煙草を吸うと悪いことをしているようで

3ヶ月ほど前に煙草をやめた。「禁煙しよう!」という明確な意志があったわけではないのだけど、あるきっかけで吸わなくなり、気付けば3ヶ月ほど経っている。喫煙歴は1年ほどで、吸う本数は月に1箱〜3箱程度。頻度も本数も少なくて所謂ニコチン依存症にもならなかったが、かといってやめようと思うこともなかった。
吸わなくなったきっかけは、地方で働く友人との再会。彼女と知り合った頃はまだ煙草を吸っておらず、再会の際に吸うようになったことを知られたくなかったため、会っている間は煙草に手をつけなかった。なぜ喫煙を彼女に知られたくなかったのか。単にいい格好をしたかったのかもしれないけれど、自分の中で何か腑に落ちない感情だった。その時にはわからなかったが、自分が喫煙という行為に対して背徳感を持っていることを自覚した瞬間だった。

一般的に喫煙は健康に悪影響を及ぼすといわれている。「煙草が本当に害があるのか」という議論もあるが、少なくとも自分はニコチン依存症にもなっていないし健康に悪いという感覚はほとんどなかった。(耐性も離脱症状も見られなかった)
ではどこから背徳感が生まれたのか。その答えは「喫煙は道徳的に許されない行為である」という認識が知らぬ間に植え付けられていたからだった。健康に悪いからではなく、たとえ健康に影響がない程度だったとしても、その行為自体が許されないという認識である。
成人してから煙草を吸うようになり、はじめは親しい人から「あれ?煙草吸うの?」と驚かれることもあったが、すぐに皆慣れていき、頼む前から自分の席に灰皿が回ってくるようになった。そんな中、僕が煙草を取り出す度に「え、吸うの」と嫌な顔をする友人が1人いた。煙草をやめろとはけっして言わないが、きっとこの人は僕が煙草を吸うことを許していないという気がしてならなかった。恐らくこの友人の存在が、知らぬ間に喫煙に対する背徳感を生んでいたのだろう。そしてあの時、これから再会する彼女が同じ様に、自分が煙草を吸うことを許さないだろうなという気がしていたのだ。

大人になると自分の行動に責任を持たなければならない。裏返しに、煙草を吸おうが個人の勝手だと言えるのだが、それを許してくれない人がいるというのは、ある意味幸せなことなのかもしれない。
あれから3ヶ月、今も特に禁煙をしているつもりはないのだが、煙草に火を点けることに対する抵抗感は日に日に強くなっている。