年下の上司に対して敬語をどうするか問題~あるいはO氏をめぐる攻防戦~

 私は四十代半ばの、キャリアウーマンではないただの「働いている女の人」である。

 私が働く会社は三十代中頃に自分のキャリアを決める「別れ道」がある。一方は試験を受けて役付きを目指す道、もう一方は一生ヒラで過ごす道だ。私はずっと前から自分の進むべき道は後者だと決めていた。能力もないしやる気もないし、上昇志向など生まれてこの方一度も持ったことがない私にはふさわしい道だ。かくして私は一度も昇進試験を受けぬまま年齢を重ねた。

 こちら側の道を選んだ人間にとって、それなりの年齢を迎えたときに直面するのが「上司が年下になる」という問題である。幸いなことに私は自分よりも若い人に指導されることには何の抵抗もないため、上司の年齢で私の意識が変わる、ということはない。
 ただ一つ、少し難しい問題がある。それは「年下の上司に対して敬語を使うかどうか」というものだ。

 実は、私はこの問題に直面するずっと前から「自分よりも役職が上の人には、年齢が上でも下でも敬語で話すことにしよう」と決めていた。私は普段、年上の人には敬語を使い、年下の人にはタメ口で話しているのだが、一生ヒラでいれば、これから先、若い人たちにどんどん抜かれていく。近い将来年下の上司が現れたら、ちゃんと敬語で話そう。そう決意していたのだ。

 そんな折、私の所属する係に、会社内でも将来を嘱望されている三歳年下の男性が異動してきた。まだ昇進試験を受ける年齢に満たなかった彼は私と同じ職位だったため、私は当然のようにタメ口で彼に接していた。しかしあろうことか数年後、彼は順調に試験をパスし、私の上司(副リーダーとしておく)になったのだ。

 困ったことになった。私は頭を抱えた。私の「年下の上司」の想定はあくまで「はじめましての段階ですでに上司」の場合であり、「後輩だった人がそのまま上司になる」という展開は考えていなかったのだ。しかし年度をまたいで昨日はタメ口、今日から敬語というわけにもいかないし、かえって相手に気を遣わせてしまうだろう。結局私は悩んだ挙句、「業務の相談は極力敬語、それ以外はタメ口」という、非常に中途半端な着地点を見出したのである。

 数年後、順調にキャリアを積んだ彼はめでたくリーダーへと昇進した。その結果空席となった副リーダーの席を埋めるべく異動してきたのが、問題の男、O氏である。O氏も私より年下だが、マイルールでは敬語を使うべきである。しかしことはそう単純ではなかった。O氏はリーダーと同い年であり、しかもかなり親しい友達だったのだ。
 またもや私は頭を抱えた。この状況ではO氏に敬語を使ってリーダーにタメ口では明らかに矛盾が生じる。だからと言ってこのタイミングでリーダーに敬語を使い始めてもおかしなものだ。かくして私はこのO氏に対しても、「業務の話のみ極力敬語」という中途半端な策を取らざるを得なくなった。

 そして時は過ぎ、春を迎え、私は新しい職場に異動になった。私は今までの反省を生かし、年下が多い新天地には新たな作戦で挑むことにした。それは「役職や年齢にかかわらず、誰にでも敬語を使う」という、完璧なものだった。

 実はこの新たな作戦にはお手本となった先輩がいる。その先輩はO氏が異動してくる前に一緒に働いていた人で、誰に対しても敬語で接していたのだ。はじめから全員に敬語で接していれば、人事に乱される心配はない。これで残りの社会人生活は安泰だ。私は胸をなでおろした。

 しかし、問題はそう単純ではなかった。最初の滑り出しはすこぶる好調で、私は話す人全員に敬語を使い、新しい職場で「そこそこ丁寧な人」という印象を与えることに成功していた(はずだ)。だが、新しい職場で私と同じ業務を担当する、一回り近く年下の男性が、よりにもよってO氏と同じ団体で活動しており、常時連絡を取り合う関係であることが発覚したのだ。

 正直なところ、私ははじめ、そんなことは取るに足らないことだと甘く考えていた。だって私は「全員に対して敬語を使う」というスタンスに変えたのだから。しかし、今までタメ口で話していた人に対しても新ルールを適用すると、急によそよそしくなってしまうため、その変更はあくまで「これから出会う人」に限定していた。そんなある日、年下の新しい同僚と私が敬語で話しながら歩いていると、向こうからO氏がやってきた。私はいつものようにタメ口で一言二言会話をしてから、そのことに気が付いてしまったのだ。新しい同僚にとって私は「数個年下のO氏にはタメ口なのに、一回り近く年下の自分には敬語を使う、心を開いていない人」になってしまうということに。

 まさか新天地にまでO氏の罠が仕掛けられていたなんて。私は再び苦悩し、やがて一つの結論に達した。「誰に対しても敬語」という作戦は、はじめから、おそらくは社会人一年目からはじめていないと意味がないのだ。中途半端なタイミングで始めるとこういうことになる。これ、どうすりゃいいのだ。
 結局私は新しい同僚に対し、タメ口を使う方向で調整することにした。まずは彼よりも若手の女性職員との会話を敬語からタメ口に変え、新しい同僚に対しても、初めは雑談の時にちょっとずつタメ口を挟み、段々とタメ口に移行する。そして私はなんとか「異動したての頃はみんなに敬語だったけれど、打ち解けてくると年下にはタメ口になるタイプ」として凌ぐことが出来たのである。

 さあこれで一安心、と言いたいところだが、O氏がもたらす影響はそれだけではなかった。なんと、新しい職場の副リーダーはO氏の前職場の一期下の後輩なのだ。恐るべしO氏の人脈、いや、むしろ私がO氏のテリトリーに足を踏み入れすぎている気さえする。まさに私の運命はO氏の手中にある、と言っては過言ではない。一難去ってまた一難。今の私の最大の悩みは、副リーダーに対し、今までどおり敬語を続けていくか、それともO氏との関係を加味してタメ口にシフトしていくか、ということである。

 そんなわけで私の人生に驚くべき影響を与えているO氏だが、当然のことながらO氏本人は私の苦悩など知る由もない。いつか文句の一つも言ってやりたいところだが、次に同じ職場になることがあれば、きっとO氏は今よりもずっと高い地位にいることだろう。その時に私はタメ口で文句を言えばよいのか、それとも敬語で不平不満を上げ連ねればよいのか、これまた悩ましいところである。

 結局O氏は常に私を悩ませるのである。

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