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そういえば、と思って。
以前思ってたことを書こうと思います。
本当は企画書を書いていたんですけど
どうもイマイチだったので気分転換に書きます。

なにを以前に思っていたかというと
なぜ、松本人志の映画は盛り上がらなくって
北野武の映画は評価されるのか。
ここ大事。盛り上がる盛り上がらない、じゃなくて。
盛り上がらなくって、と。評価されるのか。

これを感じた瞬間が
以前に徹夜明けに野暮ったい食堂を見つけて入ったんですよ。
店内に僕とおばちゃんのふたりきり。
厨房からは僕の生姜焼きを作っている音がする。
おばちゃんと僕の見つめる先にあるテレビには
『キッズ・リターン』が流れていたんですよね。
静かな店内に流れる『キッズ・リターン』のセリフ。
おばちゃんは画面を眺めている。
その風景を見たときに「あ〜」と思ったことがあったのです。
北野武の映画と松本人志の映画はなにが違うのかっていうことに。
松本人志の映画はシチュエーションであって
人はそのシチュエーションの中でどう面白くいられるかが
主軸なのだと思うんですよね。
いまの松本人志の諸々の発言とかバラエティにおける行動とか
そういったものの根源にあると思うんですけど
「こうなったらどうなるか」が大きい。
そこに面白さとか、意外性とかがあるんだろうと。
これはステージなりコントなりテレビなりだと
とても強いと思うんですけど、映画になると
そこに観客の理解度というものが必要になるんだけど
この理解度っていうのが松本人志にとってはかなりのカセなんですよね。
たぶん。
通常、松本が表現する場所には、そこに松本の世界を翻訳する人がいる。
相方の浜田であり、今田なりが。それによって笑いに転嫁できるし
それによって「その世界のすごさ」が見えてくるんです。
なんだけど、その元を離れた瞬間に翻訳されない言葉が
ニョロニョロと出てきて一気に「あれ?」となるわけです。
そして、「面白くない」とかって盛り上がらない感じに。

一方、北野武もビートたけしとして
相方のビートきよしの「やめなさい」があって
初めて毒ガスになりえたんだけど、ビートたけしのすごいところは
自分で自分をツッコむなんてことはできないから自分を落とすことで
それを成立させたんですよね。
それって結局は「人間を描いている」ことになる。
偉そうなこと、毒を吐いてるやつも、結局同じどうしょもない人間で
それが人間の滑稽さだよねというオチを自分を犠牲にしてつけている。
これは、北野武の映画もそうで「シチュエーション」は
あくまで人間のくだらなさを誇張させるためにあるわけで
だからこそ、ヤクザが主体となるんでしょう。
見栄と欲と利己欲で固まっている、人間の業の権化。
その象徴としてのヤクザなんでしょう。
表現のしやすさ。

松本人志も何作目かに、そこに気づいていたようなところもあるんだけど
あまりにそこに配慮すると「これおもしろいんか?」というやつになる。
なので、松本の映画はできることなら松本の世界を理解し補正し解釈する
人(スタッフとはいいません)がなにより必要だったんじゃないかなと。
そんなことを思いながら、じつにこれ去年下書きを書いていて
忘れていたのでアップしておこうと思ったわけです。
定食屋の生姜焼きは美味しかったです。

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