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焼失した宝台院の大伽藍

今回は昭和15年の静岡大火によって焼失した宝台院の大伽藍について書きたいと思います。

宝台院にはかつて広大な寺領と大伽藍が存在しました。
これらは江戸幕府二代将軍徳川秀忠によって寄進造営されたものです。

宝台院はもともと静岡市葵区柚木の地に龍泉寺という名前で創建されました。
その後、徳川家康により静岡駅前(現静岡パルコのあたり)に移され側室お愛の方(秀忠公生母)を埋葬します。

家康公の死後、秀忠公は自分の母の菩提寺をさらに盛り立てたいと考えて幕府をあげた一大事業を推進します。
それが後に国宝となる宝台院大伽藍の造営事業です。
将軍引退後に自ら駿府にお越しになり采配をふるいました。

旧伽藍図

建築の詳細

大工棟梁に甲良豊後守宗広を、絵師に狩野探幽を指名し当時の文化、芸術を結集させて二条城や日光東照宮、増上寺と並ぶ建築体制を構築します。
特に二条城をモデルとして同じ様式、部材を使って建築を進めました。

落慶(竣工)

寛永5年(1628年)いよいよ落慶し、大法要が営まれます。
この際、天皇家より勅使が派遣されお愛の方(西郷局)に従一位の位と「宝台院殿」という諡号が授与されました。
これをもってこのお寺は宝台院と名を改めることになりました。

寺格や寺法について

この大法要の際に、正式な寺格や寺法が寺社奉行によって定められます。
寺格 触頭(駿河国を統括する寺院)
   徳川家菩提寺
   紫衣檀林(後水尾天皇の勅許)
寺領 300石(境内一万坪)
待遇 10万石(江戸城登城時)

大伽藍の詳細

いわゆる七堂伽藍の形式にて造営されました。
大門、中門、本堂、宝台院殿御霊屋、崇源院殿御霊屋、大方丈(御神殿)、御供所、鐘楼堂、開山堂、茶堂、庫裏、什宝蔵、米蔵、塔頭六坊(祐崇院、峯厳院、祥雲院、欣浄院、長寿院、最勝院)です。

本堂

旧本堂

伽藍の中心となるお堂であり間口15間、奥行13間で大本堂と呼ぶべき建築です。
ご本尊は恵信僧都源信作の阿弥陀三尊です。
京都の浄土宗大本山百万遍知恩寺の御影堂と全く同じ寸法ですのでいかに壮大かがご理解頂けるかと思います。

大門及び中門

大門及び中門

こちらは宝台院の玄関口である大門です。
朱塗りの八脚門で火事で焼失する前に移設(菊川市の応声教院)されたため現存しております。
また現在、国指定重要文化財に指定されております。

宝台院殿御霊屋

宝台院殿御霊屋
御霊屋内陣


このお寺の伽藍の中では一番特殊な建物です。
お愛の方のご遺骨及び位牌を祀る霊廟です。
典型的な御霊屋建築で作られ、火事にて焼失するまでは江戸時代初期の貴重な霊廟として注目されていました。

大方丈(御神殿)

大方丈
将軍御成の間

大方丈は本堂右側に配置されたお堂です。
内部は襖にていくつかの部屋に区切られており、御神殿を中心として将軍御成の間、方丈の間などがございました。
将軍御成の間は主に歴代将軍が宝台院殿御霊屋をご参拝する際の休憩室として利用されておりました。

焼失した文化財

狩野探幽の襖絵
徳川秀忠木像

火事で焼失した貴重な文化財は数えきれないほどです。

徳川家御用絵師である狩野探幽の襖絵や徳川秀忠木像、徳川家康木像、歴代将軍の朱印状、恵信僧都源信作の阿弥陀三尊、大蔵経、蔵書五万冊などです。

火事を乗り越えて

本堂焼跡

これらの大伽藍は全て昭和15年の静岡大火により灰燼に帰しました。
当時の住職であった野上運外大僧正は墨になった大蔵経をステッキで突き、容易く崩れた姿をみてポロリと涙を流したそうです。

その後宝台院は本堂再建を経て、かつての姿を伝えていくことを使命として約80年活動してきました。

今後とも檀信徒の皆様、地域の皆様と共に護持興隆に努めてまいります。

本院本堂
別院本堂

執筆者
宝台院副住職 野上崇光

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