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爆裂愛物語 第六話 頭の中の怪物

 夜が訪れる。空には雲がうっすらとかかっており、月は雲に隠されて見えない。
 街灯が少なく、田舎町の郊外にあるこの町は暗く静まりかえっている。
「我路ー」
「ん?」
「お腹すいたー。お弁当食べようよー。っていうか、もう食べたーい!」
 と凪が舌足らずな声で言った。
「もうすぐ寮なんだからガマンしようぜ。つか、それまでガマンしろ」
「はーい。買い物つきあってくれてありがとう。明日も一緒にお出かけしようね!」
「おう!」
 2人がそんな会話をしながら寮のある方角へ向かう。その時、前方の暗がりから音も無く一人の男が不意に現れる。
「!?」
 男は黒と赤のロングコートに身を包み、長袖から覗いた手には黒革の手袋がつけられていた。手の甲には赤い彼岸花のような模様がある。
「闇よ……オレを照らせ」
 段々と男の顔が闇から見えてくる。眼球は闇よりも黒く、瞳孔は血よりも赤く輝いており、肌は雪のように白く、嘲嗤うように口角を吊り上げている。
「殺害の志を」
 彼の顔は恐ろしくも、この世のものとは思えないほどに整っていた。
「殺戮の志を」
 その顔はまるで獰猛な肉食獣かの如く気高く美しい狼のようであり、同時に禍々しさを纏った死神のようでもあった。
「大量虐殺の志を」
 その美貌は見る者に恐怖を刻みつけ、圧倒的な美の奔流に意識を呑み込まれるかのような錯覚を覚えさせた。

「!?」
 彼の顔を見て凪は思わず買い物袋を落としてしまう。
「あ、あの人……」
 彼女は震え、動悸を激しくし、呼吸がうまくできなくなる。
「わ、私を……レイプ、した人……」
「!?」
 我路は身構えた。上着を脱ぎ、戦う準備を整える。しかし、男は、ただニヤニヤと嗤っているだけだ。だが!
「!!」
 我路は直感でそれに気づいた。刹那! 奴は襲いかかってきた。我路は近くにあったチャリンコを手に持ち、構え、投げつけた。しかしかわされる。同時に男は上着の中から日本刀を取り出し、襲ってきた。まずい! 我路はとっさに避けたが、男は鋭い早さで我路の襟を掴み投げ飛ばす。バランスを崩した我路はそのまま電柱に激突する。
「くっ!!」
 痛い。背中を強く打ち、肺の中の空気が一気に出る。それでも何とか立ち上がり、身構えた。もう、その時には相手は目の前にいて、肩に鋭い突きが繰り出された!  グブっと嫌な音が鳴り、血が噴き出す。思わず前のめりになり膝をつく。しかし体制を立て直して攻撃に転ずる。反転攻勢だ!! 下から拳を振り上げるも寸前でかわされる。逆に右腕を切られてしまう。
「っグワ!…」
 痛みを叫ぶが、そんな暇などなく次なる技に怯むしかない。 見えないほど早く振られた刀をギリギリでかわしながら踏みとどまる。ダメだ。このままでは殺られるだろう! ……ああ……殺されてたまるかよ……意地でも凪を護ってやる!!!! 我路は切られた右腕を左手で持つと、男の顔面に投げつけた。
「!?」
 男も予想外だったのか、とっさに視界を奪われた。そのスキに背中に我路がまわった頃には……もう肩の傷も右腕も再生していて……
「うらぁ!!!!」
 我路は男の背に全身でしがみつく。両足を男の腰に巻き付き、両腕を首に巻き付け……背筋から腰から、全身の力で首を締めつける。ギチギチと男の首が絞まっていく、が……
「そうか……貴様の能力は再生能力か?」
「!?」
 男は痛みも苦痛も恐怖も全くないような声でそう言うと、横顔をこちらに向けニヤリと嗤い、
「おもしろそうだ。生かしておこう」
 そのまま我路を背負い投げする。
「っガ!!」
 コンクリートの壁に叩きつけられた我路……男は容赦なく我路の
「!!」
 胸に右腕を貫き、その心臓をワシ掴みにした。
「ハッ……愉しませてくれよ」
 それだけ言うと、男は我路を生かしたまま闇に消えていった……。
「我路!!」
 心配になった凪が我路に駆け寄る。
「我路?」
 だが駆け寄った我路の様子はおかしかった。その眼には焦点がなく、血に飢えた獣のそれだった。犬歯のとがった口で気味の悪い吐息を漏らす。だが凪は動揺する素振りもなく、冷静に答える。
「どうしたの我路?」
 すると!
「!?」
 我路はまるで野獣のように吠え、凪の首を締め上げた。
「!!」
 苦しそうにもだえる凪を尻目に、我路は興奮と闘争本能の入り混じった表情を見せる。そして右腕にこめられた力がさらに強くなり……
「うぅ……」
 という凪のうめき声が聞こえる。
「我路……」
 だが凪は……
「我路……っ我路……」
 我路の名前を、必死に呼び続けた。
「が……っろ……」
 だんだんと、締め上げる力が強くなっていく。凪のか細い手は、自分を締めつける手ではなく我路の頬に伸び、優しくなでた。
「我路ーー!!!!」
 声の限りに叫んだ! すると不意に首の圧迫感が消える。ハッと我に目覚め、正気を取り戻した我路は、
「!?」
 目の前でぐったりとした凪と、その首を締めたはずの自分の掌を目視する。すると……夜空から冷たい雨が降ってきた。
「我路! 凪! どないしてん!!」
「!?」
 宮さんの声が夜道の向こうから聞こえてくる。
「帰りがえらい遅いから心配してんで!」
 宮さんとダンだ。二人が夜道の向こうから走ってきた。
「あ……」
 我路はとっさに走り出し、逃げ出してしまった。
「……っあ」
 凪はその場に倒れ込み、苦しそうな声を上げた。
「なにがあった? 凪」
「……」
 冷たい雨にうたれ、凪が事情を話す。雨粒が頬をつたって、まるで涙のようだ。

「ハァ、ハァ、ハァ」
 我路はただ必死に走っていた。まるで“頭の中の怪物”から逃げるように。しかし、その怪物は最初からそこにいるのだ。
「アァァァァ!!!!!!」
 我路にすがりつくように背中を這う手のようなものの感触が、我路を絶叫させる。
 それから逃れようと必死でもがくうちに、気がつけば真っ暗な通路に来ていた。
“どこまで逃げるんだ?”
“逃げ切れないぞ……”
 そんな不気味な声が突然脳に響いたとき、ある壁の前で我路の足が止まった。
(……何かの声が、聞こえた?)
「はっ……!」
 思わず息が漏れ、我路は頭を振りながら聞き耳を立てていると、その声は急に大きく頭に響いてきた。
“逃げ切れるハズなどないのにな!”
 そんな声が響き続ける中で、目の前にあった壁がぐにゃりと曲がり始め、やがて形を失い始めた。もはや我路は、自分が何者かに操られているのか、それともこの現実そのものが幻影なのか区別がつかない。
「ここは、なんなんだ?」
 だが答えは返ってこない。その時、
「我路ー!」
 現実味のある声が聞こえた。
「我路ー! 我路ー!!」
 声は段々大きくなる……凪の声だ。
「我路ー!!!!」
 後ろからダンと宮さんもいる。
「我路!」
「来んな!!」
「!?」
 我路は声を拒んだ。
「我路……」
「オレの頭の中には怪物がいる!」
「!?」
「……再生能力の副作用なんだ。生存本能と再生能力が特異な反応を起こして現れる。ネガティブな現実が現れた時に出るんだが、特に顕著なのは、心臓に危機が迫った時」
「……」
「怪物が目覚めると、敵も味方も見境なくただ破壊と殺戮のみとなる存在になる。理性がどんどん無くなっていくし、非倫理的な発想も次々浮かぶ」
「……」
 冷たい雨にうたれた我路は、まるで、泣いているように見えた。
「わかったか、オレは、人を愛せないんだ」
「でも!」
「……」
「我路といると、安心する……」
「!?」
「それでもやっぱり……我路といると、安心する……」
「……」
 凪は我路の鎖骨の下にそっと自分の耳をあてた。
「……我路の心臓の音が、聞こえる……ドク、ドクって」
 凪は瞳をとじたまそう言うと、
「落ち着く……」
 と胸に手を当てた。
「我路!」
「!?」
 宮さんはいつものようなドスのきいた大声で言った。
「んなもん努力と根性でなんとかしーや」
「……」
「ダンなんか寿命やで」
「!?」
 雨にうたれたまま宮さんは苦笑し、ダンは哀しそうな瞳のままニコリと微笑んでみせた。
「……」
 雨にうたれた凪は、ずっと我路の胸にいる。冷たい雨にうたれてずっと……我路はそんな凪をそっと抱き寄せた。折れてしまいそうな体は、震えている。
「……」
 凪を暖めるように我路は抱く。ふと、なにかを言いたげに口が動く。しかし思い直し、また口を閉ざす。そしてよりいっそう深くその胸に凪を沈めた……雨にふたりが沈んでいく。まるでなにかを確かめるように……。

 翌日、我路と凪が謎の男に襲撃された、という話と、我路の“頭の中の怪物”が一時的にであるが眼を醒ました、という話は大日本翼賛会ならび寮中に広まっていた。だが我路はキゼンとしている。そしてそんなうわさ話を聞いたあと、みんなに向かってただ微笑みを見せるだけ。
「もう大丈夫! 心配するなよ」
 しかしみんなは心配そうにしている様子だ……
(……いや……待てよ……これは少し違うな)
 ふと、我路の脳裏に考えがよぎる。
(…………分からない……こういうときどうすればいいのか……)
 安心感を知らないんだ。幼少の頃から知らないから。安心を知らない環境に育ったから。だからこういうときどうすればいいのか分からない。しかし、なぜかその時……
「お前凪ちゃんの首しめた? 笑。ハードプレイかよwww。」
 と、園さんが我路の悩みを笑いのネタに変えてきた 笑
「は? え?」
 我路はその笑顔に一瞬戸惑い、思わず普通に反応してしまった。
「今度は玩具責め? 緊縛? 目隠し? 体に落書き?? 笑笑」
「は、はぁ?……苦笑」
「大丈夫! 大丈夫! がんばろうぜ!」
「がんばれって……笑笑」
 だが不思議と心が軽くなった。不思議なほど身体が軽くなった。この胸に抱いていた重みが、チリのように溶けてなくなっていく。
 胸の重さが消えると同時に、憎しみと嫌悪感もどんどん消えていった。その落差に戸惑うことはあれど、過去の苦しみから逃れられた気がして……心地良い。

「我路、それにダン、アイ、夏凛」
 だが宮さんの、
「なんか知らんけど客人や」
 重い声が響いた。
「なんかエラい物々しいで」
 それはまるで……過去の苦しみが、昨日の手首が、離さないようだ。

「やっと見つけましたよ。我路、ダン、アイ、夏凛。10年前の逃亡者」
 スーツ姿にサングラスをかけた、眼光鋭い男たち5人を従えて彼等の前に立ちふさがった男はどこか爬虫類のようにも感じられる陰気な男だ。
「永遠学園とゴースト・マカブラ・カンパニーの使者です」
「!?」
「社長がお呼びです」
 我路たちは警戒した。同時に……疑問を感じた。なぜいまこのタイミングなのだ? 
「……嫌だと言ったら?」
 我路が尋ねると、一同は沈痛な面持ちになる。
「静香と凪を、警察に突き出す」
「!?」
「問題はないですよね? 法に基づいているのですから」
「……テメェららしいやり方だな。正しいだけで人間味がない。頭のいい愚かさだ」
「それだけ急いでるんです。来て頂けますね?」
 ダンや夏凛はなにか言おうとしたが、声が出ない。だが……
「ぼ、僕は構いませんよ、我路の判断なら。どんな大変な事になろうが」
 夏凛が少し引き気味になりながらも声をだした。
「……ここは行くっきゃねぇな、我路」
 ダンは眉間にシワを寄せたが、ポンっと我路の背を叩く。
「……」
 アイは、
「我路の選択肢はひとつしかないと思われます。しかしそれがどんな選択肢でも、私は支えるだけです」
 と、いつものような棒読みと無表情で言った。それが、かえって安心させてくれる。
「……」
 我路はふと、凪と静香を見てみた。静香は不安そうな顔をしている。それもそうだ……ここしか生きる場所がないのだから。
 凪は……不安、というより心配そうな表情だ。その裏にある気持ちは、どんな気持ちなのだろう? それを知るすべは我路にはない。そのはずだ、なのに……答えたいと願った。だから……
「わかった……行こう。GMC社長のもとへ」
 と答えた。
「感謝致します。ではご同行を願います」
 と、GMCの使者たちは我路たちを、黒いリムジン車に案内した。
「安心してください、今回はインテリジェンスの塊のような者達が同行します。安心していいですよ」
 と、自分たちで称する通り、彼らは非常に優秀で非の打ち所のない人間達だった。
「我路!」
 凪は我路の背に言った。
「……必ず、帰ってきてね。私、待ってるから」
「……」
 我路は無言の背で、しかし……少しの笑顔を見せる。
「ありがとう、待っていてくれ」
 それが二人の、精一杯の会話だった。ここにいる誰もが感じていたのだ。あたりまえだったハズの日常の終わりが、始まったのだと。
「……」
 我路たちが去っていったあと、並さんと宮さんは目を合わせる。
「大変なことになりそうですね」
 と宮さんは言った。
「……全くだな」
 と並さんは苦笑する。
「そろそろあれの出番かもしれない」
 並さんは珍しく緊張した声でそう言った。

 我路たちを乗せた黒いリムジンはビル街を抜け、高速道路を走っていた。暴走する自家用車の間を、スムーズなハンドル捌きでスルリと抜けていく。まるで華麗な強者のように。やがて特徴的なビルにたどり着いた。月を象徴したフォントで『GHOST MACABRA COMPANY』と書かれた看板がそのビルからは伸びている。車を止め、有無を言わさぬ足取りでスーツの男達が降り立つ。そして……後から我路たちが降りた。
「……不思議だ。物心ついてすぐに出ていったハズのに、何処か懐かしい」
 我路は一瞬懐古にふけるも、すぐさま姿勢を正した。思い返したのだ、背には支えてくれる人たちの想いがあるのだと。
「こちらへどうぞ」
 それから我路たちはビルの奥へ案内される。屋上に通じるエレベーターの前に門番の男が待機していた。
「僕が行きます」
 コンシェルジュの男がそう告げ、先導するように歩き出した。彼がドアの横のボタンを押すとチィーンという音が響いたと同時に、まるでエレベーターのドアが自動ドアの如く開いたまま固定された状態に保たれた。
「行ってください」
 我路たちを促すコンシェルジュの男の声は事務的で、淡々とした口調だった。
 2mはある巨大なエレベーターの中には大量の歯車式の機械があったけれど、それらが全部人の手だと言われれば納得できる程の神級技術が込められていた。
 そしてさらに上の方へ降りて行くたびに階層が増えるごとに壁の作りやカーペットの模様などが変わり始めていたことを一行は気付いていた。やがて地上最上階にたどり着くと、またSPが出迎える。
「こちらへ」
 綺麗に一列に並んだSPの後についていくと、アンティーク状の扉が開き中へと通された。中は素朴だが高級感ある部屋で、アンティーク家具に囲まれている。その奥に……社長は座っていた。
「久しぶり、我路」
 社長は60代ほどの女性だった。顔つきはハッキリとして精悍で、風格のある品があった。白髪混じりの黒髪を後ろにまとめている。
「母さん……」
「!?」
 夏凛とダンは驚いた素振りを見せ、アイは我路を横目に無表情だ。
「我路が! GMC社長の息子!?」
「自分の息子まで永遠学園に入れていたのか!!」
 我路はまるでそれらの言葉も目に入らないように、ただ……自分の母の姿をジッと見た。
「いや……社長」
「……」
「オレ等になんの用だ? 今さらまた再教育でもしたいか?」
「……」
「それとも処分か?」
 社長が一瞬哀しそうな表情をしたが、すぐにキゼンとしたポーカーフェイスに戻る。
「……話、というのは、我路を昨夜襲った男と、その裏にある組織についてだ」
「ほぉ……」
「長く複雑な話になるから順を追って説明する。時は百年前、大東亜戦争こと太平洋戦争、第二次世界大戦の頃の話になる。
 当時のナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー総統の『隣人を無表情で殺せる人間が世界を支配する』という言葉をキッカケにある計画を始動していた。それは産まれた瞬間から『完全なる兵士』としての教育を施した軍隊を造る計画だ」
「!?」
「前身となる計画自体は1935年12月からSSを主体に始まった。これを『人狼計画』という。人狼とは『Were Wolf』で 英語の『Werewolf』、ワーウルフ、狼男と同一語源でありドイツ語の、 『lycanthropy』 、ライカントロピー、狼化という意味である。さらに「戦狼」を意味する『Wehrwolf』、ヴェーアヴォルフの語呂合わせでもある。しかしこの計画はとんざした。長過ぎるからだ。
 産まれた赤児を1から軍隊教育する、という性質上、計画の完成にはあまりに長い期間を要する。しかも初めから完成された教育プログラムを組むことはできない。結局は実験を重ね何世代にも渡って計画を遂行する事になる。どう考えても大戦に間に合わないと判断された『人狼計画』は中断された。
 しかし『人狼計画』は、当時の大日本帝国。牛島 満将軍の眼にとまり、より強化された作戦に昇華された。それが『鬼(キ)一号作戦』。ナチス第三帝国の『人狼』を日本の『鬼』に解釈して名付けられたものである。その内容は『人狼計画』が『完全なる兵士』としての教育プログラムを組むのに対し、『鬼(キ)一号作戦』は投薬や施術による人体強化である。それにより『人狼計画』よりも早いスパンによる遂行と完成が期待された。
 牛島 満将軍は1940年、昭和15年、7月に『沖縄第131部隊』を結成し、当時の沖縄地方にてマルタと呼称する実験体をもって凄惨な人体実験を繰り返した。
 肉体強化に加え超能力を与えるドーピング開発を目的とした人体実験で、最初に行ったのは人体解剖ならび、あらゆる状況下における肉体の限界を測る生理実験を繰り返すことだった。その内容は悲惨そのもので、生きたまま首を切断、手足をもぎ取りながらの実験などを繰り返し、内臓摘出や骨髄移植なども行った。それらの実験がある程度終わり、次のステップとして行われたのは解剖した死体を使った予習と復習だ。同じように次々とマルタと呼ばれる実験体を解体してゆき、まるでミンチ機で潰すかのごとく行われていった。時には裸にされ、尻や性器に異物や電流を突っ込んだり、頭から氷水をかけながら冷凍室に閉じ込めたり、熱湯をかけたり、大量の蟲を体に侵喰させたり、土の中に埋められたまま生き埋めにされてまた掘り起こされたりと凄惨な実験が繰り返された。そんな人体実験の繰り返しである。しかしそのお陰か、人体の様々なデータが収集され、戦後はGHQが喉から手が出るほど欲したとされる貴重な医学的科学的データが収集された。
 次の段階は投薬と施術による人体強化の実験だ。身体改造と言えばわかりやすい。彼等彼女等には主に15歳までの少年少女が選別された。発達途中であるゆえ、人体強化、身体改造、精神矯正がしやすいと判断されたのだ。
 まずは筋繊維がどれだけ強化されるのか、骨がどれくらい頑丈になるかを調べては試していく。それによって使い物にならないと判断されたものは一辺180cmの立方体キューブの中にホルマリン漬けにされ保存された。
 生きた者のそれからはまさに地獄絵図だった。実験で生き残った少年少女たちは密室に食べ物を与えられず閉じ籠められ、お互いを共喰いさせられ、戦わされた。自分たちが実験されているとも知らずに戦い続け、そして死んでいくのだ。それと同時にまた更なる人体改造が施されるのだった。
 今度は体内に電極を差し込まれ電気を流していくという肉体改造実験だ。肉体改造で変化するのは皮膚だけではない。血管、神経組織そして脳に至るまでである。
 と……ここまでの科学実験を繰り返した段階で、牛島 満将軍は次の段階に野望を昇華した」
「!?」
「彼が着目したのは、沖縄県大神島にある秘祭、祖神祭(ウヤーン)だった」
「祖神祭(ウヤーン)……」
「沖縄で最も神聖とされる孤島、大神島。島自体がピラミッドの型をしているのが特徴的な島だが、島独自の信仰がある。島にはユタと呼ばれる聖職者の女性以外立ち入れない場所もあり、また、島のモノは小石に至るまで外部に持ち出すと神の祟があると伝承される島だ。この島には外部に決して漏らしてはならない秘祭があり、それが祖神祭(ウヤーン)だ。牛島 満将軍は祖神祭(ウヤーン)にひどく興味を持ち、ユタを十字架に磔り憑けては、様々な拷問、時には火炙りに処し内容を聞き出した。その内容を収めたデータがここにある」
「!?」
 社長は分厚い書類を取り出した。
「内容は複雑だが、端的に順を追って説明しよう。まず祖神祭(ウヤーン)は、大神島から満月の夜の大潮の時にのみ渡れる、アラーンと呼ばれる浜で行われる。そのアラーン浜には大神島に向けて石造りの鳥居が建てられている。
 そこでユタたちは様々な捧げモノを捧げながら、ユーシヌフサと呼ばれる詠(ウタ)を詠う。このユーシヌフサの内容と意味をもって事を説明すると分かりやすいと思う。まずはユーシヌフサを見てほしい」
「……」
 我路たちは社長に手渡された一枚のコピー用紙を眼にとめる。
「まず結論から言おう、大神島の神の正体、沖縄が、琉球王朝が、神として崇め、信仰し、島の統治の中心に据えてきたモノの正体は」
「……」
「安徳天皇の木乃伊(ミイラ)」
「!? 安徳天皇って、平家の安徳天皇か?」
「そう……平家の安徳天皇だ」
「……」
「安徳天皇……1178年、平清盛の娘、平徳子と高倉天皇の間の子で、平家が天皇家の遠い親戚に当たることを証明する政治的に重要な子どもだった。だが七歳で、源氏一派の反逆により壇ノ浦で母と死ぬ……と、正史ではある。そこで入水自殺の母子無理心中したという話だ。
 だが実際は多くの平家の落ち武者が海を流れ、壇ノ浦から沖縄、大神島に流れた。
 大神島に特に多いが、平良(たいら)さんという苗字がある。彼等は平家の末裔だ。それに大神島には、平家顔と呼ばれる人々も多い。沖縄顔でなく平家顔だ。それだけでなく、大神島の方言は、言語学的に平安時代の言葉と共通点が多い。沖縄に渡った、平家の血筋が流れている……ということだ。そう考えてこの詠(ウタ)を読んでみろ?」
「……アラーンに流れるユーシヌフサ」
「アラーンとは先刻も説明したが、大神島と隣接する宮古島の狩俣にある浜で、大神島とは満月の夜のみ歩いて渡ることができる。この浜に平家の落ち武者たちが流れたと伝承される」
「ユーシヌフサ……」
「先刻も話したが、毎年アラーンで行われる祭り……というより儀式がある。その時にユタという聖職者のモノが詠う詠だ」
「それを聴くと祖先の記憶を想い出すか……」
「アカザラぬアカダイぬマヌスとパマストゥヌスは、狩俣始祖伝説に伝わる男神と女神だ」
「それが口づけをする……つまり、この二人の子孫が狩俣の民である、という意味か?」
「ああ、特に重要なのが男神、アカザラぬアカダイぬマヌスだ。これは直訳すると、赤い皿の赤い台の上の真主、つまり神という意味になる」
「平家の旗か」
「そうだ平家が赤旗で源氏が白旗だった」
「つまりこれは、平家と当時の宮古島の民……こと大神と狩俣の民の末裔が、現在の宮古島の人々であり大神島の人々……ということか」
「そうだな」
「孤独の神が棲む島の伝承をあなたに託しましょう……」
「安徳天皇のことだ。アラーンに流れた時は、もうすでに死んでいて、木乃伊にしたらしいがな」
「それが神の正体……」
「つづく大神、祖神祭は、ウプガン、ウヤーンと読む。祖神祭は先刻も話した毎年行われる秘密の祭りで、外部の人間には絶対に見せない祭りなんだ」
「秘密の多い島か……」
「安徳天皇の秘密を隠すためにずっと排他的なのさ」
「懐かしいから、忘れたかった君は、トゥンバラぬミササギへ昇り」
「トゥンバラとは、大神島の山の頂にある、誰でも解るんだが、大きな岩があるんだ。信仰の象徴になってる」
「ミササギは墓のことだよな?」
「トゥンバラが安徳天皇のミササギ、墓なんだ」
「なるほど……」
「つづく、これが最期の始祖伝説。始祖伝説はニーリと読む」
「始祖伝説(ニーリ)?」
「狩俣に伝わる、祖先のルーツを伝えた唄だ。そのにニーリに隠された部分がこの詠(ウタ)だ」
「大神に隠した神、安徳天皇の木乃伊(ミイラ)……」
「親神は子神、子神は親神、これは親神(ウヤガン)、子神(ファヌカン)と読む」
「なにかの示唆か?」
「親神は大神島、子神は狩俣を現す」
「大神と狩俣の関係性」
「狩俣のアラーンにも、大神島に向けて神社、鳥居があるからな」
「トゥントゥナギ、トゥユマシは?」
「トゥントゥナギ、トゥユマシは遠とぅ長ぎ、豊ゆまし、とも描く。さっき言った、始祖伝説(ニーリ)の決め台詞だ。~トゥントゥナギ、トゥユマシの繰り返しの唄なんだ」
「つまりこれが、隠されたニーリを示唆する、ということか……フィーサマティは?」
「フィーサマティは欲しいという意味だ。大神の民が月が昇った時に唄う言葉ならしい」
「月……か」
「ここまで来れば読めてきただろ?」
「最期のこれは?」
「まだ少し人間(ヒト)でいたい、子宮(アガミクル)に神(ガン)とぅ祈った……これは……」
「……」
「これは、神になるんだけれど、神になるということは、逆に言えば人間でなくなるということになる」
「……」
「それが恐いと言ってるんだ」
「子宮に神と祈った……」
「子宮(アガミクル)は沖縄の信仰において重要なんだ。死生観がこっちと違ってな、こっちは死んだら土に還るって考え方だろ?」
「そうだな」
「沖縄は、死んだら子宮に還るって考え方なんだ。だから沖縄の墓は、上からみたら妊婦のお腹みたいなカタチをしている」
「……胎児に唄ってる?」
「そうだ、いい処に気づいた。ドグラマグラのような話だが、この詠は子宮にいる胎児に向けて唄う伝承歌なんだ、本来は」
「なるほどな……一族の野望のために産まれて、一族の業で自殺に追い込まれ、死後も木乃伊になって神として崇められている……安徳天皇はどんな気持ちなんだろうな?」
 我路は寂しげな顔をしていたが、社長はまるであらかじめ決まった台詞(セリフ)を読み進めるように続けた。
「牛島 満将軍はこの内容に興味を持ち……当時大量の陰陽師を大神島に引き連れた」
「!?」
「目的は大神島に眠る安徳天皇の木乃伊の発掘と、それに眠る怨念を支配(コントロール)し、鬼を完成させること。そう……鬼神(マズムヌ)を造りあげることだ。それが、鬼(キ)一号作戦の最終段階、時は沖縄戦真っ只中の1945年、4月の事だ」
「狂ってるな……」
「そう……狂ってるんだよ。これが戦争だ。国家規模に拡大された、な」
「……」
「そして牛島 満将軍は、自身の息子を鬼(キ)一号作戦の最終被験体に選んだ」
「!?」
「そうして当時七歳の息子は鬼神(マズムヌ)となった。彼の名は……『殺志』」
「殺志……」
「関東軍鬼(キ)一号作戦防諜特務機関の集大成だよ……だが戦果を上げることはなかった。ちょうど沖縄戦が終戦した。やがて太平洋戦争そのものが終わると、GHQによって鬼(キ)一号作戦の調査が行われた。記録では沖縄戦終結を前に131部隊は証拠隠滅のため、殺志は処分したとある」
「勝手な……」
「『人狼計画』と『鬼(キ)一号作戦』、それらのデータは戦後GHQの手に渡り、新たに『完全なる人間』を教育、育成するための計画に咀嚼され、引き継がれた。それが『MK ウルトラ計画』であり、我々GMCが運営する永遠学園の正体だ」
「……なるほどな」
「だが『人狼計画』は生きていた。『鬼(キ)一号作戦』もな」
「!?」
「ナチス残党は戦後親ドイツ国家の多い南米に渡り、そこで密かに計画を進めていた。その結果……戦後100年にして三世代を重ね、人狼は完成した。『WereWolf三世』こと『ハンス』、彼は最後に、血のイニシエーションと呼ばれる、実の母を処刑し、その血を浴び、しかも無感情である、という儀式に成功した。ナチス残党はハンスを『総統の産まれ変わり』と称し、彼を中心に第三帝国の復活と千年王国の再生を目標に立ちあがった。結果……彼等は、大神島に殺志がまだ生きていることを突き止めた。
 牛島 満将軍は、関東軍鬼(キ)一号作戦防諜特務機関の集大成である殺志を処分するのが惜しくなったのだ。結果彼は戦争終結間際に、大神島にある大主神社の座敷牢に殺志を封印した。そう……安徳天皇の木乃伊(ミイラ)が安置されていた元の場所に殺志を封印したのだ。
 大神島の民はそのことも、鬼(キ)一号作戦のことも知らず……いや、一部の人間は薄々気づいてはいたが、見て見ぬ素振りで殺志をなおも信仰の対象とし、島独自の信仰を継承し続けた」
「なぜだ?」
「大神島も含めた沖縄は、民の統治システムとして永らくその信仰を用いていたからだ。信仰をもって人心を掌握し続けてきた豪族とその末裔たちは、今になって信仰を否定されることを酷く恐れているし、民ももはや一個のイデオロギーとなった信仰の否定には恐怖を感じる。無秩序の恐怖、だよ」
「……」
「話を戻そう。殺志が生きていることを突き止めたハンス率いるナチス残党は、およそ一年前、大神島を占拠し独自に統治、殺志の封印を解いた」
「!?」
「ここからが本題だ……殺志と共に、ナチス残党は第三帝国の復活と千年王国の再生のため活動を始めた。その活動の一環で、彼等は永遠学園の卒業生たちの暗殺活動をしている」
「なに!?」
「恐らく『鬼(キ)一号作戦』と『人狼計画』を引き継いで完成された『MK ウルトラ計画』を彼等は恐れているのだろう」
「……」
「我路、君を昨夜襲撃した男、彼が殺志だ」
「!?」
 我路は驚愕した。それが驚きか恐怖かも分からないほどの強烈な感情だと理解するのに数秒かかった。あまりに重く、深い感情だ。
「だから君たちを呼んだ……彼等ハンス率いるナチス残党と殺志は、いずれ君たちをも暗殺する。だから我々GMCが保護したい」
「は?」
 我路たちは同時に声を上げた。
「ずいぶんと勝手だな……社長さん」
「……」
「あんたがたはいつでもそうだ。それが愛情だと思い込んでるんだろ!! 何がMK ウルトラ計画だ何が永遠学園だ何が完全なる人間だ何が完璧な教育だ何が保護だ!!!! オレも! みんなも! 誰がそれを望んだ!!!!」
「我路と君たちにはよくなかったのかもしれない」
「はぁ!? 何訳わかんないこと言ってんだ、この老害!!!!」
「MK ウルトラ計画と永遠学園の恩恵は大きい。実際に永遠学園の卒業生たちは非常に規律正しく、責任感が強く、協力的な大人になっていった。また、リーダーシップやチームワークのスキルを身につける者も多いため、企業や組織の中でも成功を収めている人間が多い。さらに彼等の個々の能力は大企業や組織だけでなく、医師や弁護士、政治家、行政官、研究者といったプロフェッショナル達の知識やスキルにも多大な躍進をもたらし社会的に大きく貢献した。また、永遠学園で培われた教育プログラムは、特に我路たち第一世代で培われた教育プログラムは、後の教育プログラムにも大きな影響を与えている」
「あなたの行った完全なる人間を造るための教育プログラムには重大な欠陥がある!!!!」
 我路は自らの過去の記憶を遡り、思わず声を上げてしまった。
「永遠学園の教育プログラムを受けて育った子供達は、“安心”を知らない」
 エゴにまみれた教育プログラムの結果、得体の知れない怪物を頭に産み出してしまったことに強い憤りを覚えた。
「だから精神が不安定なんだ!!」
 頭の中の怪物がいつでも叫んでいる。“ダシテクレ”と、だからいっそ自分を殺してほしい……そう毎日願うようになっていった。それが母の教育プログラムの結果だ。
「我路はね」
「自分たちがやってしまった大きなあやまちを認めろよ!!」
「それ以上の成果もある」
「あんたはいつだって自己保身バカリだ。だからいつも切り捨てがる。メンドウなんだ」
「……」
「オレが憶えてるあんたとの、数少ない家庭での思い出は……
『じゃあ家から出ていけ』だ。
 そういや父親にも、何度も
『離婚する』ってワード言ってたらしいじゃねぇかよ。
 よくそんだけ軽く言えるよな?」
「我路……」
「安心感なんて知らずに育った。それを愛情として認識させられた。だから人を愛せない」
「我路がほしかったぬくもりと、私が与えたぬくもりは、違うかもしれない。でも……」
「オレをなぜ永遠学園に預け、なぜ再生能力の施術を受けさせた。オレをテメェの後継者にしたかったからだろ!!」
「違う、我路に、ずっと五体満足でいてほしかったからよ」
「!?」
 そのときの社長の表情は、少なくとも我路には、人間らしく見えた。でも、それが誰かのためを思ってする行動なのか。自分のためにした行為なのか。それはわからないし、どちらでもいいことだ。
「……悪いが、オレたちは自分たちの道を切り開く。自分たちの……“わが路”をゆく」
「……」
「ダメなんだ、あんた方といては。たとえ間違っても、どんな酷い結果が待っていても、たとえ転んでも、擦りむいても、オレたちは……“わが路”を行かなければならない」
「我路……」
「だから殺志とハンス、ナチスにも、オレたちだけで闘う」
「なら……」
 社長は
「これを」
 一通の封筒を
「持っていきなさい」
 我路に差し向けた。
「131部隊のデータに残っていた殺志の能力とその内容。そしてハンスの数少ないデータから推測されたハンスの能力と思考。役には立つハズ」
「……」
 我路は一瞬ためらったが
「?」
 アイが我路の背にそっと手をのせ、コクリと頷いた。
「……わかった。受け取ろう」
 我路が社長から書類の入った封筒を受け取った。それが……この母子の、せめてもの餞別であり、別れの挨拶だ。

 我路たちがGMCのビルを出る。陽の光を感じたとき、すでに太陽は沈みかけていた。
「我路」
 アイはビルから出てすぐに呟く。
「合理的に言えば、私たちも我路も、これからです。なぜなら親や学校の教育期間に過ごした時間より、大人になってから過ごす時間の方が遥かに長いからです」
 アイの無表情で感情を宿さない瞳。その眼をしばらく見つめる我路は……ニコリと微笑んだ。
「そうか。それはおもしろいな」
「我路」
 次に声を出したのはダンだ。
「我路は『人を愛せない』と言ったが、それは違うと思う」
「ダン……」
「オレたちが人を愛せないとは一概には言えない。オレたちが受けた教育によって個々の人格や性格に影響を与えたことは確かかもしれない。だが人を愛する能力は教育によって完全に奪われるものではない。人は様々な経験や環境によって影響を受けるが、愛情や思いやりを持つことは個々の意志や努力によって変えることができる。要は本人がどうしたいかとどうするかだ」
「……」
「現に、オレは愛し合えてる、咲夜と……寿命は短くとも、それでも幸せだ」
「……そうだな」
 我路はたまらない笑顔を見せた。そうだ……ダンには寿命がないが、自分にはある。ダンには時間がないが、自分にはあるんだ。その意味は……重く、だけど我路を、強く、支えてくれた。
「我路」
 夏凛は、
「僕は思う。我路の言う“わが路をゆけ”ってすごく大事な言葉だなって。そう。僕らにできる最初の物語は、自分自身を生きるということ。それがたとえ冷酷に見えても」
 とても真剣だった。
「だから僕は我路を支えるし、きっと……みんなもそう。GMCの社長が我路のお母さんだったとか、その背景とか、ハッキリ言ってどうでもいいですから」
「!?」
 そんな夏凛に我路は思った。
「ああ……ありがとう」
 自分を想い、支えてくれる人たちがいる。
「行こうわが路を」
 ……それはとてもしあわせなことだ。
「大丈夫だ、先頭はオレが行く」
 だから自分も、その想いを、返したいと思う。
「そして何も恐いモノはないと、笑顔で手を振るんだ」
 だからゆくのだ、わが路を。
「オレたちは開拓者だ」
 自分を、自分たちを、傷つけてきた何モノにも縛られない……自由を、探すんだ。支え合いながら。

 誰もいない社長室。静かすぎる空間で、社長は一人ワインを飲む。いくら飲んでも酔えないような虚しさを抱え、グラスの中の真っ赤な液体を見つめた。誰もいない空間に、そんな社長だけがいる。お洒落で整った部屋なのに、今のこの場所はひたすら寂しいだけの部屋になっている……まるで空虚な場所だ。そしてまたグラスに口をつけた時、
「……」
 一人になった社長が泣き出した。悲しいから泣くのではなく、終わりの音に泣くのだ。その、声は、やがてかき消えるように小さくなっていき、もう決して戻らないのだと自分に思い知らせるのだった。

 別れてみたら、きっと楽だよ
 喜びも哀しみも、期待も不安も
 手放せるんだから……とどめておこうね
 前へ……ひたすら真直ぐ進みなさい

 生命(いのち)よ、わが路をゆきなさい
 赤児が……転んでも立ち上がるように

 生命(いのち)よ、わが路をゆきなさい
 赤児が……初めてを恐れないように

つづく

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