シャチの虐待を嬉々としてPRする神戸市のメディアに感じた違和感の訳

久しぶりにサンテレビのHPを見たらリニューアルされていて、サンテレビがお勧めするニュースがピックアップとして表示されるようになっていた。そこでお勧めされている動物虐待のニュースに強烈な違和感。なぜこんなニュースがお勧めなのだろう。シャチを「エレファント・マン」的に見世物にすることには反対である。

そう。いかにも「エレファント・マン」的であると私は感じる。両親が映画好きで、子供の頃になんだか難しい映画を沢山見させられた記憶がある。「エレファント・マン」もそうだし、他にも「海と毒薬」なんていう映画を小学生の時に見させられた。そんな映画のことがサンテレビの報道を見て不意に頭をよぎるのには驚きである。なるほど、映画にはやはり意味がある。

「海と毒薬」のテーマについて、ネットに次のような説明があった。

成文的な倫理規範を有するキリスト教と異なり、日本人には確とした行動を規律する成文原理が無く、集団心理と現世利益で動く傾向があるのではないか。小説に登場する勝呂医師や看護婦らは、どこにでもいるような標準的日本人である。彼らは誰にでも起き得る人生の挫折の中にいて、たまたま呼びかけられて人体実験に参加することになる。クリスチャンであれば原理に基づき強い拒否を行うはずだが、そうではない日本人は同調圧力に負けてしてしまう場合があるのではないか──自身もクリスチャンであった遠藤がこのように考えたことがモチーフとなっている。

ウィキペディアより

この説明に書かれているように、確かに日本には宗教的な倫理規範がないように思う。先の戦争中、アメリカの情報局で日本人を分析していた文化人類学者のベネディクトも同じことを指摘している。日本人には、恥の意識はあるが、罪の意識がないため、日和見的になり同調圧力に流されやすい。つまりメディアによる宣伝効果が高いのだ。メディアが一旦流れを作りだせば、恥の意識(同調圧力)によっていくらでも日本人を操作できる。その結果がコロナワクチン大災害でもある。また神戸のメディアは同じ流れを作り出そうとしているのか。本当にうんざりである。

であればこそ、子供の時に何を見て何を感じるか、ということは非常に重要である。私の場合、子供の頃に見た「エレファント・マン」が、ある意味でキリスト教的な罪の意識として作用し、違和感となって表れたのだろう。これはおそらく、シャチが社会的な生き物であると言われるからだと思う。自身が奴隷として扱われていることを認識できているとしたら、あまりにも可哀そうである。そもそも神戸市は比較的自然環境に恵まれた都市で、シャチの虐待に違和感を感じている住民も多いのではないだろうか。

余談だが、実はこのキリスト教的な罪の意識が自由主義経済における土台になっている。自由主義という経済イデオロギーは、実は道徳哲学から生まれたものなのである。経済学の祖として知られるアダム・スミスは、もともとは哲学者であり、著書「道徳感情論」の中で、キリスト教的な倫理規範の重要性を説いている。「汝の隣人を愛せよ」、というキリスト教的な規範が自由主義的な経済イデオロギーの基盤なのである。お金もうけのためなら何をやってもいいという考えは、実は、そもそもの自由主義の経済理論からいって矛盾しているのである。最近は本家の英国でも矛盾したことが多いのだが。

以上






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