「再考 真理のことば」のアカウント

 私は、お葬式はお坊さんが来て読経してくれる家系で育ったので、漠然と自分は仏教徒だと思っていました。
 神様は神社、お坊さんはお寺だということ、
 神社はほぼ公園でお寺は閉鎖的でお墓
というイメージで30代前半まで過ごしてきました。子どもの頃から不思議と神社は好きで、神様は楽しい陽気な雰囲気と勝手に思って(知って❓)いました。
 
 今、伊豆能売神諭を読んでいるのですが、仏教に関しては強い批判があります。既存の日本の仏教は見直さないといけない部分がたくさんあるのは、私も共感するところです。現に、「再考 真理のことば」で書き換えまでしてしまったのですから、自分とて相当批判したと思います。

 今回は、大本聖典と仏教聖典の「再考 真理のことば」について考えてみました。

 私が仏教聖典「真理のことば」と「ブッダのことば」に出会ったのは、大挫折を味わった35才の時でした。「真理のことば」に書いてあることと自分の挫折の経験が同期しているかのように感じて、その当時で「真理のことば」は、3、4回は読んだと思うんですよね。
 それでも、「真理のことば」は「ブッダのことば」より納得いかない部分が多かったのと、短かったので、自分なりに咀嚼して「再考 真理のことば」を書いたのです。

 他方、私が大本教の経典で、一番初めに知ったのは、40才前後で、当時 ブログサイト「大摩邇(おおまに)」様でよく紹介されていた日月(一二三)神示です。その当時の世の中をすごく言い当てていて妙だなと感心し、これはこの世を支配している悪魔が記した書ではないか?と疑ったくらいでした。同時に、懐かしいと強く強く感じましたが、絶対的に近づいてはいけない何かを感じて積極的に触れることはしませんでした。一二三神示を遠ざけてしまったのは、悪魔だと感じたからだと自分では思っていましたが、現在では、どうも私にとっては時期尚早な情報だったため開示されなかったと考えるようになりました。

 一二三神示を知った後2、3年経って、とても親切にしてくださったネットの知り合い、後に自分の師匠だなと思い知った方に勧めてもらっても、一二三神示も出口王仁三郎聖師様のことも、緩やかな拒否が続いていたと思います。しかし、私も大人なので、食わず嫌いはいけないなと思い直して、日月神示を購入して読んだ時の衝撃はすごいものがありました。さらに、一二三神示から得た知識の力を借りて、「再考 真理のことば」を書き上げることができたのも事実です。

 一二三神示の書籍を主人や兄弟に貸したのですが、口を揃えて「文語調で読めない」って書籍が返ってくるんです。  
 今から思うと、日月神示は多少の時代的な違いはあるけれど、現代語とそんなに変わらないと思うんですよね。要するに内容が頭や心に入ってこないだろうと思い至った次第です。
 では、なぜ自分の頭や心には入ってきたのか?これは、やはり仏教経典の「真理のことば」や「ブッダのことば」を大挫折という自分の経験に照らし合わせて精読する機会があったからだと思います。

 前出のネットの師匠が、「仏道は人間として完成するための道で、それを収めたら神道に入る」ということを教えてくださったのです。やはり、今考えると、いきなり一二三神示や大本神諭(読んでいないです。)、伊豆能売(いずのめ)神諭は難しいと思います。82巻もある霊界物語に至っては、いきなりなんて 現代人にとっては絶対に無理です。

 やはり、仏道を通して自分を治めた後に神道の教えによって、自分を高めていく必要があるという結論に至るのですが、そういうマッピングであれば、やはり仏教経典を世に灯すことは重要であり、私の勝手な考えで「再考 真理のことば」のアカウントを停止するのは望ましくないと言う考えに至りました。

 最後に、お坊さん方は、仏教聖典を檀家さんにお話しされると思うのですが、仏教聖典の理解が深くなると思いますので、大本経典の大本神諭、伊豆能売(いずのめ)神諭、そして三鏡、さらに一二三神示の一読をお勧めします。

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