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コンクリートのさんぽ ~冬の大阪~

つい先日、所用で大阪に出向く機会があったので、コンクリートを見てきました。
noteに目次がつけられるようになったので、一応つけときます。
まあ、目次がいるような内容でもないんですが、最初の蘊蓄を読み飛ばすときなどに。

大阪とコンクリートのかかわり

僕は東北の生まれで大阪には修学旅行や学会で数回しか行ったことがないので、その風土とか文化には明るくないのですが、コンクリート的にはどうなんでしょう。
とりあえず大阪府でセメントとコンクリートがどれくらい流通しているかを数字で見てみましょう。
2017年度の大阪府でのセメント販売量は232万t、全国販売量は4170万tなので、国内の5.5%に相当する計算です。
これを人口で割ると1人あたりの年間セメント消費量は262kg、これは全国平均の324kgよりも20%ほど低い値ですね。
生コンクリートは大阪兵庫の統合実績しかないのですが、大阪兵庫の出荷実績が823万㎥で、これから計算すると、大阪兵庫では1人あたりの年間生コンクリート消費量は570ℓ、だいたい1370kgのコンクリートを消費しているわけです。
ちなみに全国平均は660ℓなので、それより15%くらい低い値。
セメントの用途は7割が生コンクリート、15%がコンクリート製品、15%が地盤固化材と考えると、セメントと生コンクリートの消費量はそんなにおかしくない対応だと思います。

これだけの経済圏なので流通体制はもちろん整っていますが、弱点はコンクリートの材料になる良質な骨材(石・砂)に乏しいことです。
コンクリートの材料のなかでも取り分けて安価な(kgあたり2~3円とか)骨材は、輸送コストを考えるとその地域のものを使うのが原則です。
そうは言っても近畿地区には大きな河川がないため、高度経済成長の頃には地元のものが枯渇気味で瀬戸内海のものを使ってたりしましたが、塩分をふくんでいたり反応性を持っていたために塩害やアルカリ骨材反応といった耐久性の問題に悩まされました。
ちなみにこれは大阪府だけでなく近畿一帯に言えることです。
セメント工場は全国で30箇所ありますが、近畿地区には1箇所(兵庫県赤穂市)だけです。これは豊潤な石灰石資源が採れる鉱山が限られているためです。

大阪でコンクリートにかかわる著名な企業としては、1つが大林芳五郎が興した大林組で、現在はスーパーゼネコンの1社ですね。同じくスーパーゼネコンの竹中工務店は名古屋創業ですが、14代 竹中藤右衛門の代に神戸に進出して、現在は大阪に本社を構えています。
もう1つは大阪窯業株式会社が1916年からセメント操業を開始したことから始まった大阪セメントで、現在は合併して住友大阪セメントになっていますね。
ちなみに日本で最初に早強セメント(短期間で硬化するセメント。緊急の工事や寒いところのコンクリートやプレストレストコンクリートに使われたりする)の製造販売を行ったりしています。

有名なコンクリート構造物でいえば、建築用途ではやはり大阪生まれの建築家である安藤忠雄の作品群でしょうか。特に初期の活動拠点は大阪・関西でしたしね。
たとえば、住吉の長屋とか光の協会なんかは有名ですね。写真でしか見たことないけど、個人的には紀陽銀行 堺支店とかも好きです。
写真は載せられないので、下記リンクなどでご覧ください。

土木用途では、巨大な橋やダムなどの構造物は少ないですが、やはり経済が活性で交通の要所でもあるので、道路・鉄道関係の構造物が多いです。
土木学会が推奨している土木遺産は大阪府内で12個登録されています。

歴史的な構造物だけでなく最新のコンクリート技術も多く適用されており、国内で最も高いビルであるあべのハルカス(300m)は基本的に鉄骨造ですが、鉄骨を充填するコンクリートに圧縮強度150N/mm2(普通のコンクリートの6倍くらいの強さ)の超高強度コンクリートが使われていたり、自重を軽くするために軽量コンクリートなどが使われたりしています。
日本で現在流通しているコンクリートで最も強いものは超高強度繊維補強コンクリート(UFC:Ultra High Strength Fiber Reinforced Concrete)と呼ばれますが、それを道路床板に初めて適用した工事が阪神高速でつい先日行われました。詳しいことはリンク先でコメントしてます。

なんにせよ、大阪では全国の5%くらいのコンクリートが消費されて、歴史的なコンクリートも最新のコンクリートもいろいろあるわけです。

*表 大阪とコンクリートの雑なまとめ

コースを決めよう

まあ、そんなことはどうでもいいんですよ。とりあえず歩いてみよう。
といっても僕はまったく土地勘がないので、なにかモデルコースがほしいところです。
日本コンクリート工学会では四季の散歩道というコンクリート(に限らず、土木構造全般)をめぐる散歩コースを何個か紹介しています。
一応、年間12,000円の会費を納めているので、ありがたく使用させてもらいました。

地下鉄淀屋橋駅から地上へ

地下鉄御堂筋線 淀屋橋駅からスタートです。現役最古の地下鉄は都営銀座線ですが、剥き出しのコンクリート壁などを見ると相当年季が入っているのがわかります。
といっても昭和8年営業開始のこの駅は小綺麗で、地下鉄の駅にしては広々としたホームとなっています。
柱がないことと、天井がアーチ状になっていることがその理由ですね。
コンクリート×アーチの組み合わせはこの後も散々登場しますが、流線形や円形の形はコンクリートに加わる力を圧縮(押しつぶす力)に変換することができるので、圧縮に強いコンクリートには有利な構造なわけです。

地上に出て最初に撮った写真がコレ。交差点路面のコンクリートで左より右のほうが骨材が露出している(全体が黒っぽく見える)のは何でだろうとか考えてたら人にぶつかりそうになった。大阪人歩くのはやいよ。

駅を出ると国道25号でした。
建物の高さがそろっていて気持ちいいですね。(手前から2番目のUFJのビルはもっと高いのですが、他の建物と同じ高さのところで構造を区切っています。えらいぞ僕のメインバンク。)

中之島で橋巡り

このコースは要するに中之島から大阪城の方向に歩いていくわけですが、中之島の開発は江戸幕府初期まで遡るそうです。
「天下の台所」の中枢となって久しいようですが、大正10年に事業化された第一次大阪都市計画事業によって多くの橋が架けられました。
といっても、江戸時代から続く歴史ある橋を近代的な構造に架け替えたものばかりです。
これらは戦前の優れた土木技術者による功績が大きく、中之島の橋梁群は土木学会の推薦する土木遺産にもなっています。

で、最初のスポットが駅名にもなっている淀屋橋
鉄筋コンクリートアーチの橋で、完成は昭和10年。84歳になる橋ですね。
「淀屋」とは中之島の開発に取り組んだ江戸時代初期の豪商の名前に由来するそうです。
その意匠はコンペティションで公募され、全62通の応募があったとか。
日本では橋の意匠コンペというのは珍しいのですが、それだけ気合の入っていた事業だったのでしょう。
1等の賞金は1000円で、当時の市電の料金が6銭であったことから、現代円に直すと数百万円といったところでしょうか。
青銅の欄干等の装飾は派手過ぎずに重厚が超カッコいい
アーチ橋は重量感が感じられるものも好きです。

淀屋橋を渡って左手に建つのが日本銀行大阪支店。渋い。明治36年完成なので、100歳を超えますね。
まあ、コンクリートではなく石造りなんだけど、コンクリートは人工の石と考えているのでOK。
建物自体はこの大都市部のど真ん中では小さいほうだけど、近づいていると威厳がすごいです。
建築様式でいうとバロックに近いでしょうか。緑青のドームも味が出てます。
設計の一人は辰野金吾ですが、好き嫌いはともかく、日本で最も権威のある建築家の一人です。
東京駅や日銀本店の方の設計もしていますね。個人的には本店よりもこっちの大阪支店の方が好きかも。

いい歳の取り方をした顔をしています。汚れもまた味があります。

そのすぐ裏手にあった川沿いのコンクリート壁はこんなん。
P痕(型枠を支えるセパレータの入っていた位置に残る丸い痕)や表面気泡、雨だれによる黒色への変化やうっすらとした苔などで汚れています。
コンクリートが石と意匠の面で異なるのは、経年して汚れると渋さよりも汚さが際立って感じがちなところかなと個人的には考えています。
ところでこんな写真撮っていると変な人に見られます。

道路をはさんで反対側は大阪市役所
鉄骨鉄筋コンクリート造で昭和60年完成なので、この辺ではまだ若手ですね。
建築的には、そんなに面白くないのでスルー。

中之島南側の淀屋橋に対して、北側に掛かるのが大江橋。兄弟の淀屋橋とは生まれた年も構造形式も同じ鉄筋コンクリートアーチ橋です。
ちなみに先代の橋は明治43年につくられた鉄橋だったそうな。
2008年には「大江橋及び淀屋橋」として重要文化財に指定されています。

大江橋の西側に位置するのが中之島ガーデンブリッジという歩道橋。
歩行者専用の橋で設計荷重も少ないためか、比較的スリムな断面をしていますね。平成2年完成なので、僕よりも少し年上です。

東京の日本橋がよく言われるように、橋の上に高速道路の高架橋が架かっているのは、やはりあまりカッコよくはないですね。少なくとも日中は。

さらに西側に位置するのが渡辺橋。別に渡辺さんが建てたわけじゃなくて、「渡しのほとり」を意味するそうです。
この辺りまでは昔から水路交通の要所だったということでしょうか。
現在の橋は昭和41年に架けられたものですが、川中心にかかるスパンのクリーム色の鋼板補強はあまりカッコよくないですね。

その南側に位置するのが肥後橋
同じ年に完成した渡辺橋とは構造も似ています。その下を通る地下鉄四ツ橋駅の建設に伴ってこの2橋が付け替えられたようです。
特にコメントはないです。

肥後橋からちょっと東に行くと錦橋これは渋い!!!
完成は昭和6年なので、米寿になる橋です。
淀屋橋・大江橋と同じアーチ橋ですが、スパン部分にの肉抜きがまた良い。なんかもうエロい
錦橋のようにそれぞれの部材厚さを抑えたスレンダーなアーチ橋も、淀屋橋・大江橋のようにマッシブなアーチ橋と同じくらい好きです。

橋上にはかつて大阪に掛かっていた橋の錦絵がタイルで展示されています。デスクトップの壁紙にしたい。

中之島の東側に戻りましょう。

もう一度日銀大阪支店を臨みます。この日の天気は曇り。

大阪支店の北東に位置するのが水晶橋。昭和4年完成で、アーチ橋としては錦橋と似ています。エロい
アーチが4連、その上の肉抜き小アーチが7×4=28連、こんなのはもうご褒美である。

水晶橋にかかる舗装はこんな感じでわざと石を露出させています。露出させているというか足つぼマットの要領で後から埋め込んでいるわけだけど、左側だけ取れてしまっているのは更新時期の違いでしょうか。

もう少し中之島を歩きます。

ちなみに僕はこういう「樹の根に押し上げられたアスファルトのひび割れフェチ」です。

水晶橋の南側は大阪府立中之島図書館
住友本家の寄付によって明治37年に完成したそうです。そのため設計も住友家お抱えの建築技師によって行われたようです。
建築様式としてはネオバロックで、石造りの躯体と緑青のドームは日銀大阪支店と似た印象ですね。

正面の装飾なんかはずっと見ていられるんですが、警備員に変な顔をされたのでそそくさと後にしました。

そのすぐ近く裏に建つのが大阪市中央公会堂名建築である
完成は大正7年で、設計原案は岡田信一郎。それに辰野金吾と片岡安が実施設計を行ったようです。
建築様式としてはネオルネッサンスでしょうか。柱などの躯体を石造りとしつつ、表面の大部分を赤レンガで装飾し、天井のドームは緑青と、色使いが印象的な建築です。たぶん。

それよりもコンクリートスロープの雨だれ汚れとひび割れの方が見てて面白いんですが。建物の南側にあったから、熱膨張型のひび割れかしら。だいたい目地と目地の真ん中に入っているから間隔が足りなかったのかもしれないですね。

中之島公園をさらに東に進みます。

無機物に飽きたので、その辺にいた鳩の写真を載せておきます。

川沿いの遊歩道を歩いていくと、難波橋に着きました。完成は1915年ですが1975年には大規模な補修工事が行わたそうです。
手前の橋脚のふくらみがザクの頭みたいで超かわいいほしい

遊歩道がそのまま橋の下を通っているので、くぐっていきましょう。この橋は高欄に立つライオンのシンボルが有名らしいですが、上を通るのは忘れました(基本的に橋は下から見たい派)。

橋の下でひびわれや補修のチョークマーキングを見るのが好きです。

中之島公園にかかるばらぞの橋という橋。かわいい。

の、レリーフ。かわいい。ストラップにしたい。

中之島公園の東端近くでは頭上を阪神高速1号環状線が通っています。高速高架橋を回りに車両交通のない状況でゆっくり見れる機会は少ないので、鋼管の錆汁とコーベルの断面修復跡を見てしみじみ。

中之島にかかる最後の橋が、東端の天神橋。昭和9年完成の、3連アーチ橋。
公園から臨んだこのアーチが、写真左側の方向にもう2連つながっているイメージです。
いやあ、カッコいい。やっぱりコンクリートより鋼の橋の方がカッコいい。
中之島の橋梁群では個人的ベストですね。

写真もいちばん多く取ったので並べていきます。

鋼アーチを下から。橋梁の背骨のよう。

公園から天神橋に向かうと、アーチの下の部分で塗装記録が見れます。3層塗りなんですね。

橋上に上がれる螺旋階段より。橋を下から上まで見回ろうとしています。近づくと無数のリベットが見れます。

橋を端から(大阪なのでギャグを言いました)臨みます。こうしてみると長さがわかりますね。

橋はもう飽きたので、城でも見に行きましょう。

大阪城へ向かう

天神橋を渡ってスロープの乾燥収縮ひび割れを見ます。ランダムな模様は無拘束条件での乾燥収縮ひびわれがアルカリ骨材反応のもの。試験に出ます。ひび割れ模様占いとかつくるのが僕の夢です。

中之島を出て東に進むと、大阪府庁が見えてきました。
3代目になるこの庁舎は現存する都道府県庁舎としては最も古いそうです。
設計は平林金吾・岡本馨で、1926年の完成はコンクリート建築物としてもかなり歴史の古いものですね。

正面玄関柱の装飾が素敵ですが、ここでもあんまり写真を撮っていると警備員に怪訝な目で見られるので城を目指します。

見えてきました。大阪城です。大手門から中に入りましょう。

この城を作った人です。お世話になります。

それにしても、石垣はデカい。こんなものをどうやって作ったんだろうと、先人の土木技術には感嘆するばかりです。

天守閣が見えてきました。昔日本史の授業で習った限りの記憶だと、大坂冬の陣の敗退で内堀と本丸以外が埋め立てられてしまい、江戸時代が始まってそう長くないうちに落雷で天守を焼失したようです。

つまり今そびえる天守は後世に再建されたもので、昭和以降にコンクリートでつくられたものです。
見た目はずいぶん綺麗ですが、阪神・淡路大震災の後の平成の大改修で耐震補強や塗装の塗り替えなどをしたためでしょう。

フロアはこんなかんじ。防衛機能はもう必要ないし、エレベーター完備の快適な城です。

中は木造っぽい雰囲気を出していますが、当時の木造でこれだけ開けた空間をつくるのは無理です。梁の形などからも、「コンクリートっぽいなあ」という印象を受けました。

ちなみに天井はしっかり石膏ボード。

天守閣からのながめ。あのしゃちほこは一個いくらくらいするんでしょうか。

さて。
城をコンクリートという現代の材料で再建することには、けっこう賛否の声がつきものです。
最近改修されたものは熊本城や名古屋城などがありますが、基本的に公共事業になるため予算の使い方に議論が起こること自体は歓迎すべきことです。
とはいっても、現代の厳しい耐震規定を当時の材料と構造で再現することは不可能です。
また、観光資源として活用するなら空間スペースを広く取る必要もあるしエレベーター等のバリアフリー対策も求められます。
僕個人としては、当時の姿をそのまま再現するのではなく、当時の城大工たちが現代の材料と技術を持っていたらどんな城を造ったかを想像することが大事かなと思っています。
一方、石垣や土壁の城のなかに剥き出しのコンクリートをそのまま置いてしまっては風情も何もないことは確かなので、その辺はうまくカモフラージュする必要があると思いますが。


それにしても、石垣はデカい

満足したので、ぼちぼち城を出て東京に帰ることにします。

お堀の外に木の柵がありましたが、これコンクリート製ですね。
うまく馴染んでいる擬木(ぎぼく)です。

ご丁寧にエフロレッセンス(コンクリート中の可溶性物質が表面に浮き出て生じる白い沈着物)まで出ています。

おしまい。それでは帰ります。ほな。

おまけ。今回はまあまあ歩きました。

【参考資料】
・コンクリート新聞社 統計データ
https://www.beton.co.jp/data.html
・近畿地方 コンクリート名所:コンクリート工学,1991

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