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コンクリートの歴史

コンクリートが現代社会でどのような立ち位置にあるかは前回の記事で述べました。
今日はそこに至るまでのコンクリートの変遷を振り返ってみたいと思います。

先にまとめてしまうと、コンクリートの起源は非常に古く、確認されている範囲で最も古いものはなんと9000年前につくられたと言われています。
とはいえ、このコンクリートが先史時代に主要な材料とならなかったことは皆さんが世界史で習った通りです。
コンクリートが工業材料として最初に普及したのは今からおよそ2000年前のイタリア・ローマと考えられてみます。
そこから作り方や原料や人間との関わり方を変えながら、現在の姿になっています。
ここではその移り変わりについて見ていきましょう。

目次は以下

コンクリートの発明はいつか?

コンクリートがいつ最初に作られたか、という話です。
”作られた”、とさらりと書きましたが、コンクリートは自然界に存在するものでもなければ遠い宇宙からやってきたものでもなく、人間が発明した材料です。
では、コンクリートをどうやって作るかと言うと、いつも言っていますが、下の足し算で表すことができます。

コンクリート=水+セメント+砂+石

コンクリートは、水と、「細骨材」と呼ばれる砂と、「粗骨材」と呼ばれる石と、セメントをまぜることによってつくられます。
このうち、水・砂・石は自然界に存在しますが、セメントだけが自然界には存在しません。
ということは、コンクリートの発明にはセメントの発明が必要である、と考えられます。

ここでセメントの役割についてですが、ここでは「硬化する性質を持っている粉」とでも定義させてください。
水とセメントと砂と石を混ぜただけだと、ただのドロドロしたよくわからないものですが、セメントが硬化することによって、この4つのバラバラの材料をコンクリートという1つの材料にすることができます。
水や砂や石は、人間が地球上に生まれる前から変わらない姿で存在していますが、セメントだけは人間とともに進化を続けてきました。
なので時代時代によってセメントの材料や作り方や性質は少しずつ異なっているのですが、「セメントが硬化することによって他の材料と一体化してコンクリートになる」、という目的は大昔からそう変わっていません。
じゃあ、地球上で最初のセメントやコンクリートって、いったいどんなものだったんでしょうか?

古代のコンクリート

現在確認されている範囲で最も古いものと考えられるコンクリートはイスラエルにある「イフタフ遺跡」というところから出土されたものです。
スウェーデンの調査チームによると、この遺跡の壁部分などは、石灰を焼いた粉(=セメント)を砕いた石灰石(=砂)と混ぜ、これを水(=水)で混ぜて作ったのではないかと報告しています。
調査チームのMalinowski博士の言葉を借りれば「Ancient Mortar and Concrete」、訳せば「古代のコンクリート(モルタル)」といったところですね。
どうしてこの製法でコンクリートができるかというと、石灰石を焼くと石灰CaOになり、これに水が加わると消石灰Ca(OH)2となり、空気中の二酸化炭素と反応すると炭酸カルシウムCaCO3の硬化体となるためでしょう。
これは現代のセメント・コンクリート工学ではよく知られていることで、現代のコンクリートもこのような反応をしますが、このことを知ってか知らずか9000年前のイスラエル人は(おそらく)地球上で最初のセメントを使いこなしていたようです。

ところで、セメントを作るときは石灰石を焼く(専門的には焼成と言います)ときの温度がとても重要です。
9000年前は新石器時代ですが、この時代の人たちは土器を使っていました。
このような土器で作れる窯では、窯の中の温度はせいぜい1000℃にも達しないくらいです。
これに対して現代のセメントは、1450℃以上もの超高温で焼くことができ、これにより不純物を取り除いてより高品質なセメントをつくることができます。
コンクリートの発達とはセメントの発達でもあり、セメントの発達とは窯の発達なのです。

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*現代では、ロータリーキルンという斜めの巨大な窯を回すことによって焼いています。これがセメント工場の心臓です。

手間はすごくかかりますが、たぶん現代でも以下のような作り方でこのコンクリートの再現ができますので、挑戦したい方はぜひに。

さて、イスラエルの他に古代のコンクリートは発見されているのでしょうか。
アジアでは、中国でおよそ5000年前に作られたと考えられるコンクリートが発見されています。
その地域で採れる「りょうきょう石」という鉱物を焼いてつくっていたようで、これは炭酸カルシウムと粘土分を含んでいたようです。
炭酸カルシウムと粘土と聞くと土木建築の学生ならピンとくる(きなさい)と思いますが、現代のセメントの材料ともかなり近いですね。
古い時代にコンクリートが作られていただけでなく、それが現在にも残っているというのは驚くべきことで、ここから現代のコンクリートにも学ぶ部分は多いと思います。
この中国の古代コンクリートの反応と似たメカニズムで、表面を改質して耐久性を上げたコンクリートの開発を鹿島建設が行っています。

コンクリートから石を取り除いたものをモルタルということは冒頭でも述べましたが、これは例えば壁に塗って補修などに使う(左官)ことや、ブロック塀の目地などを充填して接着剤のような使いかたをすることができます。
モルタルで建物全体を作るようなことはあまりありませんが、他の材料の「つなぎ」のような役割で使うことができます。
4000年以上前につくられたエジプトのピラミッドも、それ自体は石を積み重ねた構造形式ですが、この接合には焼いた石膏と水と砂を混ぜたモルタルが使われていたようです。

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*モルタルと人類のつきあいも非常に長いようです

さて、ここまでの話を振り返ると、コンクリートの時代は案外古く、そのルーツは遥か紀元前にさかのぼるようです。
ですが、これらの時代は「新石器時代」なんて呼ぶように、その時代を代表する材料では全くなく、ほとんど普及しなかったようです。
(これを書いた後にコンクリート製の古代都市とかが発掘されたらすみません)
おそらくコンクリートが建設材料として最初に普及したのは、今からおよそ2000年前のことでした。

ローマン・コンクリートの誕生

コンクリートの歴史を語る上で、今からおよそ2000年前のローマ人が作り上げたローマン・コンクリートのことを語らないわけにはいきません。
その作り方の合理性や出来上がったコンクリートの優れた特性は現代の技術者も学ぶことが多く、しかしそれが何故廃れてしまいヨーロッパは石造りの文化になったか、なぜ1000年以上も後にイギリス人に再発見されてコンクリート再興のきっかけになったか…
など、書くべきことはいろいろありますが、ぶっちゃけ昔の記事でほとんど書いちゃったので、詳しくはそちらを見てください。
今回はローマン・コンクリートの要点だけおさらいしましょう。

僕は現代のコンクリートはローマン・コンクリートの延長性上にあると考えていますが、その第一の理由は安定して大量供給が可能という共通の特徴を持っていることです。
ローマン・コンクリートの数・量は上で述べた古代のコンクリートとは一線を画し、まさにローマ帝国の基盤となった材料のようです。
そしてなぜ大量供給されたかという理由でもありますが、ローマ帝国ではすでに経済社会や皇帝という公的権威が成り立っており、複雑な社会が形成されていました。
コンクリートを普及させる力・権威や社会的要望が働いていたことは、現代の経済活動でコンクリートが消費される構図と基本的には同じです。

さらに、ローマン・コンクリートはある程度製法が確立されて広く普及したものであることも、現代と共通しています。
人間活動のために工学が発達し、その人工材料としてコンクリートを最初に発明し、普及させたのはローマ人であると僕は考えています。

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*パンテオンの天井ドームのローマン・コンクリート

さて、ローマン・コンクリートの特徴を見てみましょう。
2000年前のものが現存していることからも、このコンクリートは非常に耐久性に優れるものです。
材料がどれだけ丈夫か、というのは大きく分けて「強度」と「耐久性」で考えられます。
強度は、「その物にどれくらいの力をかけたら壊れるか」、という指標で、現代のコンクリートも試験室で壊してみて強度を確認しています。
これに対して耐久性は「長い年月をかけてもどれだけ劣化せずに使い続けることができるか」、という指標で、例えばコンクリートなら雨風に晒されて浸食されたり欠けたり変形したりしないかといったものです。
耐久性を実際に確認するのには非常に長い時間を要するので、現代のコンクリートでは例えば材料の化学成分に制限値を持たせたり、環境によって求められる性能を変えたりなどの対策で耐久性の低いコンクリートができないように対応しています。

これに関して言うと、ローマン・コンクリートは現代よりも強度には劣りますが耐久性は優れるかもしれない材料です。
この優れた耐久性のポイントとなっているのが”ポッツォラーナ”と呼ばれる火山灰です。
ナポリのヴェスピオ火山の噴火によってローマの周辺は火山灰土壌が豊富だったようで、これをコンクリートと混ぜると非常に長持ちするコンクリートができたようです。
火山灰のような材料はコンクリートに混ぜることで耐久性が上がることは現代ではよく知られており、「混和材料」と呼ばれます。
現代の混和材料は例えば製鉄所や火力発電所から出る産業副産物が多いのですが、これと似た性質の自然材料として火山灰をローマ人は使っていたようです。
ローマン・コンクリートの作り方は、ウィトルウィウスという技術者が著した建築論によると、概ね以下のようです。

"これ(ポッツォラーナ)と石灰および割石との混合物は、建築工事に強さをもたらすだけでなく、突堤を海中に築く場合にも水中で固まる。"
ウィトルウィウス「建築論」

古代コンクリートの節でも述べたように、石灰がセメント、割石が砂や石に相当すると考えていいでしょう。
このローマン・コンクリート、言ってしまえば材料をある比率で混ぜればできてしまうので、この登場によって建設工事に非常に大きな革命をもたらしたと考えております。
奴隷や未熟な技術者でもある程度の強さのものが簡単にできてしまう(パンテオンのような例はきわめて稀で、低品質のローマン・コンクリートも当時はたくさんあったのではと思います)ことは、権威の象徴や国防としてインフラ整備を推し進めるローマ帝国と非常に相性が良かったようです。

ローマン・コンクリートが現代のコンクリートと大きく異なることのひとつは、内部に補強材料(鉄筋)を入れないことです。
現在、建物に使用されるコンクリートの中には、コンクリートの弱点を補強する目的で鉄筋が入れられており、鉄筋コンクリートと呼ばれます。
(鉄筋コンクリートの設計思想が確立されたのは後述するように19世紀以降のことです)
これによって、高いビルや長い橋を作ることができます。
逆にいえば、ローマン・コンクリートで現在のような建物を作ることはできません。
半面、鉄筋は塩分で錆びてしまう(腐食)ために、現代ではコンクリート自身が健全でも内部の鉄筋が痛んでしまうことによって鉄筋コンクリート構造が寿命を迎えることが多くあります。
現代とローマのコンクリートでは材料特性や設計の考え方が大きく違うので、どっちが優秀な材料かといった議論はあまり意味はないと思いますが、ローマン・コンクリートが優れた材料であることは紛れもない事実ですね。

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*表 ローマン・コンクリートと現代のコンクリートの比較

コンクリートが再び歴史に登場するまで

さてこの優れたローマン・コンクリートですが、476年のローマ帝国崩壊以降は使われなくなってしまい、それから1000年以上の間コンクリートは歴史表舞台から姿を消します。
どうしてローマン・コンクリートが使われなくなったか、ということは、現在ははっきりとした答えが出ておりません。
高品質な石灰等の材料が枯渇したからとか、大型工事が少なくなったために技術伝承がしっかり行われなかったとかいろいろな理由が考えられます。
その代わりに台頭した材料が石ですが、石造りは細やかな装飾加工が可能となり、これはコンクリートではできなかったことです。
中世ヨーロッパの人々は石造りによる建築文化の発展を選択し、その間、世界の他の地域でもコンクリ―トが発明されることはありませんでした。
せいぜい、建物のつなぎ目にモルタルが使われていたくらいです。

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*壮麗な中世の教会建築は石造り。なかなかコンクリートではこうはいかない。

5世紀のローマ帝国崩壊から1300年以上の間を空けて、舞台はローマからイギリスへと移ります。
イングランドのデヴォン州にエディストーン灯台が1755年の火災で焼失してしまいます。
この灯台の再建工事に携わったのがジョン・スミートンという技術者で、彼は覆工の材料としてローマン・コンクリートに注目しました。
波風の激しい環境では木材よりも丈夫な石造りの灯台を建設する必要がありましたが、これを基礎に定着させる材料が必要でした。
このとき、海水に対して耐久性が高く、水の存在によって硬化する材料としてローマン・コンクリートの製法に目をつけたようです。
そうはいっても1000年以上も技術伝承が途絶えていた材料なので、まずスミートンはこのコンクリートの研究開発に取り組みました。

スミートンは焼いたときに水とまぜて硬化する石灰の性質について実験を重ねて、石灰中に含まれる粘土の割合がある範囲内であれば硬化する性質があることを突き止めました。
石灰石というのは要するに炭酸カルシウムの塊のようなものですが、これを焼いただけではセメントとして硬化してくれません。
他にも酸化アルミニウムや酸化ケイ素といった物質が必要になりますが、粘土はこれを含有しているためにセメント原料に使用されます。
現代でもセメントの製造時には石灰石と粘土が使用されているのはこのためです。
スミートンのローマン・コンクリートの研究が、現代のコンクリートの原料になるポルトランドセメントの開発に多大な影響を与えたと考えられています。
スミートンの突き止めたセメントがローマン・コンクリートと異なる点は、火山灰(ポッツォラーナ)を必要とせずに硬化する性質を持っていたことです。
こうして1757年にエディストーン灯台の再建工事にスミートンが開発したセメントを水や砂と混ぜてつくったモルタルが、石を岩礁に固定する材料として使用されました。

*エディストーン灯台はここのようです。

こうして、コンクリートは再び歴史上に姿を現したのでした。

セメントの近代史

とにかく、コンクリートをつくるのにはセメントが必要不可欠なわけですが、現代のポルトランドセメントのルーツも少なからずローマン・コンクリートにあることは上でも述べました。
ところでセメント(cement)という言葉の語源もローマに由来するようです。
西洋建築史を専門とする東京大学の加藤教授によると、上でも触れたローマの技術者「ウィトルウィウス」の建築書では、caementica structuraという言葉が出てきますが、これは煉瓦の間にローマン・コンクリート(厳密にはモルタルのようですが)を詰めていくことで壁をつくる工法のようです。
この"caementica"の原型である"caementicium"が"cement"の語源となるようです。
(余談ですが"concrete"という言葉はラテン語のconcretus=con:共に+crescere:成長する+tus:過去分詞形 から来ています。)

さて現在、工業材料として使用されるセメントの正式名称は「ポルトランドセメント」と呼びます。
1827年にイギリスの煉瓦職人ジョセフ・アスプディンがこのこのセメントの製法の特許を取得します。
スミートンの灯台再建以降、セメントの開発が進められ、その中でポルトランドセメントの製法が確立されたと言えそうです。
「ポルトランド」という名前はイギリスのポルトランド島に由来しており、ここで切り出された石灰石の品質が極めて良かったと言われています。
ポルトランド石くらいの強度をもつコンクリートを作れるため、あるいはそのような願いをこめてポルトランドという名前をセメントに付けたのだと思います。
このポルトランドセメント、現代も名前は同じですが、製法は少しずつ進化していきます。
セメントを焼くときの窯の温度がきわめて重要、ということは上でも少しお話しましたが、アスプディンの時代の窯の温度も1100~1200℃程度で限界と言われており、ここから100年以上かけて現代の焼成温度1450℃まで窯の改良が進められました。
(例えば、昔のセメントの窯は縦だったのに対して今は斜めです。)
窯の改良というのはセメントだけでなくセメントやセラミックス産業でも重要な課題であり、他の材料と一緒にセメントも発展を遂げました。
また、セメントだけを水と混ぜると爆発的に反応してしまいとても使いづらいのですが、この反応の速度をコントロールする目的でセメントには石膏が添加されますが、これは1890年にアメリカで発見された技術のようです。

ポルトランドセメントが発明されて、コンクリートは初めて全世界に普及することになります
イスラエルで(おそらく)最初のコンクリートが作られてから約9000年の間を空けてのことでした。
各国はイギリスからそう遅れずにポルトランドセメントの国内生産を開始し、フランスで1848年、アメリカで1871年、日本でも1875年に国内初のセメント製造が開始されました。

セメントの細かい製法やその変遷についてはまた別の機会にお話しすることになると思います。
ここからは、ポルトランドセメントが開発されてコンクリートが急速に普及するここ2世紀ほどの間のお話となります。

技術としてのコンクリートの発展

セメントの開発は産業革命や近代化の流れの中で起きたことで、この勢いに乗ってコンクリートは爆発的に普及していきます。
これは大まかに言ってしまうと、経済活動が拡大していく中で、コンクリートは製造がそこまで難しくなく材料も安定して供給できて強度にも優れるので、時代のニーズととてもマッチしたためと考えられます。

ここでは、その中でコンクリートがどのような改良を続けてきたかを見ていきたいと思います。

【鉄筋コンクリート】
上でも少し述べましたが、現在建物に使われるコンクリートの多くは中に鉄筋が入っています。
これもまた別の機会にお話ししますが、コンクリートと鉄筋は信じられないくらい相性が良いです。
第一に、コンクリートと鉄が互いの弱点を補い合うことで、鉄筋コンクリートは非常に合理的な構造となっています。
具体的には、コンクリートの弱点である引張に対する力を鉄筋が、鉄筋の弱点である圧縮(棒状の鉄筋は座屈して折れやすい)に対する力をコンクリートがそれぞれ支え合っています。
また、鉄に凹凸やフシを設けることでコンクリートとの一体性がよくなり、しかも2つの材料は線膨張係数(熱をかけたときの体積膨張の割合)が非常に近いため、鉄とコンクリートがズレてしまうことを防げます。
空気中だと錆びやすい鉄も、高アルカリ(pH)のコンクリートにカバーされることによって錆びることなく長持ちすることができます。
現在では鉄よりも機械的に優れた性能の材料(例えばカーボンやアラミド等)が開発されているかもしれませんが、コンクリートの供給量や価格についていけるのも、現状、鉄くらいです。

というわけでこの何かとスゴイ鉄筋コンクリートですが、その発端は19世紀頃と言われています。
誰が鉄筋コンクリートの創始者である、ということは明確は言えず、この時代にコンクリート中に補強材料を入れる試みは広く行われました。
その中で必ず名前が挙がる人物が、フランスジョゼフ・モニエという人で、この人は植木職人でした。
モニエはモルタルの中に金網を入れることで上部な植木鉢が作れることを発見し、1867年にその特許を取得しています。

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*今でもセメントで作った植木鉢ってどこでもありますよね

モニエはこの後、建物にも鉄筋コンクリートを応用していきます。
しかしながら、鉄筋コンクリート構造において最も大事なのは、「どこに・どれくらい鉄筋を配置するのが最も効率的か」ということです。
これを解明するには、コンクリートや鉄の物理特性を理解して構造設計に落とし込む必要があります。
鉄筋コンクリート構造の大前提である「引張(コンクリートの弱点)を鉄筋で受け持つ」という大原則を提唱したのは、ドイツの技術者のマティアス.ケーネンであると考えられ、1880年代のことでした。
19世紀末、ドイツ国会議事堂の建設に携わっていたケーネンは、強度と耐火性に優れる鉄とコンクリートの組み合わせに注目し、これを議事堂建設に使えないかと考えました。
しかし、実績の少なく未だ設計手法も確立していないよくわからない材料を公共事業、しかもこのような国家プロジェクトに取り入れることはそう簡単なことではありません。(これ、現代も全く同じ)
そこでケーネンは鉄とコンクリートを組み合わせた構造の実験を重ね、材料力学に基づいて鉄筋を配置する量・場所を明らかにし、鉄筋コンクリートの設計手法が理論的なものとなりました。
理論的な設計が確立され、国会議事堂建設のような国家的な構造物に取り入れられたことはコンクリートが普及する大きな追い風となりました。

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*現在のドイツ国会議事堂は1999年に大規模修繕がされたようです

【プレストレストコンクリート】
コンクリートは引張に弱く圧縮に強い、というのは紛れもない事実ですが、これを改善するのはなかなか簡単ではありません。
でも、コンクリートの中に発生する力を変えることはできます。
端的に言うと、コンクリートをあらかじめ押しておくことによってコンクリート中に引張の力が発生することを抑え、これによってより強固な構造が可能となります。

文章だと何を言っているかわからないと思いますが、これは「プレストレストコンクリート」と呼ばれるコンクリートの使い方で、コンクリート内に配置した鋼材をあらかじめ引っ張っておくことによって作製します。
(プレストレストコンクリートの原理については、また別の機会に詳しくお話します。)
名前は「あらかじめ(プレ:pre)力を与える(ストレス:stress)」ことに由来します。

原理的にはそう難しい話ではないので、19世紀末からこの開発は試みられてきました。
しかしながらなかなか実構造物に反映することはできず、日の目を見ることはありませんでした。
プレストレストコンクリート技術を大成させたのはフランスウジェーヌ・フレシネーという技術者で、1926年にこの技術の特許を取得し、後にコンクリート内に配置したピアノ線を引っ張ることでプレストレストコンクリートの実用化に成功しています。
フレシネーがこの技術を確立できた理由は大きくわけて2つあり、1つは(19世紀には無かった)高強度な鋼材やコンクリートが開発されたこと、もう1つはコンクリートの体積変化を明らかにしたことです。
コンクリートの体積変化、というのは、たとえばコンクリートが乾燥することで徐々に縮んでいく(乾燥収縮)ことや、長い間力をかけ続けることで変形していく(クリープ現象)ことを指します。
これによってプレストレスの力がどれくらい減少してしまうかを予測することで、フレシネーはプレストレストコンクリートを確立することができました。

プレストレストコンクリートが最も活躍する構造物が橋ですが、これによって橋のスパンをより長くすることが可能となり、遠くの対岸まで橋をかけることや、橋の重さを低減することが可能になります。

この辺、文章で説明してもイメージがわかないと思うので、ググってみるのが早いですよ。

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*プレストレスを入れない、普通の鉄筋コンクリートの橋(東京 聖橋)。良く言えば重厚な、悪く言えば野暮ったい印象なのに対して、プレストレストコンクリートの橋はスリムでスパンが長い傾向。

【生コンクリート】

コンクリートで建物をつくるときの方法は大きく分けて3つほどあって、1つは工事現場にコンクリート工場(プラント)を建てて現場で練ることで、例えばダムのような大規模工事で用いられます。
とはいえ、毎回の工事でそんなことをやっている暇はなく、大多数の工事では、工事現場近くの工場で作られたコンクリートを固まる前のドロドロの状態で出荷し、これを工事現場で固めることで建物を作ります。
これが「生コンクリート」と呼ばれるものです。
世界で最初の生コンクリートは1903年ドイツでつくられたと考えられています。
日本国内では第2次大戦後に普及しましたが、生コンクリート産業の登場によってコンクリートの供給体制が整ったといえます。

生コンクリートの発展は建設作業車の発展と密接で、生コンクリートを工場から運ぶためのアジテータ車(ミキサー車)や、高いところ・遠いところにもコンクリートを流し込むことのできるポンプ車の活躍によって現代の建設工事が成り立っています。

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*アジテータ車。この中でコンクリートをかき混ぜて作っているわけではないので、ミキサー車という表現はホントは間違い。

【プレキャストコンクリート】

コンクリートで建物を作る3つめの方法は、あらかじめ工場で作られたコンクリートを、硬化した状態で工事現場まで運び、現場で接合する方法です。
これが「プレキャストコンクリート」と呼ばれるものです。
もともと、例えば石造りの橋を作る際にも、決まった形の石のブロックをアーチ状に積み上げていたので、ある意味では建設材料として自然な作り方である、と言えそうです。
そのためプレキャストコンクリートの起源というのは明確にこれというものはないのですが(例えば、1891年にフランスであらかじめ製作した梁を架けたのが最初の例でないかとも言われています)、上で述べたプレストレストコンクリートと非常に相性の良いものであると言えます。
プレキャストコンクリートのブロックをプレストレスの力によって一体化することで、非常に強固な構造を作ることができます。
工事現場の環境に左右されやすい生コンクリートと異なり、環境の安定した工場で十分に硬化してから出荷されるプレキャストコンクリートは高強度のものなど高品質のものにも対応することができます。
現代ではより高品質のコンクリートや難しい環境での工事が増えているので、生コンクリートに対するシェアも増えてきつつあるようです。

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*コンクリート技術発展の履歴。ヨーロッパがほとんど。

ここまでが、およそ世界の歴史の中でコンクリートがどう姿を変えて広まってきたか、というお話。
次は、日本におけるコンクリートの歴史を見てみましょう。

コンクリートの日本近代史

などとタイトルを銘打ちましたが、そもそも近代以前にコンクリートは日本に存在せず、少なくとも日本においてコンクリートは比較的歴史の浅い存在であると言えます。
また、日本は古くより木造建築の流れを汲んでいます
コンクリートは石に近い材料ですので、石造りのヨーロッパでは比較的容易に普及したと考えられますが、日本においては木材とは全く異質の材料であるため、どこか距離を置いて考えられることもあると個人的には思っています。
一方、コンクリートが日本の風土に向いていないかと言われればそんなことはなく、コンクリートの材料は全て国産可能ですし、地震や台風の多い日本では頑丈なコンクリート構造の需要は少なくありません。

かつて「コンクリートの平成史」というタイトルでここ20年くらいのコンクリートの話はしましたが、今回はそれよりもっと前の話から見ていきましょう。

【セメントの国産開始】
何度も書いてきたようにコンクリートにはセメントが必要なのですが、とにかくセメントがないことにはコンクリートが始まりません。
日本において最初にセメント(当時の言葉では攝綿篤)の製造に成功したのが尾張藩士の子の宇都宮三郎で、1875年のことでした。
場所は東京・深川官営工場ですが、製鉄でいうところの八幡製鉄所のようなものと考えてください。
日本のセメント製造は民間ではなく殖産興業としての国家プロジェクトとして始まったわけです。
現在は工場跡地に「本邦セメント工業発祥の地」という碑が立っています。

*清澄白川駅から徒歩10分くらいです。

民間のセメント製造業を始めたのは浅野セメントを立ち上げた浅野総一郎と小野田セメントを立ち上げた笠井順八であると言えます。(ちなみに両社は現在合併を重ねて太平洋セメントとなっています)
浅野は民間に払い下げられた深川工場を買い取り、渋沢栄一の後ろ盾を得て国内最大のセメント会社へと成長させていきました。
一方、民間初のセメント会社を立ち上げたのが笠井で、1881年に「セメント製造会社」を設立しました。
笠井がセメント起業を思い立ったのは、当初はセメントを高額で輸入していたことに対して「たかが石灰石と粘土ではないか」と憤慨したためと言われています。
(日本は石灰石資源が豊富なため、セメントの生産には非常に適しています。)
こうして日本でもセメントを自国生産する体制が整い、コンクリートは徐々に広まることとなりました。

【コンクリート構造の普及】

コンクリートにより土木インフラを作る取り組みで最も古く大規模なもののひとつに小樽港の築港があり、これの初代築港事務所長が廣井勇です。
廣井先生は日本の「港湾土木の父」と呼ばれる大人物ですが、コンクリート工学分野においても多大な功績を残しております。
廣井は1890年に小樽港築港事務所長に着任しますが、この時期、横浜港築港で使用されたコンクリートブロックにひび割れの発生が発見され問題となっていました。
これに対して廣井先生は、火山灰をコンクリートの材料に使用する方法を考案しました。(ローマン・コンクリートと同じ!)
火山灰との混合によりポゾラン反応というセメントの水和とは異なる機構の反応が促進され、これが耐化学性を向上させることが知られる遥か前の話です。
廣井先生は試験と施工を重ねて、火山灰コンクリートが厳しい海洋環境にも耐えらえることを実証しました。
さらに、向こう100年間以上にわたって耐久性試験を行えるよう、6万個にもおよぶコンクリート供試体を作製し、今現在もその試験は続いています

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*現在の小樽港

”技術者が千年にもわたって問われ続ける誉れと辱めとは、設計の立てかたにかかっているのである。そのための用意は、よくいきとどいて、遠大なはかりごとでなければならない。よろしく悟るべきである。”
廣井勇「築港巻之一」

話は変わりまして、日本で最初の鉄筋コンクリートが使われたのは、琵琶湖疎水の橋だと言われており、1903年のことでした。。
現在も見ることができるようです。

黎明期の建築分野での使用として代表的なところだと、日本で初めてコンクリート作りの寺社が作られた例として、東本願寺函館別院があります。
(当初はこのコンクリートというまだよくわからない材料を神仏の宿る建築物に使うことに、少なくない抵抗があったようです。)
建築分野で最も古い鉄筋コンクリート構造の1つが、軍艦島の集合住宅といわれており、1916年頃に建てられたものです。

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*日本初のRC(鉄筋コンクリート)建築は意外なところにあった!

法政大学の溝渕教授はその著書の「コンクリート崩壊(PFP新書)」で2012年に軍艦島を訪れた際の印象をこう綴っています。

”ただ、私としてはもっと朽ち果てているイメージを持っていたのだが、思ったよりも残っているという印象であった。(中略)鉄筋コンクリートの持つ強さのようなものを感じて、建物自体に何となく愛着を感じてしまった。”
溝渕利明「コンクリート崩壊」

海のど真ん中という環境は塩分を含んだ波風によって非常に厳しい環境ですが、まだ自立できているようです。
この時期に作られたコンクリートも十分な耐久性を持っていたと言えそうです。

少し時代を空けて第2次大戦後、戦後の復興に乗じてコンクリートが急速に普及します。
1949年、東京コンクリート工業の業平橋工場から、日本発の生コンクリートの製造が開始されました。
セメントと同様に生コンクリート発祥の地にも記念碑が立っており、スカイツリーのすぐ近くにあります。
生コンクリートが本格的に建設工事に使用されるきっかけとなったのが1951年東京メトロ丸の内線池袋駅工事であるといわれています。
国内におけるセメント生産量に対する生コンクリート分野での使用量の比率は、1955年にはわずか1.5%であったのに対して1988(昭和64)年には70%に達し、生コンクリートはこの数十年の間で瞬く間に普及しました。

その後土木・建築問わず大小様々なコンクリート構造物が建設されていきます。
ひとつひとつ紹介していくとキリがないので、これについては日本コンクリート工学会の特設サイトなどにまとまっております。
お気に入りを探してみてください。

*「日本のコンクリート100年」デジタルアーカイブというところに、土木・建築の代表的な構造物が載っています。

まとめ

今回はコンクリートの歴史についてふりかえってみました。
9000年前にイスラエルで作られた(現在確認されている中で)最古のコンクリートからおよそ7000年後に地中海の向こう側のイタリア・ローマでコンクリートが初めて工業的な材料として普及するも、その後また1000年以上の間コンクリートは姿を消しました。
ローマン・コンクリートの再発見とポルトランドセメントの発明、そして産業革命や近代化の波に乗ってコンクリートは急速に、かつ全世界的に普及し続けています。
これからコンクリートがどうなるかはわかりませんが、コンクリートがどのように広まってきたかを改めて知ることで、少なくともコンクリートが今いる場所を正しく見つめられるんじゃないかなと個人的には考えています。

最後に個人的に大事だと思う主要なコンクリートを挙げて今日はおしまい(国内多め)。

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*「僕、あのコンクリートと同年代です」って言うときのための年表(竣工年基準)

今日の本文は以上です。それでは、また。

【参考文献】
・R. Malinowski: Ancient Mortars and Concretes-Durability Aspect-, International Symposium on Mortars, Cement and Grouts used in the Conservation of Historic Buildings, pp. 341-350, 1981
・小林一輔:コンクリートの文明誌(岩波書店),2004
・土木学会:コンクリートライブラリー 131 古代ローマコンクリート-ソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡から発掘されたコンクリートの調査と分析-,2009
・加藤耕一:歴史の中で歴史のなかで、コンクリートの尻尾を掴む
http://10plus1.jp/monthly/2019/02/6-2.php
・鈴木圭,山下真樹:欧州における鉄筋 コンク リー ト技術の歴史的変遷一欧州初の鉄筋コンクリート指針成立過程に関する考察一,土木史研究論文集,Vol. 25,2006
・セメント新聞社:日本のコンクリート技術を支えた100人、2009
・溝渕利明:コンクリート崩壊 危機にどう備えるか,2013
【写真提供元】
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・街画ガイド
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今日のコラム:コンクリートと戦争について

多くの科学技術がそうであるように、コンクリートの利用や発展も軍事とは切り離せないものです。
例えばこれ。

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「トーチカ」は鉄筋コンクリート造の小型要塞を指すロシア語ですが、その使用はロシアに留まらず、国内でも根室などに残されています。
トーチカが前線で普及した背景には、銃火器の発展と戦争の変遷があります。
射程・火力が強烈な銃火器の発展により近代以降の戦争では、兵士が身を隠す場所が必要になりました。
このため資材が十分であればトーチカを作り、そうでなければ穴を掘って塹壕を形成しました。
陣営奥の強固な要塞は不要となる代わりに、小型要塞網が並ぶ前線での消耗戦は膠着状態を長引かせ、結果として近代戦争が総力戦になった一因と言えます。
この時、強度・耐火力に優れ、かつセメント以外の材料を現地調達できるコンクリートはトーチカには最適の材料でした。
これらを突破するために作られた、鉄筋コンクリートの壁をも貫通する徹甲弾は「べトン弾」と名付けられました。(べトン=フランス語・ドイツ語でコンクリートを指す)
歴史上、要塞構築に最も心血を注いだ国はおそらくフランスですが、フランスは第二次大戦前にドイツとの国境に「マジノ線」というトーチカ群を形成しました。
一方、国境を挟んで向こうのドイツは有事の輸送経路確保と国威掲揚のために「アウトバーン」と呼ばれる高速道路網を敷きました。
結果、マジノ線はドイツの電撃作戦によりルートから迂回されて無用の長物になった一方で、アウトバーンは現代高速道路の発展に多大な影響を与えました。
戦争の勝敗とは逆ですが、どちらがコンクリートを上手く使ったかは明白です。

戦時中の資材難がコンクリート工学に新たな知見をもたらしたこともあります。
例えば、第2次大戦中の日本では戦車や銃器に使うため、鉄が資材難となりました。
そこで、鉄筋コンクリート中において従来はほとんど考慮されていなかったコンクリート単体の引張強度も有効に評価しよう、ということで考案されたのが割裂引張強度試験です。
これは横倒ししたコンクリート円柱を押してパカっと割れる時の力からコンクリートの引張強度を算定するものですが、これを考案したのは赤澤常雄という人です。
彼は後に本文中にも登場した東京コンクリート工業業平橋工場の初代コンクリート部長として日本の生コンクリート創始者の1人に数えられ、この試験は現在でも行われています。
また、鉄の代わりに竹を補強材料として使用した竹筋(ちっきん)コンクリートというものが作られたりもしました。
日本国土に自生し、かつ驚異的な繁殖力を持つ竹が建築資材として注目されました。
鉄の代替材料として考えると、鉄の引張強度が400N/mm2なのに対して竹はおよそ200N/mm2とその半分、補強材料としては悪くない数字です。
比重は0.3~0.4と鉄の7.9よりはるかに軽く、竹細工などで日本人は昔から竹に慣れ親しんでいたため、加工も容易であったようです。
現存する竹筋コンクリートは旧国鉄宮原線アーチ橋や山口県の岩国徴古館など数えるほどしかありませんが、例えば鉄資源の少ない発展途上国で役立てないかといった風に、最近でも研究が行われています。

あるいは、鉄で作っていたものをコンクリートに置き換えようという考え方もあります。
船の街として有名な広島の呉には船の形をした変わった防波堤がありますが、実はこれはかつて使用されていたコンクリート船。
武智正次郎が作った「武智丸」は軍用艦として物資の輸送などの役割を果たし、鋼鉄船に衝突されても沈まなかったという逸話も残っています。

軍事と科学の発展は切り離せない部分がありますが、コンクリートも例に漏れないようです。

ほんとに終わりです。じゃあね。


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コンクリートが好きです。https://twitter.com/cncrt_ey

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コメント (3)
誤変換(の可能性)報告。

”波風の激しい環境では木材よりも上部な石造りの灯台を建設する必要があり”

上部→丈夫

”アスプディンの時代の窯の温度も1100~1200℃程度で現代と言われており、”

現代→限界?

”笠井がセメント起業を思い立ったのは、当社はセメントを工学で輸入していたことに対して”

当社→当初?
工学→高額
修正致しました、ご指摘いただきありがとうございます。
誤字だらけの拙文ですみません、大変助かりました<(_ _)>
コメント欄より失礼いたします。月刊誌で「土木技術」という雑誌を編集・制作しております、今枝と申します。Yasuda様の文章、とても興味深く拝読しております。突然ですが、一度、お話をお伺いさせて頂きたくご連絡差し上げた次第です。
可能でしたら、imaedaアットマークrikohtosho.co.jpまでご連絡頂けませんでしょうか?
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