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誰のために、何のために生きているのか

今から約10年前、息子と大ゲンカしたことがある。親子ゲンカの理由は、ほんとどうでもいいようなことだった。


ひとつ屋根の下で暮らすと、がまんできずにぶつかってしまうことはどの家庭でもあることだろう。家族といえども人間関係だ。



ただ、そのときのケンカがきっかけとなり、息子は自立する道を選んだのである。


このときの選択は間違いなどでなく大正解だったということは、10年後のいまになってわかること。


もちろんケンカわかれしたわけでなく、大ゲンカのあと仲直りし、息子はそれから一か月後に県外に行く決心をしたのだ。ケンカはただのきっかけにすぎない。


この選択と決断が息子の人生を大きく変えた。


いま彼は、若手の音楽クリエーターとして活動しめきめき実績をあげ、ありがたいことに仕事がたくさん入ってきてるという。そう。大好きな音楽だけで生計を立てて生きているのだ。


音楽活動をはじめたころは音楽だけで食べていけるはずもなく無名だったため、もちろん仕事といえる仕事などなく、バイトをかけもちしながらいろんなメディアを駆使し、自分のつくったモノを世間に発信しつづけていた。


好きだからこそつづけられてきたこと。


それが人の目にとまり、仕事が舞い込んでくるようになり、どんどん実績をつみ、大手音楽会社の目にとまることになる。


そのころにはもうバイトをやめ、クリエーターのみの収入で食べていけるようになっていた。そして大手と契約。


息子のつくった曲を聴くたびに思う。


彼のつくる曲の世界観はぶれることなく一貫していてすごいと。もちろん楽曲を提供するときはクライアントの求めているモノをつくるのだが、自分でつくって歌ってる曲もあって、その曲とMVの世界観が一貫しているのだ。


だから息子と同じように悩み苦しんでいる人のココロに、彼の詩がまっすぐ刺さる。コメント欄を見ると、泣いて癒されて救われる人がたくさんいるのだ。届けたい人に届いてる。


それってクリエーター冥利に尽きるのではないだろうか。


あれ、おかしいな?わたしが産んだんだよね?息子の才能の半分はわたしからもらってるハズだよね?


なぜわたしは何の才能も発揮できてないのだ!?笑


違いを考えてみると、息子は一貫した世界観を持ってそれを貫いている。わたしはまだ迷子でブレているからという違い。きっとこれが一番大きいのだろう。


息子はファンのために生きているわけでも音楽をつくってるわけでもない。自分のために、自分を救うために、自分を生きるために音楽をつくり、音楽をつくるために生きているのかもしれない。


わたしは誰のために、何のために生きているのだろう?と思うことがそもそも違っていた。


誰かではなく、自分のために、だ。


書くこともそう。自分のために書いているのだ。書きたいという自分の中の衝動と欲求に従い書くのだ。


もし息子が10年前、自分の足で立って生きるという選択をしなければ、いまココにある世界ではなく、パラレルといわれる違う世界を生きていただろう。


その世界がどんな世界かを知ることはできない。もしかすると遠回りしたとしても息子は結局、音楽という世界に魅了され、やはり音楽で生計を立てるという人生を生きているのかもしれない。


もしかすると、普通のサラリーマンになって、趣味で音楽を楽しんでいる世界かもしれない。


それはドラえもんに頼んでタイムマシーンにでも乗らない限り、見ることができない。ただわかることは、息子には音楽のない世界は、どんな別の選択をしたとしてもありえないということ。


10年前あの選択をしたから、いまの世界がある。



そんな息子に、母親としては失格の烙印を押されたこともあるのだが。笑


では、わたしの選択は?


「書く」ということだろう。ただ書くことが好きだから、誰かが書く物語りや文章が好きだから、わたしも誰かのためでもなく、自分のために、自分らしく生きられるように書いていこうと思う。



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