忘却
あの日以降に仲良くなった友達の多くは、出会う前の私を知らない。私がどんな大学生で、どんな幸せな思い出があったのか、辛い思いをしたのか、何も知らない。私にしっかり刻み込まれていることも、何にも知らずに接している。私をとらえて離さない苦しい出来事は、その友達にはそもそも存在しないものだということが、なんだか不思議だ。それがかえって清々しいと思った。私が忘れてしまえば、そもそもなかったことになる。過去は案外簡単に消せるのかもしれない。
あの子やあの人の思い出は、過去になっていない。
何かにつけて思い出す度に更新される今の出来事であり、
現在進行形の絶望である。
更新されなければ、思う事をやめれば、過去になるのだろうか。その過去を誰にも言わなければ、客観的に見ればなかったことになるのだろうか。
思うことは、やめられるのだろうか?
もはやこの思い出は私の一部であって、「忘れちゃったら私じゃなくなる」のではないか?
失くそうと、誰にも言わずにおこうとすると、むしろ私の中に溜まっていって、どろどろとした重たいものに変わっていく気がする。
それでは、私はやはり、この現在進行形の絶望とともにこれからも生きていくしかないのか?
あの子と別れた分岐の先に、幸せを見つければ良いと思っていた。その幸せは、分岐したからこそある幸せだと思えば、別れを肯定できると思っていた。だけど、実際に分岐を進んでみると、選ばなかった道ばかり見ている。今の幸せを持ったままそっちの道を進んでいれば、こんな不幸を感じる事なくもっと幸せだったはずなのに、と思う。別れた道を選んだ未来を想像するようになってしまった。
時々、私を好きになってくれて、受け止めてくれる人に出会って、全てを話して背中をさすって貰えば、楽になれるのかな、と思う。でも、そんな人はそうそう現れないし、いたとしても、今感じている絶望は今を私がどう捉えているか、が問題なのであって、それは私自身が変わらないと何も解決しない。だから楽にはなれない。それでも、私の欠けた穴を埋めてくれるんじゃないか、と人を見る事をやめられない。
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「忘れちゃったら私じゃなくなる」は、宇多田ヒカルの歌詞である。本当にその通りだなと思う。こんな事を言うと作曲家の人に怒られるかもしれないが、歌とは、言葉を伝える最も優れた手段だと思う。リズムやメロディがあるから、聴ける。歌える。だから体に入ってくる。文字で見るだけでは入っていない深部に、歌は染み渡っていく。そうして言葉は身体の一部になっていく。そうやって染み込んだ言葉たちで、私はできている。