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忘れちゃいけないよね、ありがとうって
今は平然と笑っている、恵まれた環境とそして心豊かな人との繋がりに感謝している
それを「あなただから」「あなたの人徳だから」と言っていただくことがあって、さらに感謝しきりである
でもそこには悪い私の心もあって、その環境を掴み取ったのは自分であると驕りたくなる気持ちになることがある
自力で努力したからなのだ、と
何より自信の無さから、こうして自分に無理にハッパをかける不純な方法で強がりたくなることがあるのだ
100%謙虚で居続けることが出来る生き物ではない、完全など有り得ない、人なのだし、それが人なのだとも思う
そう言って逃げたくなるときもある
でもなぜそのような謙虚でない感情が起こるのかを考えてみたとき、直ぐに見つかったひとつの答えは
「人のため」情けを尽くしている場合に起きる、というものだ
それの何が?
自分のために頑張るより人のために頑張る方が頑張れるし結果も出せるはずなのだが、なぜなのか
文字通りの人のためではない、「人のため」のはずが「己のため」になっていることをこの場合は指す
言わずと知れた「情けは人の為成ず」である
困っている人が居たら私は助ける
でもそれはその対象だけでなく自分のためでもある
更に言えばその現場にいる全員のためだ
よくある場面としては、
①電車で席を譲る必要がある人が乗車してきたとき
②両手の塞がった人がドアを開けられないなどしているとき
③大勢に向け講演やレクチャーをする講師の問いかけに誰も応えないとき
④グループLINEで返答が必要な場合に誰も返信しないとき
こんなとき誰よりもはやく行動を起こす
なぜなら詰まらない理由で困る人が生まれる意味がないからだ
人が困る時間を増やすメリットは?生産性は?得られる成果は、当然ゼロである(特別な理由を除き)
そんなときいの一番スタートダッシュをかますようにしている、無駄な迷いなど無駄だから
それと、あの場面になった瞬間の「誰が行く?やる?」というような、思い切り差別用語を使うが日本人的なクソに無駄な他人の目を気にした遠慮(配慮ではない)や
譲りたくない、助けるの面倒くさいというような空気が心底吐き気がするほどに大嫌いだからというのもある
そして誰よりも行動をはやく起こすことでその現場でそれを目の当たりにする人の、心の底にある正義のためにも、である
困る人が助かる
助けるのを悩む人も助かる
傍観していた人は恥ずかしくなるだろう
見ていなかった人も何が起きたのかを最終的には知ることになる
助けることのあるべき基準と勇気を作る
現場に居た人が今後出くわすであろう似たシーンで、同じように行動が出来るように
正義を振りかざすことは美徳ではなく当然のことだし自分もそうでありたいからそうする、最終的には自分のために
それが「人のためのように見せて結果は自分のためだけ」であったときに、前述のような思考が生まれるのだと思った
褒められるために人助けをしたときに
褒められた場合「当然だろ、褒められるためにしたのだから」と醜く驕るのだろう
見せかけでなく人のため
見せかけもなく自分のため
この二択であったときに初めて、起こるすべては自分と周りの支えのお陰であると心から感謝が出来るのだろう
うーんまだ到達出来ていないな、心が汚れてるから笑
それでも私は、とても苦しくて弱音を吐いて助けて欲しかったときに
「頑張るのは一度お休み」
「また今度から頑張ろう」
後悔して自分を責めている私を、そう支えてくれたひとたちのお陰で今があると、謙虚に思うことを思い出した
今の私があるのはあなた達のお陰だ
だからまだ、人間やっててもいいかな?笑
支えてくれた心を言葉を忘れたくない
みんな心からありがとう、感謝しています
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