海なし県の人間なので、田んぼを海だと思い込もうとした話

 夕暮れの田舎道を、窓を全開にして車で走る爽快さは、経験したことのある人にしか分からないだろう。もちろん世の中には数多の爽快な場面が転がっているから、「経験する機会がない人は人生を損している」というほどではないけれど。

 その日私はいつものように窓から流れ込む甘いような香ばしいような風を味わいながら車を走らせていた。季節は夏の背中が見え始めた5月の終わり。どちらかと言えば運転が苦手な私だが、いつまでだってこうして走っていたいと思うほど、気持ちの良いドライブだった。

 車に繋いだスマホからは、サブスクのプレイリストがランダムに流れている。市街地をぐるりと囲む大きな通りに出る交差点で、信号が赤に変わった。そのタイミングで、昔流行ったバンドのお気に入りの曲が流れはじめる。それは海沿いにある街をモチーフにしたアルバムの中の一曲で、ゆったりしているのに落ち着かないメロディと、歌詞の独特の世界観が好きで、若い頃から繰り返し聞いているお気に入りの一曲だ。

 私は頬を撫でる夕暮れの風に心地よさを覚えながら、歌詞が紡ぐ情景を思い浮かべてみた。叶わない恋と涙、そして海。ああ、なんて胸を締め付けられる組み合わせだろう。すっかりさび付いた私のハートがきゅんとなる。より深く曲の世界に浸ろうと、私は窓の外に目をやった。眼下に広がるのは一面の海、な訳はない。なぜならばここは海なし県なのだ。それならばせめて海の代わりになりそうなものは、と辺りを見回した私は、すぐに「それ」の存在に気が付いた。夕暮れの光を浴びて鏡のように輝く地平、そう、水田だ。

 都会以外の場所に住んだ経験がある方ならばよくご存じだろうが、水が張られた田んぼには独特の美しさがある。ということは、田んぼが海に見えるという奇跡が起こらないとは限らないのではないか。とりあえず私は頭の中で何度も念じてみることにした。これは田んぼじゃない、海だ。これは田んぼじゃない……

 否。これはどこからどう見ても田んぼだ。だって等間隔に苗が植えられちゃってるもん。「これは海ですか」「いいえ田んぼです」そんなポンコツの英語教材のような会話すら成り立つ余地がないほど、眼下に広がるのは、疑いようのない、見まごうことのない、ライスフィールド、田んぼである。

 いいや、諦めるにはまだ早い。強く思えば必ず願いは叶う。窓からは心地の良い風、軽快に流れる音楽、そしてキラキラ光る水面。これは海だ。よく見ると、奥の方にある棒になにやら白い鳥が止まっている。あれはカモメだと思えば思い込めなくもない。ほら、ますます海らしくなってきた。そして曲はついに一番最後の大きなサビに入る。

 その時だった。棒の上で白いものがひらりとはためき、私は気づいてしまった。鳥だと思っていたその白いものは、田んぼの境界を示す白旗だったことに。その瞬間、私は悟った。田んぼは海にはなれない。

 信号が青に変わり、私はじんわりとアクセルを踏み込んだ。車はゆっくりと加速していく。スピーカーから流れる音楽は、いつの間にか難解な流行歌に変わっていた。

 田んぼの向こうに広がるのは水平線ではない、隣の敷地の田んぼだ。田んぼから聞こえるのは船の汽笛ではない、蛙の大合唱だ。海も田んぼも広くて大きいけれど、田んぼでクロールは出来ない。なぜならば田んぼは米を育てる場所だから。

 海のある県に住む人間には決してわかるまい。これが海なし県の絶望だ。

  

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