41年前の今日イアンカーティスはなぜ死ななければならなかったのか 〜 ニューオーダーの鈍感力

41年前の今日、1980年5月18日、ジョイディビジョンのヴォーカリスト、イアン・カーティスが自宅で自ら首を吊って死にました。享年23歳。

ジョイディビジョン / イアン・カーティスの半生を描いたセミ・ドキュメンタリー映画「コントロール」にてイアンを知った方も多いかと思います。

まずイアンのパーソナリティーについて少し解説します。

普段は気さくで優しくて常に周りに気を使っているような人だったそうです。
新しもの好きで常に刺激的な音楽を求めていて、メンバー(後のニューオーダー)にクラフトワーク等のエレクトロを最初に勧めたのもイアンだったんだそうです。

決して鬱々とした友達がいないような消極的なタイプではなかった。積極性があり、彼らの所属レーベル社長で彼らのボスとなるマンチェスターのマルコム・マクラレン トニー・ウィルソンとの初対面のシーンで、トニーにいきなり喰ってかかるイアンの様子が「コントロール」にも描かれています。

ところが彼はてんかん持ちで、時々自分がコントロールできなくなっててんかんを起こしたり倒れたりしていた。ステージ上で倒れることもあった。
自分をコントロールできなくなる瞬間が訪れる恐怖に常に苛まれていた。

ジョイディビジョン(以下JD)が活動していた1978~79年頃というのはパンクムーブメントが少し落ち着いてきて、ゲイリーニューマン率いるチューブウェイアーミーが活躍していたり、キリングジョークやポリスがデビューした時期でした。
パンクにおける外部へ向けての訴えや自己主張といった攻撃性がステレオタイプ化し、もはや過激ではなくなって一介のポップカルチャーの1アイテムとして消費されつつあった時期でもありました。

何か新しいものを!汚れのない、手垢にまみれてないものを!そういった風潮にJDはどんズバリではまりました。結成してまもなくすぐに熱狂的に受け入れられました。
世界で初めて発見されたパルサー「PSR B1919+21」をあしらったジャケットで発表された衝撃の1st「Unknown Pleasures」は発表後すぐにインディチャート上位に躍り出ました。
(パルサー「PSR B1919+21」について説明すると恐ろしく長くなるので興味がある方はお手数ですが自分で調べてください。JDファンの方は「PSR B1919+21」で画像検索するだけで大興奮できますよ!)

パンクがそれまで外部に向けていた不満や疑いの目といった攻撃性を、イアンは歌詞によって自分の内面に向けました。
そして、てんかんで倒れる寸前のけいれんのようなダンス・・・いや一種異様な動き?で一歩間違えば観てる人がドン引きするような圧巻のパフォーマンスで時代を圧倒した。席巻した。

彼の独特なパフォーマンスは彼が最も避けたい、考えたくない、彼の最も巨大な闇であるダークサイドであるてんかんを彷彿させるものでした。
なぜ彼はわざわざそんなパフォーマンスをしなくてはいけなかったのでしょう?

魂を汚さず、ピュアなままの魂を、究極的なところまでさらけ出すこと。
つるんで反体制を言っていたパンクへのアンチテーゼとしても、「個」をさらけだすこと。

これがイアンが自分に課した「使命」だったんだと思うんです。

そんな彼が不倫をする。妻も愛している。愛人も愛している。
もうここで大抵の女子は、ありえない!とお思いでしょう。まあもう少しお付き合いください。

普通の人だったらどちらも好きであっても体面や社会的な常識の範疇に乗っ取って、どちらかと別れるでしょう。
しかし自分の魂に嘘をつかない、自分の魂を汚さない、ということだけを信念として生きてきたイアンに、好きなのに別れる、ということはできなかった。

イアンの辞書には「妥協」とか「開き直り」とかいう言葉は存在しなかったのでしょう。

JDが売れてきてアメリカツアーの話が持ち上がりました。
その時期にイアンはこともあろうにアメリカ行きの不安感を増長させるような体験をしてしまいます。

ツアー出発の2日前、BBCで放送されていた映画~自由の国を夢見てベルリンからアメリカに渡ったストリート・シンガーの主人公が、破滅して自殺するまでを描いた作品、ニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督ヴェルナー・ヘルツォーク監督『シュトロツェクの不思議な旅』をこともあろうに観てしまったのです。

JDは極端なまでに英国的な、マンチェスター的なバンドでした。果たしてアメリカで受け入れられるのだろうか?もし受け入れられなかった場合、自分の魂に嘘をついて、自分の魂を汚して、バンドをアメリカナイズさせることが自分にできるだろうか?

イアンの辞書には「妥協」とか「開き直り」とかいう言葉は存在しなかったのでしょう。

ツアー前日の夜、イアンはキッチンで首を吊って死にました。



尊敬する映画監督、映像作家の方と飲む機会がありました。

自分は編曲家 / サウンドプロデューサーとしてはある程度の評価を頂けてごはんを食べてこれましたが、編曲 / サウンドプロデュースした楽曲に比べると自分で作曲して世の中に出回った楽曲というのは作る時間が無かったとは言え極端に少なく、作曲家としては殆ど評価されていません。作曲しても「洋楽っぽすぎる」「良いんだけど難しく聴こえる」と言われることが多い。どうしたらよいか、という悩みを抱えていました。

監督から金言を頂きました。大事なのは開き直りだと。

「開き直る」というのは、妥協することでもあきらめることでもない。嫌いなもの、俗なものであっても、嫌いなもの、俗なものと認識したまま、自分のキャパシティーを広げて、心を強くして、受け入れる事ができた状態を初めて「開き直り」というのである、と。

開き直ったクリエイターは、受け手に媚びる必要は無い。受け手をだますことができる。作品が結果受け入れられたのであれば、そこの「だまし」は良い嘘なんだよ、と。開き直らないと、絶対に売れないよ、と。

天井をつきやぶって頭の上に墜落した航空機が落ちてきたかのような衝撃でした。その瞬間頭の中にイアンの死後残されたJDメンバーが仕方がなく次に始めたバンド、ニューオーダーの「Blue Monday」という曲が流れ出しました。僕は一人家に帰ってから改めてBlue Mondayを聴きました。

イアンの心象風景そのもののように陰鬱としていながらも最高に美しかった汚れのなかったJDの曲たちに比べたらこのBlue Mondayはなんてチャラいんだろう!ゆ、ユーロビートじゃん!しかし、そこには残されたニューオーダーのメンバーの強い「開き直り」があったのです。

イアンは生前から他のパッとしないメンバー達(後のニューオーダー)にクラフトワーク等の「打込みもの」を聴かせ、こういうのやりたいんだよなーと言っていました。しかし他のパッとしないメンバー達はへたくそなパンク上がり少年だったので、イアンの指向に理解を寄せつつも実行できないでいました。

イアン亡き後残されたパッとしないメンバー達はNEW ORDERというグループ名を名乗る事にしました。イアンの死から3年後、NEW ORDER はイアンがやりたくてもできなかった打ち込みによる楽曲「BLUE MONDAY」をリリースしました。

BLUE MONDAYの世界観はイアンの死を悲観するような感性は皆無で、自分の状況を俯瞰で見つめる徹底した冷静さと相反するポップさを内包した不思議な曲でした。

なんとこの曲は世界的な超大ヒット・ディスコソングになってしまいました。チャラ・ソングとして広く受け入れられたのです。

イアンの純粋すぎるヒリヒリした感性は自分以外の世界からの評価や状況に自分をチューニングすることができませんでした。イアンの美しい魂は敏感すぎたのです。

しかしその後やむを得ずそうなってしまったNEW ORDERの鈍感力は世界を席巻しました。音楽の歴史を変えました。 

僕は、いかなる形であっても理由であっても自殺を美化してはいけないと思っています。イアンをディスってるのではありません。大好きです。

が、クリエイターに必要なのはものごとを前進させる力だと思います。
そして時にはニューオーダーのような鈍感力や開き直りだって必要なんだと思います。

5月18日、今日と言う日は毎年そういったことを考える日です。イアンの魂が安らかであることをお祈りします。

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