統治行為論、実践の哲学、本当だからだ

これは統治行為論アドベントカレンダー2023の記事です


初めに

 以前、統治行為論さんがこのようなポストをしていました。知性改善論は17世紀の哲学者スピノザの初期の著作であるとされており、スピノザの代表作「エチカ」の準備段階に当たるような著作だとされています。同じ『(漢字4文字)論』としてのシンパシーを感じたのでしょうか、あるいは。
 本稿はスピノザの哲学と統治行為論の間に存在する密接な関係に光を当て、驚愕に値する統治行為論の新事実を明らかにせんと大胆にも試みるものである。

スピノザの「真理」

 スピノザの哲学は同時期の大哲学者デカルトなどの哲学と比べ、非常に我々の実生活の感覚に寄り添うような部分が多くあります。20世紀の哲学者ドゥルーズは著書の中でスピノザのことを「実践の哲学者」とも呼んでいます。
 ここで、スピノザの哲学において非常によく引用される「真理」についてみてみましょう。スピノザは真理について「(普通は、ものを見るためにはそれを照らす光源が必要だが)光を見るためには光自身がその光源を与えるのと同様に、真理は真理であるというただそれだけで真理たりうるのである」と述べています。どこかで聞いたようなセリフですね。そう、あのおじさんと同じです。

東大医学部頭悪いおじさん

 私人と思われるので当該メディアをこちらで提示することは控えますが、一部のインターネットの人々にはよく顔の知れた紳士がおられます。俗称として「東大医学部頭悪いおじさん」とか言われています。
 氏の発言の中に「本当だからだ!」というものがあります。これは先のスピノザの考える「真理」と大変よく通じるものを感じませんか?「真理は真理であることだけで真理たりうる。」「本当だからだ。そういうことだろ。お前が正しい根拠を言え。」。本当は正しい根拠などはいう必要はないのです、本当のことは本当だから本当なのですから。
 さて、このスピノザの「真理」はもう一つ我々の馴染みのある学説とよく似てはいないでしょうか。そう統治行為論です。自身の外に正しさの基準を置く必要のない「真理」、そして真理と同様に「裁判」という正しさの基準から解き放たれた統治行為論。最後のまとめに入りましょうか。

東京大学≠とうだい=統治行為論大学説

 皆さんはあのおじさんについて一つの重大な誤解をしていることにお気づきでしょうか?そうあのおじさんは「とうだいい学部頭悪いおじさん」であって、「東大医学部頭悪いおじさん」ではないということです。では、もし「とうだいい学部」が「東大医学部」でないのであれば「とうだいい学部」の正体はなんなのでしょうか。それが「統治行為論大学、統治行為学部」であるというのが私の学説です。
 統治行為論さんが学長を務める統治行為論大学において、は恐らくスピノザ哲学に基づいた教育を取り入れているのでしょう。まるで、裁判所のように、いつまでも真理に基準を求める現代の統治行為学生に辟易したおじさんは我慢の限界に達し、あのような行動に出たのではないでしょうか。
「(いつまでもコギト的真理から離れられない)統(治行為)大(統治行)為学部頭悪くないか?」
「ほんとうだからだ!(本当であることが本当であることの根拠なのだ)」
「お前が正しい根拠を言え!(言えないだろう。それは本当であることがそれ自身正しい根拠となるからだ)」
これがあの事件の真相なのではないでしょうか。

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