しちゃうことがあるんですね。実はただ欲求の種類が変わっただけなのに、そこに余計な情報を乗せると、それを他人がキャッチしてモヤモヤしちゃう傾向があります。

最初はバナナ食べたいって思ってたのに、後からバナナ食べたくなくなっちゃって、その次はリンゴ食べたくなっただけ。でも、なんで?って聞かれたら、単純に私の欲求がバナナからりんご食べたいって変わっただけだよ、とは言えない。

自分の本当の欲求の種類がちょっと変わっただけなのに、真実じゃない言い訳を挟むから、全体に重くなるんですよね。真実は本当はシンプルで欲求の種類が変わっただけ、気分が変わっただけなんです。しょうがないじゃん本当に欲求が変わっただけなんだから。でも、それに対して言い訳を挟むと一番他者に伝わるんです。

他人にはなぜか言い訳の部分しか伝わらないので、嘘くさく聞こえたり、言い訳がましく聞こえたり、双方がすごく嫌な思いをしてしまうことがあるから、こればかりは自分で自分の欲求の変化に対する覚悟を決める。自分で自分の欲求に対してどう変わろうが、何が起きようが、自分で責任をとる覚悟を決めていくことがポイントになります。

もっと言うと、言い訳したいなら全力でしましょう。面白いことに言い訳も覚悟して言ったら全然問題ないんです。覚悟して言い訳するといいですよ。そうすると良い言い訳ができます。


ご機嫌でいれば願いは叶う!

とにかく自分の欲求は、常に微細に変化し続けてることを受け入れる。そして自分の欲求が微細に変化することを許可する。許可すると、自分で自分の本当の願いの声を聞いてあげることができるので、人に要求するとか人に期待することがなくなるんですね。逆に今この瞬間のリアルな欲求は何かって気づく覚悟がないと、人に対して「察して!」ってなっちゃうんです。

自分の中で覚悟がないから→他人に察して欲しい→他人に察してもらえないからイライラしたり不機嫌になる→過去に叶えられなかった物語の映画の上映が再開される、みたいに悲劇のストーリーが始まってしまうわけなんですよ。

だから、その瞬間その瞬間の自分の真の欲求に対して敏感でいる。誰よりも先に私がその瞬間その瞬間の本当の欲求、真の欲求に気づくことを許可していく。それだけでご機嫌でい続けることが楽になります。

みんな何をすればご機嫌になるのかって「what」で考えがちなんですね。そういうことでなくて、その瞬間その瞬間のリアルな欲求に気づくことでご機嫌になるので、気づき続けることが一番大事です。叶えなくていいってことなんだよね。気づくだけで叶った状態になっちゃうので、気づき続けることで自分はご機嫌にい続けることになります。

例えば私、タクシーに乗った時に運転手さんがすごく嫌だった場合、乗り続けるか悩むことが結構あるんですよ。その時の自分にとってリアルな欲求、真の欲求は何?って気づこうとして意識を向けた時に、タクシーをその場で降りて、違うところでもう1回 タクシーを拾うこともあります。

もっと言うと、散歩に行きたいと思って散歩に出かけて、気持ちいいな、ルンルンって散歩しているとします。その時の自分のリアルな欲求は歩くことだったんだけど、ある瞬間、立ち止まりたいって瞬間が来て、散歩中に何もないところで立ち止まってぼーっとしたりするんですよ。自分のその瞬間瞬間のリアルな欲求のイメージがパンって変わる時があるの。その時はなるべくそれに忠実に生きるようにしています。

人から変だと思われたりすることもあるし、現実的に考えたら無駄な時も結構あるし、このぐらいまあいいかって済ましちゃうこともあります。だけど、自分の欲求は白黒はっきりしてるわけではなく、グラデーションなんだって受け入れて、大きく変わることはないけど微細に変化することを常に自分に許すって感じですね。

散歩に出かけることは変わらないんだけど、歩くスピードをちょっと変えたい時もあるし、 歩いてたら急に立ち止まって深呼吸したい時もあるし、でも気持ちよく歩きたくなったら歩く。結構変わります。

私はこれを仕事でやってることも多くて、本読みながらノートに書きながらタイピングしながら別の本読みながら…とか普通にやります。その瞬間その瞬間の自分に沸き起こってくるシンプルな欲求に忠実にやります。たまたま入った店が妙に居心地悪くて、席に着いたけど出ちゃったことあります。そういう時は全力で言い訳をします。
  
ある洋服を着て出かけたんだけど、どうしてもその洋服がダメだと思って、帰って着替え直したこともあるし、靴下がダメってコンビニで靴下を買い直したこともあるし、デートの直前にこの下着は嫌だって下着を買いに行ったこともあります。でもそうやって自分のリアルな欲求に気づき続ける生き方をして、大きく損をしたことはあんまりないです。

重要なことをおさらいします。自分のご機嫌な時って、自分の真の欲求って言うとちょっと大きなイメージしちゃうけど、ここで言う真の要求って、リアルな要求のことなんですね。

ハイヤーセルフがやりたいこととか魂がやりたいこととか、そういうレベルやそういう意味での真の欲求ではなく、リアルに今自分がやりたいこと、今リアルに自分が持ってる欲求、例えば好きな食べ物がオムライスとしても、毎日オムライスが食べたいわけじゃなくて、今日は焼肉が食べたいとか、そういうこといっぱいありますよね。

なので、好きなものとかやりたいことと、あなたの今のリアルな欲求は全然種類が違うし、違っていいってことだし、そこを一緒にして考えない方がいいってことです。

ただ自分のコアが願ってること、自分のコアがやりたがってることは、自分の真の欲求、その瞬間その瞬間のリアルな欲求にちゃんと従っていれば絶対叶うようになってるんです。

潜在意識からやってくるリアルな要求なので、直感と言ってもいいですし、インスピレーションって言ってもいいんだけど、 その順番は私たちの脳みそでは捉えることができないので、結構よくわかんない順番で来るわけだけど、それは絶対に最適な手順とか最適な順番です。

自分のその瞬間その瞬間のリアルな欲求は、1個1個取っていけば本当にやりたかったことにパンと出会ったり、パンと叶ったりするんです、絶対。そこが信頼できるかどうかも重要かなと思います。

そういう風に自分のリアルな欲求、その瞬間瞬間の真の欲求は微細に変化し続けていいんだ、変わっていいんだって許可を出したら自分で気づいてあげることができるので、人に察してもらおうという気がなくなります。

人に察してもらおうという気がなくなると、相手をコントロールしようとしなくなります。相手をコントロールするのは無理で不可能なことなので、イライラもしますよね。でも、相手をコントロールしようとしなくなるのでイライラもしないです。ただし、自分で気づいたリアルな欲求を叶えようとするのはストップしてください。大事なのは自分のリアルな欲求に気づくことです。

さっきのお寿司の話だと、お寿司食べたいな~、お寿司お寿司♪ってやることが大事ってことです。気づき続けることが大事です。お寿司お寿司♪って続けていると、少しずつ変わってきます。お寿司食べたいお寿司食べたい→この辺の近場でお寿司食べたい→近場のあそこで寿司食べたい…って、この変化伝わりますか?

お寿司お寿司♪からだんだんリアルな欲求に変わって→わざわざ遠いところのお寿司は食べたくない→この近くで食べたい→近場ならあのお店のお寿司を食べたい→実際にお寿司屋さん入ってメニュー開いたらそんなに食べたいわけじゃない→でも、この中ならいくらとアナゴとサバが食べたい…って、1個ずつ1個ずつしっかり連れてきて叶えていきます。

自分の中にある「1回願ったことは必ずコンプリートさせなきゃいけない」というプレッシャーをぜひ外してください。


大切なのはあの時のリアルな感覚

皆さんに今から考えて見つけて欲しいのは、今の日常、今の仕事、今のおうちの中の物、お洋服、なんでもいいので、コンプリートしなきゃいけないっていうプレッシャーだけで持ってるタスクみたいなものは何かありますか?
1回言ったからやらなきゃいけないと思い込んでることとか、1回願ったら吟味したり観察したりせずに、最後まで続けなきゃいけないって思ってるものはありませんか。

やりたいと思って買ってみたけど部屋に放置されてるギターとか、行きたいと思って入会したけど全然通えてないトレーニングジムとか、やりたいと思って手を出したものの全然参加できてないプログラムとか勉強とか。積ん読もそうですね、私も積ん読たくさんあります。この時点でまだ自分を責めてませんか。この先が大事です。

たしかに願った、たしかに欲しいと思った、いつかの自分にとっては真実の願いだった。だからそれを買った、手にした、始めた、取り組んだ。その時の欲求は、その時の自分においてはリアルだった。でも、今の自分にはリアリティがない。だけど、手放せてないものとか、頭の片隅やお部屋の片隅にあるものとかありませんか。

編みたいと思って買った編み物のキットとか、学びたいと思ったけど進んでない教材とか、後で見ようと思って保存したままのパソコンやスマホのスクショとか、ありますよね。

そういうのって、自分の中で無意識に見ないようにしてませんか?ちょっと目を背けたくなる時ありませんか?実は目を背けてる状態が一番自分に対してゴミを溜めてしまうことになるので、逆に見た方が楽なんです。

編みたいと思って買った毛糸を袋から出してない場合、自分が願ったことなのに、完了していない象徴として毛糸玉が残ってるように思っちゃうでしょ。そうすると毛糸玉を見なくなっちゃうし、押し入れにしまったままになっちゃいますよね。それをむしろ積極的に開けてよく見てあげるんです。

毛糸の例で言うとね、毛糸を見ながら「これ私、あの時すごく編みたいって思って買った毛糸だ」って、リアルに編みたいと思って買った時のことを思い出してみて欲しいの。なんとなくでいいのでね。

この先もまた同じような感覚でこの毛糸で編みたいって思うことあるかな?って感じてみて、編みたいと思ったらとっておいて。やろうと思って始めたオンライン瞑想とヨガも一緒です。進んでないな、置いてかれてるなってウジウジしてたら、積極的に自分の過去の願望の残骸を見てあげましょう。

過去の残骸を見てあげた時、あの時すごくやりたかったなって願望の欲求の気持ちに寄り添って戻ってあげる。戻ってあげたら、瞑想やりたかったなー、ヨガやりたかったなーって、まずそこでルンルンってご機嫌になるじゃん。

そしたら、これから先、同じような気持ち、同じような欲求を抱くことあるかな?って、想像してみてください。ありそうだと思ったらとっておいてください。なさそうだと思ったら感謝して、お役目ありがとうございましたって言って、さよならしてください。

毛糸を編みたくなりました?でしょ?そういうことなんです。そこで罪悪感から適当に断捨離しちゃうと結局また毛糸買っちゃうんだよね。買っては編まないから捨てて、買っては編まないから捨てて、同じこと繰り返しちゃうの。

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