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自然界について、陰陽の法則からなる森羅万象 前編1 第1章

第1章 自然とは何か?

巻頭から「自然とは何か?」というような一般読者に理解と認識困難な難しい問題に入ることはどうかと考えたのですが順序としてやむを得ないように思います、それで理解が困難で興味の持てない読者は第二章から入って先を理解してから後を読むと理解できる筈であります。

「自然とは何か?」ここでは結論だけ述べておきましょう、証明は先え行っていろいろのかたちで現れて来る筈であります。

第1節 虚無の空間

自然とは何か?これを知るには虚無の空間と物質宇宙とを知らなければなりません、先ず虚無の空間からーこの虚無の空間とは触知的何物も含まない絶対空間を言うのです、絶対空と言うも、絶対無と言うも、又単にくうとかと言うのも皆同意義です。

それでは初心者は此絶対虚無の空間を認識するには如何にするべきかといいますと先ず仮定を設けなければいけません、即ち吾々の棲息する此物質界、現象界からありとあらゆる物質を消滅したと考えて、後に残った場所が虚無の空間です、ありとあらゆる物質とは吾々の足場とするこの地球から先ず遠大の方へ太陽系に含まれる太陽はじめすべての遊星や衛星、彗星、流星等や太陽系の外側の空間え出てあらゆる恒星、星霧等の吾々の肉眼によって観測可能なあらゆる物体、又肉眼によって観測不可能な遠くの物体は望遠鏡で観測可能な物体、現在はアメリカ合衆国カリフォルニアのパロマー山天文台に据え付けられた200インチ反射望遠鏡が世界最大の天体観測用望遠鏡ですが、此望遠鏡によっても観測不可能な超々遠大距離にある物体は理論によって認識可能な物体ー又極微の世界え這入っては電子顕微鏡さえ見ることの不可能な分子、原子や更に原子を壊した核や電子等々の要するに吾々の肉眼や機械や理論等、感覚によって認識する具体的な一切を物質というのです。

※以下の画像は当時に手書きで書かれた図になります

図1



図2
図3
図4

物質は勿論質量を有します、従って抵抗や摩擦を有しますから此抵抗や摩擦によって物質相互に力の作用が可能になります、こうした物質一切を消滅したと仮定して後に残った場所が虚無の空間であります。

この虚無の空間は具体的何物も含んでいないから光も無く、温度もなく、引力も作用しない真空にして常闇とこやみの世界です、又容積無限で果てもありません、その先を何処まで行ったとて虚無の空間に果てのあろう道理はありません。天文学者は「空間の半径は20億光年」とかいいます

又英国の有名な天文学者ジーンス氏は其著『我らをめぐる宇宙』の訳書に於いてー「空間の半径は840億光年、即ち最も遠い可視星霧の距離の600倍である」と、又同書の(第1章空間の探査、第9節相対性理論)に於てー「アインシュタインは自らの相対性理論によって空間もたとえ制限されてはいないにしても範囲に於いては有限であることを確立したと主張する、宇宙における空間の総容積は丁度地球の表面が有限量であるように、そしてそれと同じ理由で有限量である。どちらも折れ曲がって塞がっている、此類推が妥当であり有用であるのは吾々が慎重に空間の全体を地球の表面に比較して地球の容積に比較しない間だけである、地球の容積も量において有限ではあるが理由が全く違う、地球の内部に一直線に穴を掘ってずんずん進んでいくモグラは早晩地球でない何物かに達するであろう、それは空中へ入っていくであろう、しかし我々は地球の表面でないどんなものにも決して達することなしに地球の表面をずんずん進んで行く事が出来る、空間の諸特質は地球の表面のそれであって地球の容積のそれでは無い「中略」空間の本質的な点はアインシュタインの相対性理論が次の様に教える事である、すなわち空間は終極的には地球の表面の様に折れ曲がっているので空間の総量は有限である」と

さて吾々はこの問題をよく吟味してみなければなりません…

1.曲がった空間

まず空間が曲がっていると言う事についてですが、球状であるとか円錐とか四角又は三角状等は何か具体的な物によって考えられる事であって具体的な何物をも含まない虚無の空間が曲がっているなどと考えることは馬鹿げている。

2.果て

具体的な何物をも含まない虚無の空間にどうして果てを想像することができるでしょう、其先其先とどこまで行ったとて絶対空に極限のあろう道理はありません。

3.表面

虚無の空間には極限がないのですから従って又表面のあろう道理もありません。

4.空間の表面と容積

「空間の諸特質は地球の表面のそれであって地球の容積のそれでは無い」と言うのですが前項に述べましたように虚無の空間には果てがないのですから従って表面のあろう道理はありません、あるのは唯極限のない広大な容積だけであります。

事実又観測事実が証明するように星辰其他一切の物体は球状空間の表面にばら撒かれているのではなく空間容積中に散布されているのだと言う事を吾々は直視しなければなりません。

要するにジーンズ氏の論ずる空間は物質を包含した空間のことであって決して虚無の空間のことではありません。

吾々は有限の「世界ー物質界ー現象界」に棲息するから之と全く反対の「無限の世界ー絶対空の世界」を認識することは困難ですが、困難であっても虚無の空間には形状も、涯も、表面もないのです、このことは先へ行って引用の法則が証明するでしょう。

さて又此空間は容積無限で涯がないのですから1つということもできません、数もまた無いのですから従って緯度もまたありません、更に絶対空間は虚無ですから時間を過去へ如何程遡ったと手始めも無く、如何程未来へ時間が流れたとして終わりのあろう道理もありません、即ち物質も従って抵抗も、摩擦も、音響も、減少も、形状も、光も、温度も、数も、緯度も、力も、極限も、始めも終わりも、其外一切「無の世界ー常闇静寂の世界」之が虚無の空間なのです。

吾々は無の世界とは全く反対の「有の世界ー物質界ー現象界」に棲息するから「無の世界ー虚無の世界」の空間の諸特質を認識することは甚だ困難ですが、困難であっても無の世界、虚無の空間とはこうした世界なのです。吾々がただ僅かに容易に認識し得ることは、虚無の空間は平面でなくして立方体であって且つ広大であるという事だけであります。

第二節 物質宇宙

物質宇宙は一つの広大なエーテル球です、体積は現在のところ明瞭ではありませんが将来パロマー山天文台の200吋反射大望遠鏡より更に大きな望遠鏡が製作された時、宇宙の果てを観測することが可能になるかもしれませんが現在の所は唯広大の一語に尽きるようです。

しかし漠然と唯単に広大であると言っただけでは体積につき何か具体的な物を把握しないと頼りないというなら、其半径が20億光年と考えても良いと思います。

物質宇宙エーテル球の半径20億光年とは秒速30万キロ走る光が宇宙の中心から其表面に向かって走り続け、20億年かかって表面に達する距離を言います、其根拠ですが前節に少し触れましたように天文学者の中には空間の半径が20億光年であるという説をなす者があるからであります、唯天文学者の説と異なるところは天文学者は「空間の半径が20億光年」といい、筆者は「物質宇宙の半径20億光年」というのです、空間と物質の相違点です。

それではエーテルとは何か?19世紀の科学者達は、光波の媒質の必要性から空間に弥漫せるエーテルを科学に導入しましたが、然し其後20世紀の前半に於ける自然科学者達は、果たして空間に光波の媒体的物質が実在するかに疑問を起こし、もし実在するものならば地球は太陽の周囲を秒速約30万キロで公転するから当然エーテル風とも呼ぶべき風によって地球上は吹き捲られなければなりません、然るに一向エーテル風は地球上に吹かない、しかし元々空間に弥漫(びまん)せるエーテルは光波の媒質の必要性から自然科学に導入されたものでありますから、もしエーテルが空間に実在するものならば地上の物体に影響しなくとも光には何としても影響しなければならないとし、そこでかの有名なマイケルソン及びモーレーの実験となったのでありますが、実験の結果は光にも何等の影響を発見することが出来なかったのです。

一方に於いて理論としては、光波の媒質として空間に弥漫せるエーテルは不可欠のものであるに拘らず実験においてはそれが現れてこないのです、この場合科学者として理論と実験をいずれを採用するかと言えば、もちろん実験の結果を採用しなければなりません。

なぜなら理論は結局、事実の証明でしかあり得ないからであります、それ故に20世紀の自然科学者は空間に弥漫せるエーテルは、19世紀の自然科学者が光波の媒質の必要性から理論上自然科学に導入した仮想的存在であって、事実は存在しないものであると結論するのです。

然し筆者の研究によればマイケルソン、モーレーの誤った考えのもとになされた実験の為に光波の媒質を発見することが不可能であった迄であって、光が足場のない絶対空間を而も幾10億年にも亘って走り続けるなどと考える事は、不合理も甚だしく到底考えられないところです。

マイケルソン及びモーレーの実験がどのように誤った考えのもとになされたか、また光の媒質エーテルの本質等に付いては、後編「引力の正体」に於いて述べるつもりですが、ここでは唯エーテルも又物質であり、従って抵抗と摩擦を有しているということだけを述べておきましょう。

この様にエーテルは19世紀の科学者が自然科学に導入したのですが、筆者はその語をそのまま踏襲した迄であって他に理由はありません。

さて物質宇宙は20億光年の半径を持つエーテル球でありまして、その容積中に普遍的にばら撒かれている物体は、流星(隕石)そして星の集団である銀河系、銀河外星雲等、又銀河星雲の中には無数の輝く恒星(陽星)あり黒い星(陰星)遊星あり、一層黒い星(大陰星)衛星とこれらの星々が陰陽結合して星の家庭を構成する太陽系あり、遊星(陰)と太陽(陽)との物理的作用によって生ずる彗星という星の子供あり、又太陽(陽星)と衛星(大陰星)の中間に位置する遊星(陰星)の中には生物が棲息し人類の世界には文化があり闘争があり等々‥これが物質宇宙なのです。

さてエーテル球の容積中にばら撒かれた無数の輝く星々より発射される輻射粒子はエーテルという媒質の圧力を受けて、球の表面に向かって秒速30万キロの等速度を以って走り続けます、この場合エーテルは海水に相当し、輻射粒子は気泡に相当します、海底に発生する気泡は水深がたとえ何十キロあろうとも水圧の作用を受けて海面に向かって走り続け、海面に浮かび出て海水という足場を失う事によって空中へ飛沫となって消滅します。

同様に輻射粒子はエーテルの圧力を受けて、エーテルの深さがたとえ何十億光年、何百億光年あろうともその表面に向かって走り続け、表面に浮かび出て、エーテルという足場を失う事によって虚無の絶対空間へ無限小の飛沫となって消滅します。

ジーンズ氏は其著「吾等をめぐる宇宙」の訳書に於いて「宇宙内に於ける無数の発射される輻射粒子は未来永劫決して消滅する事なしに曲がった空間を秒速30万キロの等速度で反覆する」と論じていますが、宇宙内に於ける無数の輝く星々の内部に於いて間断なく生じ、其表面から間断なく発射される輻射粒子が唯生ずるばかりで消滅することがなかったら一体宇宙はどうなるでしょう?

もし生物が生ずるばかりで死滅することがなかったら地球上はどうなるでしょう、陸地も海も生物が重なり合ってそれこそ生き地獄が出現するでしょう、それがそうはならないで地球上に生物が溢れるという事もなく幾万年を経過を経過するという事は生物が生ずる後から後からと死滅して生死が調和するからであります。

同様にもし輻射粒子星々から生ずるばかりで消滅することが無かったら、幾10億年、幾100億年と時間の流れに従って宇宙内には次第に輻射粒子が充満してついには全天が輝き、宇宙は熱死の状態になるでしょう、然るにそうはならないで幾10億年、幾100億年経とうとも、宇宙の状態が普遍であるという事は輻射粒子が生ずる後から後からと宇宙の表面に浮かび出て消滅するからなのです。

一体吾々の身近な地球上において万物中に生じたものが滅しない例があるでしょうか?

否絶対にと筆者は断言することが出来る、総ての生物は勿論の事、地球を構成する無生物も又絶滅するという事は、原子核分裂や核融合反応によって原子の重量の幾分かが物質ならざる輻射に変じて絶滅するという事実がこれを証明します。

ジーンス氏もいま述べた著者の中で前略「輻射を放出しつつあるどんな実質もそれと同時に重量を失いつつあらねばならないという事になる、殊にどんな輻射性実質の分解も重量の現象を含んでいなければならない、何故ならそれはγ線の形態に於ける輻射の放出を伴っているからである、1オンスのウラニウムの終局的運命は次のような方程式で言い表して差し支えない。

1オンスのウラニウム=0.8653オンスの鉛・0.1345オンスのヘリウム・0.0002オンスの輻射

鉛とヘリウムはともにウラニウムの最初の1オンスのと同じだけの電子と陽子を含んでいる、しかし双方を合わせた重量は最初のウラニウムの重量に約4千分の1程足りない、最初4千オンスの物質が存在していても今残っているのは3千9百オンスに過ぎない、亡くなった1オンスは輻射形態で消え去ったのである」後略というのです

又、太陽は毎日輻射に於いて3千6百億トンの重量を失っているとも述べています、同書ではこのほかいろいろの問題から物質の絶滅につき論じられています、生じたものは必ず滅する・・・生者必滅は陰陽自然の大法則なのですが、詳細は先へ行って明らかになるはずであります。

さて物質宇宙(有)は虚無の空間(無)とは本質的に全く相反しますから、物質宇宙の諸特質は虚無の空間のそれと対照して考えれば容易に理解されるでしょう。

1.宇宙の果て

先ず宇宙の果て・・・つまり極限についてですが、前節に論じたように虚無の空間は具体的な何物をも含まない絶対無ですからその先をどこまで行ったとて極限のあろう道理はありませんが、物質宇宙はこれと全く反対に具体的な物質の集合体で有ですから、具体的な物は如何ほど体積が広大であろうとも極限がなければなりません、このことは誰にでも容易に理解できると思います。

2.数

虚無の空間は果てがないのですから表面も無く従って1つという事も出来ませんが物質宇宙は果てがあり表面もあり従って、如何に広大であろうとも1つということが出来ます、数も又有るのです、最も1つと言っても物質宇宙は分割不可能な半径20億光年の球であるというのではなく無限小とも考えられるエーテルの集合体であり、その中に大小無数とも考えられる星々その他の物質を包含しているのですからこれらの物質を個々に分割すればその数は全く巨大で何程に達するか吾々は唯無数の1語で片づけるほかないでしょう、然し無数と言っても数がないというのではなく、あまりに数が大きい為
に人智を以って数えられないというだけで数にも又極限がある二です。

3.経緯

虚無に空間には果てがなく、従って表面も無いのですから一つという事もできませんから従って経緯もありませんが、これに反して物質宇宙には果てがあり表面もあるのですから体積がいかに広大であろうとも一つということが出来ます、従ってまた経緯もある事になります。

4.形状

虚無の空間は具体的な何物をも含んでいないから、分割不可能であり従って形状を考える事もまた不可能ですが、これに反して物質宇宙は具体的な物の集合体ですからこれを任意の大きさと形状に分割することが可能でありとすれば、球状、楕円、円錐、長方、四角、三角状等々の形状を考えることが出来ます。事実吾々は地球上において千種多様な形状の海陸、山川、湖沼、生物等を見聞きするし、固体実質は分割して任意の形状に作ることもできるし、液体、気体もまたいろいろの形状をした個体容器に詰め込む事によって容器と同形状に分割することが出来ます、また地球を離れた遠くの諸星や物質も球状あり楕円あり、ビスケットまたは懐中時計のような扁平な形状の銀河系あり、さらに流星(隕石)に至っては実に多様な形状を考えられます、この様に物質宇宙には形状もまたあるのです。

5.光、温度

虚無の空間は星々も含んでいませんので光も無く、温度も絶対温度摂氏零度(℃零下273度)つまりは温度もまた無い常闇の世界ですが、これに反して物質宇宙には星々を含んでいるから、勿論光も温度も有る明るい世界です。

6.抵抗、摩擦、力 

虚無の空間は全く物質を含まず抵抗も摩擦もありません、従ってまた力もありません、何故なら力は物質の有する抵抗や摩擦によって物質相互に作用しあう事によって生ずるものだからであります(この事は後編「引力の正体」で明らかになるでしょう)、これに反して物質宇宙は物質の集合体ですからもちろん抵抗と摩擦を有します、従って物質は抵抗や摩擦を相互に作用しあうことによって力が生じます、即ち物質宇宙にはこれらが存在するのです。

7,音響

虚無の空間は物質を全く含まず、音響を発する事はありません、何故なら音響とは物体が振動することによって発生するものだからであります、全く反対に物質宇宙は物質の集合体なので音響も発生します。

8、動

虚無の空間は具体的な何物をも含まず絶対に動くという事はありません、(絶対静)です、これに反して物質宇宙は動くことが可能です、否、可能であるというよりも間断なく動くのです、このことも先へ行って明らかになりますが、陰陽の法則「第6条自然現象の絶対性」という法則によって物質宇宙は分秒の休みも無く絶対的に動き続けるのです、即ち虚無の空間は(動)は無くて(絶対静)ですが反対に物質宇宙には絶対静止は無くて絶対に動くのです、動もまた有るのです。

9、変化(現象)

虚無の空間は具体的な何物をも含んでいないから従って変化(現象)の起こりようもありません、例えば光を発したり消滅したり、熱したり冷却したり、海水が熱を吸収し、水蒸気に変化して上昇し、上空で冷却して雨となり陸地へ降って淡水に変化し、陸地を潤して生物を育てたり、人間に文化生活を与えたりして終極には海に還元して元の海水に還るというような変化、即ち現象は物質によってのみ可能なのであって、物質を全く含んでいない虚無の空間にどうして現象を与えることが出来ましょう、この様に虚無の空間には現象もまた(絶対無)ですが、物質宇宙には現象もまた有ります。

10.始めと終わり

(絶対無)という具体的な何物をも含まない虚無の空間で無いものが時間を過去へ何処まで遡ったとて始めのあろう道理は無く、また未来へ時間が如何ほど流れたとて終わりの有ろう道理もありませんが、これと全く反対に物質宇宙は具体的な物(有)ですから、有るものが始めから有ったなどと考えることは出来ません、始めは必ず何処からか生じてこなければ存在する道理はありませんから、従って時間を過去へ何処までも遡れば必ず始めがあった事になりまた時間が未来へ何処までも流れていけば必ず終わりがなければなりません、この事は前に述べましたように物質が絶滅して亡くなって行くという事は今日の自然科学によって証明されている事実です、然し物質が絶滅して無くなって行くという事は結果であって原因は物質が何処からか生じて来て存在するが故に絶滅して亡くなって行くことが可能になるのだという事を考えねばなりません、地球上に存在しなかった生物が生じて来て存在するが故に死滅することが可能なのだという事を考えなければなりません、この場合地球上に存在しなかった生物が生じてくるのが原因であり、死滅して亡くなって行くのは結果である事は勿論であります。それならば物質は一体始めは何処から生じてきたのであろうか?という事に付いては「第2章陰陽の法則」を研究することによって判明するはずでありますが詳細は後編に論じましょう、とにかく物質は時間を過去へ何処までも遡れば必ず始めがあり、時間が未来へ何処までも流れた時には必ず終わりがあるのです、子のように虚無の世界は、果ても、数も、経緯も、計上も,光も、温度も、抵抗も、摩擦も、力も、音響も、動も、現象も、始めも,終わりも,そのほか一切無の世界ですがこれと反対に物質の世界は異常総ての諸特質、その他一切を有する世界なのです、これが物質宇宙の実相です。

第3節 自然の定義

第1節 虚無の空間・・第2節 物質宇宙・・に付いて論じたことによって明らかなように、自然とは具体的な何物も含まない果てのない、無限大の虚無の空間に抱擁された半径20億光年のエーテル球とその中に普遍的にばら撒かれた大小多様な星辰その他の物質一切を含んだ物質宇宙とそれの変化(現象)を自然という事になります、そして現象は極微の世界、原子から果ての無い、無限大の虚無の空間までを貫く自然法則・・・陰陽の法則によって生起するのですが、この事は「第2章 陰陽の法則」を研究することによって明らかになるでしょう、さて吾々は天文書を紐解き宇宙空間の本質について考える時、まず誰もが疑問を起こすのは、宇宙空間を一直線にどこまでも進んでいったならば窮境的には一体空間で無いどんな壁に突き当たるのであろうか?・・・という事であろうと思います、この事は現在の自然科学界に未解決であるといってよいと思いますが、以上論じたことによって判りますように星辰その他一切の物質を包含する宇宙空間は、物質を全く欠いた真空の絶対空間では無く、エーテルという輻射の媒質によって満たされた空間なのです、それ故吾々が宇宙空間を一直線にどこまでも進んでいった時、究極的に突き当たる壁こそ物質を全く含まない絶対虚無の空間なのです、それ故果たして物質宇宙の半径が20億光年の距離にありとしたならばパロマー山の200インチ反射望遠鏡は10億光年彼方の星々を観測可能であるというから、その2倍の400インチの望遠鏡が製作された時、物質宇宙の果てを観測することが可能なはずであります、とすると物質宇宙の果てはどのように望遠鏡に映ってくるのでしょう? 

すぐ前に述べたように物質宇宙は表面(果て)を虚無の空間に包まれていますから、それが映るはずですが、虚無の空間は光の透らない世界ですから、それは本来なら黒一色に見えるはずですが、実際には黒一色には見えないでしょう、何故なら望遠鏡は物質宇宙の表面を包む真黒の壁、虚無の空間を捕える前に光を発射する星々を捕えるからです。

それならば何によって宇宙の果てを証明すると言えば、ある倍率のA望遠鏡に捕えた星々の数を記録し、次に倍率を大きくしたB望遠鏡にとらえた星々の数を記録し、両者を対照してABとも星々の数が等しければ、吾々はA望遠鏡が既に物質宇宙の果てを見ていたのであるという事が判ります、それならば、もし果たして物質宇宙の半径が20億光年の距離にありとしたならば、400インチの望遠鏡でなければ見ることが出来ないのであろうか?

もし吾々の足場とする地球が半径20億光年の距離を有する物質宇宙の中心付近を運航しているものならば、果てを見るのに望遠鏡(400インチ)を必要としますが、この無数とも考えられる多数の星々の中で、偶然に吾々の地球が中心付近にあるなどとは確立の法則からも考えられないところですからもし吾々の地球が物質宇宙のある表面に近いところを運航しているならば、近い方の表面(果て)は400インチで無くとも見えるはずであります、例えばその近い表面まで5億年以下の距離だとすればウィルソン山の100インチ望遠鏡で見えるはずでありますから、この望遠鏡で空の総ての方向を観測して、星々の数を記録し次にパロマー山の200インチ反射望遠鏡で前の100インチ望遠鏡と同方向を観測して、星々の数を記録し、両者を対照してもし星々の数が等しかったらその方向は、100インチ望遠鏡が既に宇宙の果てを見ていたのだという事がわかるはずであります、また200インチの望遠鏡は10億光年彼方の星々を補えることが可能なのですから、この望遠鏡でとらえる最も遠い星までの距離がその星の光度その他の理論によって、8億光年であり、それより遠くには最早星々が無いという事が判ればその方向は我々の地球から8億光年の彼方に物質宇宙の果て、そして虚無の空間の真っ黒い壁があるのだという事が判るはずであります。

さて異常が自然の実相ですが、なかなか理解と認識が困難であろうと思います、然し困難であっても、本書を繰り返し何度も読み、かつ考えることによって自ら悟りが開け、次第に理解し、認識し得るようになりましょう。












































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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