たくさん、たくさ〜んと言いますけども

宅八郎には、僕らの世代は思うことがあるはず。
たぶん、正確には僕よりひとつ上の世代なんだろうけど。

宅八郎を知ったのは「元気が出るテレビ!!」だったと思う。
このnoteのタイトルは「元気が出るテレビ!!」で
島崎俊郎か高田純次が言っていた言葉だ。
僕が小学生だったか、いわゆるゲームやアニメや漫画といった
オタク的なものが好きだった自分には「壊れた大人」に見えた。
「元気が出るテレビ!!」以外でも
当時もっとも触れていたメディアである
テレビを中心に宅八郎を知っていくのだけど
その印象は「俺とは違うオタク」であり
それは差別意識ではなく、特別視でもない
違和感だったのを覚えている。

彼のトレードマークであった
森高千里のフィギュア、マジックハンドなどなど。
そこに整合性がなく、オタクの皮をかぶった“なにか”な
感じがしていたのだ。
いまはこうして言語化できるけど、中学の思春期であった
僕は「あいつはオタクじゃない」とでも言うような
「なにか違う」という気持ちだったのを覚えている。

それが決定的になるときが来る。
たしか、とんねるずの「生ダラ」だったかと思ったが
宅八郎が子供と交流を重ねるという連続企画があった。
たしか好評な企画だった記憶がある。
そこで子供と話すときに宅八郎はライジンオーのお面をかぶり
ライジンオーのOPのサビを歌ったりするのだが
その中で「ライジンオーを見ていたら絶対にしないこと」を
していて、子供にすらそれを指摘されていた。
番組内では「子供に指摘される」みたいな感じで微笑ましいような
感じになっていたが、その瞬間に、自分の中にあった違和感が
一気にむき出しになった。
オタクなら、絶対に自分の範囲外の下手なことはしないハズだし
自分の範囲内であんなミスをしない。なんなら、「ライジンオー」だぞ?
と一気に言語化され、宅八郎は「オタク的なものが好きな人」であり
ステレオタイプなオタクという想像上の「人あらざる人」を
具現化したものなのだと感じて、見る目が変わった。
宅八郎は「オタクが好きな代弁者」なのか「キャラ」なのか
それとも「まったくオタクなものが好きでもないもの」なのか。
それはわからないけども、彼は「オタクではない」んじゃないかと。

同時期に、僕はSPA!を読んでいる。
このとき、宅八郎がSPA!のオタク特集などを担当していたとは
知らずにいて、それを知ったのは随分あとだ。
ただ、宅八郎は文章を寄稿したり、座談会に出ていたりして
それを(半分嫌悪感がありながら)読んで
当時、クソガキの自分なりに感じたことは
そこにいる宅八郎は描かれたもの、だった。
オタクという、それまでマニアや好事家、蒐集家とされていた人が
メディアの多様化によって新たに産まれた層。
それは理解し難いものとして社会の嘲笑なり好奇の目で見られる。
それを体現するフリをして、自分たちの世代が抱える問題を
さも、語っているように見せる。
考えがあることは間違いないだろうけど
僕とは違うオタク的なオタクではない人。
はたして、彼はなんなんだろうか。
その後の宅八郎は、いざこざや問題行動によって
どうでもいい人、になり
僕の観測範囲から消えていくのだけど
いま改めて宅八郎が書く文章を読むと
実に90年代的なテイストあふれる文体と「」の使い方に驚かされる。
この文章に少なからず僕は影響を受けているのだなと思った。
あの当時、読んでいても大きな共感は得られなかった文章は
はたして、じつは「現役オタクではない、外に向けたオタクの文章」
だったんじゃないのかと思い始めている。

結局、宅八郎はなんだったのかと自分なりに思えば
諸刃の剣だったんだろうと思う。
「キモいオタク」であり「意見をもつオタク」
オタクの理解者であり、オタク的な側面はあったのだろうけど
「オタクとしての仁義」より「オタクとしてのキャラ」を選べる人。
功罪は、僕にはわからないけど少なくとも、もう少しオタクでなければ
そして、ちゃんとしたオタクであったならば
ちゃんとした論客になれたのかもしれないなあと思いつつ
いつかちゃんと「当時の話」をインタビューしてみたかったなと
いま改めて感じています。
あの人は、なんだったんでしょうね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?