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「生きる力」は人それぞれ

「あなたには、『生きる力』がない」

当時8歳だった私に、小学校の担任の先生がかけた一言。当時の私は、それを聞いて目の前が真っ暗になった。私はその言葉を、「あなたは、大人になるまで生きられないよ」という意味に受け取った。余命宣告を受けたような気分だった。

その発言の経緯は、次の通りである。

私は小学校時代、言葉を理解する能力はあるものの、極度の緊張により学校ではほとんど言葉を発することができない状態だった。そのため、通常の学級の他に、「特別支援学級」と呼ばれる、障害などのある児童を対象とした学級にも週に数時間、通級していた。私は、週のほとんどの授業は通常学級で他のクラスメイトと一緒に受けていたが、特定の何コマかの授業は、通常学級を抜け出して特別支援学級に通うというスタイルを取っていた。

ある日、通常学級の担任の先生が、気が付かずに終了時間をオーバーして授業を続けてしまうということがあった。次のコマは特別支援学級に通う予定があった私は、非常に困ってしまった。この状況において、普通の児童なら、「先生、時間なので私抜けます。特別支援学級に行ってきます。」などと一言声をかければ済む話である。だが私の場合、学校で声が出せないから、特別支援学級に通級しているのであり、その声掛けができない。私が困っていることに気が付いた近くの席のクラスメイトが、私が特別支援学級に行きたがっている旨を代わりに先生に伝えてくれた。私はほっとした。だが次の瞬間、先生はこう言った。

「通級するのは、あなた自身の勉強のためでしょう? 自分で伝えられずに、友達に伝えてもらうなんて、あなたには、『生きる力』がない」

先生は決して私を嫌がらせるつもりはなく、私の将来を思って言ってくれたのだということはわかる。自分のことは自分でできる自立した人になってほしい、と思って言ってくれたのだろう。だが、「生きる」/「死ぬ」といった、人間の生存に関わる言葉のインパクトは思いのほか大きく、20年近く経った今でも、この発言は私の心の中に残ってしまっている。

そもそも、「自立して生きる」とは何だろうか。

例えば、病気などにより車いすで生活している人は、自分の足で歩いていないから、「生きる力がない」ということになってしまうのだろうか。それは違うと思う。車いすという「足」を使って、自分にできる方法で生活しているのだから、「その人なりの方法で生きている」と言えるだろう。私が小学校時代に学校で話すことができなかったことも、それと同じである。確かに、小学校では発言できなかったが、その代わりに、紙に書いて伝えたり、首を縦横に振ってイエス/ノーを表現したり、家で家族に話して、後日、代わりに先生に伝えてもらったり……といった、そのときにできる方法で、精一杯、自分の気持ちを伝えようとしていたのである。今考えると、当時の私には、「生きる力」がなかったとは決して思えない。

他にも、例えば世の中には、病気で幼いうちに亡くなってしまう子どもや、若くして事故に遭って亡くなってしまう人、災害に巻き込まれて突然亡くなってしまう人など、もっと生きたかったはずなのに何らかの理由で生きられなくなってしまった人もいる。そのような人たちは「生きる力がなかった」ということになってしまうのだろうか。それも違うだろう。生きた期間の長短や死んだ理由に関わらず、どんな人にも生きていた瞬間がある。期間の長さの差こそあるものの、「その生きている間は、『生きる力』をもって全力で生きていた」と言えるのではないだろうか。「生きる力」のない人など、この世に存在しないのではないだろうか。

私は、「生きる力」は誰にでも備わっていると考える。病気や障害のある人もその人なりの方法で生きているし、何らかの理由で亡くなってしまった人も死ぬまでの期間は精一杯生きていたと言えるからである。そのため、「生きる力」のありなしを問うことは、あまり意味がないのではないだろうか。

だが、最低限の「生きる力」は誰にでも備わっていると捉えたうえで、それを一歩押し進めて、「よりよく生きる」ことについて考えるのであれば、価値はあると思う。例えば、最近では、数年前には誰も予想しなかったような感染症の拡大によって、私たちの生活は一変してしまった。変化の激しいこれからの時代を「よりよく生きる」ためには、どのようにしたらよいのかを考えることには、十分意味があるだろう。

あくまでも私の考えだが、「よりよく生きる」とは、自分で考えて生きること、置かれた状況でできることをしながら生きることだと思う。「自分で考えて生きること」とは、変化の激しい社会でも、他から与えられた情報を鵜呑みにせず、情報をヒントに自分で考えて納得できる選択をすることだと考える。また、「置かれた状況でできることをしながら生きること」とは、例えば、現在の社会状況下では、自由に外出できず自宅にいることを強いられるが、従来外出していたときの楽しみに代わって、自宅でできる新しい楽しみを見つけることなどである。これは、実践している人も多いのではないかと思う。

私は、小学生のときの体験がきっかけで、「生きること」について長らく考えさせられることになった。でもきっと、「自立して生きる」ことも「よりよく生きる」ことも、本当はそれほど特別なことではないのだろう。皆、人それぞれ、無意識であっても、その人なりに「生きる」ということを毎日実践している。人には皆それぞれ「生きる力」が備わっているのだ。

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