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ジャッチしたがる私たち

食べ方が汚い人は育ちが悪い人
大きな声を出す人は〇〇な人
〇〇する人は〇〇な人と私たちは差をつけジャッチし比べようとします
これは事実だと思いますし これを聞いて直そうと思うことは
悪いことだとは思いません
でも何だか寂しい気持ちになります
これらはすべて自分のことを本当の意味で愛せていない人
ただそれだけなのに…
環境や外的な要因でなることがあるのは知っていますが
そこが問題ではなく自分のことを許し愛せないことが
問題なのに外側の問題にしてしまうのは残念で仕方がないのです
「あいつは育ちが悪い」と思って裁く原因になったり
自分は育ちが悪くてこうなったのだと外側の問題にしてしまったり
することが残念です
ただただ自分を許せず愛せない人なんだと優しい目線で
見守れたらいいのではないかと感じています
育ちが悪いからと知って何になるのでしょうか
まだ自分を愛せないだけなのに…
差をつけることジャッチすることが何の意味があるのか
とつい考えてしまいました
私もまだ出来ていませんが優劣のない世界 差のない世界
ジャッチしない世界になって欲しと心から願ってしまうのです
この世界が差のない世界になりますように…

本当の意味で自分を許し愛せたら生かされていることに気がつき
自分も人も物もあらゆるものが大切なのだと感じられ
一つであると感じられる気がしています
今、完全にそのように感じるまではいっていませんが
少しずつそうなのかもしれないと感じ始めています

正しさを選択するよりも常識を選択するよりも
愛を選択し続けたいと私は思っています

すべては一つといいます
外側の問題は自分の映し鏡ともいいます
差をつけてしまえば本当の自分とも差をつけて
しまう感じがしているのです


「食べ方が汚い…」とかの情報はあってよいと思います
しかし、人をバカにしたり あいつはこれだからダメだと
批判の道具にしたりすることが残念で仕方がないのです
自分をまだ愛せない人達なのだという目線で愛を選択
できる者でありたいものです