太宰治「女生徒」の模倣


あさ、目をさますときの気持ちはおもしろい。それまで砂の中で、もしくは水の中に沈んで、そのときのことなんて、なにも覚えていなくたって、素知らぬ顔で、目をさます。そこに誰かが私の寝顔をのぞいてたって、あら、ごきげんよう、と声をかける。そうしないと、くやしい。そしたらその人は、私が、骸が急に動いたみたいで、おそろしくなる。きっと腰も引けてしまって、けれど、私みたいな、かよわい女の子に、そんな格好の悪いこと見せるなんて、いやだ。だからその人もまた、素知らぬ顔で、丁度いま起きるころと思っていたよ、とうそをつく。けれどそれは私も大概おなじ。
うそをつくのはいじらしい。
誰かのために、うそをつくなんて、ございません。それはたまたま、うそをつかれた人が、うそなんて関係なく、しあわせになっただけ。浮かれたままで、たまたまうそを思い出しただけ。うそなんてもの、なにひとつ、助けになりません。うそをつくのは、自分のため。自分がかわいくて仕様がなくて、けれど、自分より愛してくれる人がいないから、仕方なくうそをつく。誰かがわたしに、そんな下らないこと、おやめなさい、と言ってくれれば、私は素直に、もうしません、と謝れるのに。きっとそんな人、一生かけて尽くしても、尽くしきれないくらい、私を大切にしてくれる。けれどそんなときにかぎって、上手にうそをついてしまう。だれに学んだわけでもない、ただ私は愛されたいだけなのに。うそは、だれも気がつかれないまま、時が過ぎる。けれど私だけが、秒針の、規則的に音が掠れるのを、赤子のように、指折り数えては、よろこんでいる。そして誰からも気づかれないように、私はしずかに笑っている。気づかれたいはずなのに、肩を動かすことさえ躊躇って、元いた場所のまま、それがやむのをじっと待っている。
愛も、きっとありません。あったとしても黒か、青色。燃え上がるような、なんて、きっとうそ。ほんとうに愛が赤く染まっているならば、できすぎている。神さまがそんなご丁寧に、すてきなこと、なさるはずがない。それなら、あの人のこと、好きとか、嫌いとか考えながら、冷めてしまった湯船の中で、にやけて、泣いて、そんな自分がばからしい。神さまは私を見て、指を指しては、わらっている。うそつきの私も、神さまには、嘘をつけない。神さまに、うそつけるのは、地獄に落ちるとき。私の人生は、すばらしいものでした、ありがとうございます、神さま、と、最期にお伝えするとき。けれど見えるのは、私がよくねむる寝室の、天井にある、ふしぎな木目。ぎょろりとした目玉が、ふたつあるように見えて、おそろしい。けれど私が、ほんとうに、眠っている姿を見るのは、この子だけ。神さまなんて、どこにもいやしない。あるのは、天井と、私だけ。けれど、目をさますときになんて、そんなこと、いちども気にしない。私も、あの人も、ずいぶん都合の良い。はやくやめにして、眠ったままでいたいのに、目をさましては、忘れてしまう。つぎに目をさましたとき、私はほんとうの私かしら。けれど、そんなこと、わかったって、なんにもならない。
ただ、笑っては、それを隠して、嘘をつくだけ。

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