私設Mリーグダービー番外編 【後編】「デジタルvsオカルト」とパターン認識について



前回の原稿で、人類の85%はなんらかの意味で「不合理なもの」を信じていると紹介した。残りの15%が「無神論・無宗教」だ。

これを麻雀に置き換えると、85%が流れ派で、15%がデジタル派となる。この比率はMリーガーにもだいたい当てはまりそうだった(タクシー貴&平岡調べ)。

流れ派v sデジタル派。この対立はおそらく永遠に続く。なぜならこの二つは「人類の進化」という同じ母胎から生まれたものだからだ。まずはそのことについて見ていこう。原稿の最後に「期待値こそ麻雀における神だ」という園田賢の意見について、私なりの見解を述べる。

流れ派もデジタル派も、母親は一緒

1億年前、人類の祖先は、取るに足らないネズミのような生き物だった。彼らは恐竜にびくびくしながら暮らしていた。あるネズミは昼に水場へ水を飲みに行った。あるネズミは夜に水場へ水を飲みに行った。そしてあるとき、夜派のネズミが気づいた。「昼に水場へ行った仲間は、だいたい食われてしまったぞ。だけど夜に行った仲間は、あまり食われていない」

それに気づいた夜派のネズミは、命を長らえて子孫を残すことが多かった。夜派から生まれた子供たちも、夜派に育つことが多かった。それが何万世代、何百万世代と続くと、生まれてくる子供たちに、ある傾向が強くなった。

「◯◯だから、✖️✖️だ」という思考が得意な子が多く生まれてくるようになったのだ。「昼間は恐竜がいるから、水場は危険だ」「暖かくなってきたから、山の上の木の実が成っているはずだ」「子供を外に出すと危険だから、大きくなるまでは穴の中で育てよう」

この思考は、因果律と呼ぶことができる。「原因がなくては何事も起こらない」という原理だ。逆さにいうと、「なにかの出来事の裏には、必ず原因があるはず」という原理だ。

この能力はネズミから猿へ、猿からヒトへと進化するあいだに、いやと言うほど磨かれていった。なぜならこの能力に秀でた個体が、子孫を残す確率が高かったからだ。この能力に恵まれなかった個体は、悲しいことに、子孫を残す前になんらかの理由で命を落とすことが多かった。ゆえに因果律を軽視する遺伝子は、だんだんと地上から失われていった。

この因果律の勝利は、二つの矛盾するものを人類に与えた。論理的思考と、宗教的思考の二つだ。これは科学精神とオカルト指向と言い替えることができる。つまりデジタル派と流れ派だ。相反するように見える二つは、じつは同じ「因果律」という母から生まれたのだ。どういうことか。

まずは論理的思考のほうから見ていこう。これはわかりやすい。「◯◯だから、✖️✖️だ」という思考が得意な個体は、あなたの周りにもたくさんいるはずだ。数学が得意な男の子。論理的でない話はいっさい受け付けない人。占い、風水、血液型、アヤ牌などの話をされると、ムキになって否定する人。名前を挙げるならガリレオ、ニュートン、織田信長、ひろゆき、ホリエモン、タレントの有吉、ビル・ゲイツ、園田、コバゴーなどだ。

ところがこの因果律は、まったく真逆にみえる宗教的思考も産んだ。なぜか。それは「なぜわれわれは存在するのか」という疑問に人類が挑んだからだ。というよりも何千万年、何億年もかけて因果律を研ぎ澄ましてきた人類は、その宇宙最大の難問に挑まざるを得なかった。それくらい人類は「原因を見つけたがり」しい、なのである。

そしてその答えは、「偉大なる何者かがわれわれを創造したからだ」という結論に行き着いた。つい百年前まで、それ以外の答えが見つからなかったからだ。その後、科学が「宇宙は神様が創ったのではなく、ビックバンから始まったのだ」と教えてくれた。だが科学と双子のきょうだいである宗教は、「じゃあその前には何があったの? そもそもビックバン自体はだれが起こしたの?」と問うてくる。

ここまでで何が言いたかったかというと、「因果律のモンスター」として設計されたわれわれは、説明がつかないことが大嫌いだということだ。だからわれわれは何事にも説明をつけたがる。それが科学的説明となるか、非科学的説明となるかは、じつは人間の脳にとって本質的な問題ではない。説明がつきさえすれば安心するのだ。

「なぜ宇宙が存在するの?」

「神様が創ったからだよ」

「なぜ人間だけが頭がいいの?」

「神様がそう創ったからだよ」

「なぜ不幸な人と、幸せな人がいるの?」

「神様がそう決めたからだよ」

「神様ってそんな不公平なことをするの?」

「安心しなさい。神様はなんでも見ていて、天国や来世では、きちんと信賞必罰になっているから」

これはそっくりそのまま、流れ派の雀士の会話に置き換えられる。

「なぜ麻雀では、うまい人が勝つとは限らないの?」

「流れがあるからだよ」

「なぜ麻雀ではツク人と、ツカない人がいるの?」

「流れがあるからだよ」

「麻雀の神様ってそんな不公平なことをするの?」

「安心しなさい。神様はなんでも見ていて、ミスった人には罰がくだるし、頑張った人にはご褒美があるから。次の局の配牌を見ててみな」

「でももう、機械が積み終わっちゃってるよ」

「……手積みの時代に戻そうか」

この会話でもわかるように、因果律は勧善懲悪の物語が大好物だ。原因と結果がわかりやすく結びつくからである。人生も麻雀も、努力はいつか報われる。悪は滅び、善が栄える。こんな「物語」を武器にする宗教は、人類の脳に強く訴えかけてくる。

ちなみにわれわれの脳は、だいたい5〜6万年前に完成されたと言われている。だから次の突然変異が起きるまでは、われわれは水戸黄門やヒーロー物の映画を好み続けるだろう。進化の必然である。私も早速、勧善懲悪の小説を書き始めねば!

「流れ派vsデジタル派」は「東洋医学vs西洋医学」と同じ

流れ派とデジタル派の対立は、東洋医学と西洋医学の違いにたとえることもできる。一般的に西洋医学は「病気」を診て、東洋医学は「人」を診ると言われる。西洋医学はなんらかの症状が出た病気をピンポイントでやっつけるのがうまい。対して東洋医学は、その人の生まれつきの体質や、心身のいまの全体的な調和をみて、治療法を探る。なんなら病気を未然に防ぐ「養生」にいちばん価値が置かれる。

これは「何切る」の全体図を見せられたとき、その局面だけを切り取って最適解を出すデジタル派と、「それまでの流れを見ないと、最適解は出せないよ」と考える流れ派の違いともいえる。

東洋医学は、患者一人ひとりの見立てを大切にする。配牌(生まれつきの体質)や、ツモ(生活習慣)の流れを大事にするのだ。オーダーメイド医療といわれる所以である。

そして東洋医学は科学的な証拠(エビデンス)なしに、ずっと成果を挙げてきた。では何を重視してきたか。経験と観察である。「お腹が痛いときは、あの草を食べれば治る」「傷ついたら、泥をこすりつけると化膿せずに済む」。人類は猿だったころから、この手の試行錯誤をくりかえし、治療法を確立してきた。その集大成が東洋医学である。東洋医学の根っこにあるのは、ホモサピエンスの膨大な観察実験結果(ビックデータ)である。

指で押すと気持ちのいいツボ。足裏と内臓の反射関係。漢方薬。これらもまた膨大な経験と観察から生まれた。まだ科学的な根拠が与えられていないものも多い。だがこれで体が良くなることは誰もが知っている。つまりここでは経験が科学に勝っているのだ。「なぜそれで治るのか」を説明できない科学の負けである。これは流れ派の雀士が、牌効率を無視した打牌でアガリをとり、デジタル派に勝ったようなものである。

デジタル派は言う。「あんな非合理的な打ち方で勝てたのはたまたまでしょ」。流れ派は言い返す。「牌効率だけで勝てたら世話ないよ。実戦では、経験が牌理に勝ることも多いんだ」「いやいや、あんな再現性が低いアガリばかり狙っていたら、長期的には負けますって」「いやいや、こちらは毎回ケースバイケースで場と流れを読んで、打牌を変えていくから」。両者はどこまで行っても交わらない。東洋医学と西洋医学は、根本思想がちがうのだ。

沢崎誠や多井隆晴は東洋の名医

実際、ばりばりの流れ派は大局観に優れている。この局はシュンツ場か、対子場か、アンコ場か、染め場か、三色場か、ひね場か、てんこしゃんこ場か。これまでの流れから、自分にアガリはあるか。そんなところから手組を立てていく。

これは東洋医学が「表裏」「陰陽」「虚実」「寒熱」といった4つの物差しで、体のバランスを判断するのに似ている。ここでも大切なのは、膨大な経験と観察だ。これは「パターン認識」と言い換えることができる。経験則。大局観。だいたいそういった言葉と意味は近いが、麻雀や東洋医学には「パターン認識」という言葉がいちばんしっくりくる。

パターン認識を極めていくと、麻雀でも東洋医学でも、より精緻な状況判断ができるようになる。たとえば対子場にもいろいろあるように、おなじ風邪でも温めたほうがいいものと、水をがぶがぶ飲んで体を冷やしたほうがいいものがある。そんな見立てが瞬時にできるようになるのだ。優れた東洋医は、患者の舌を診る。脈を取る。顔色を見る。生命力。気。血。水。その流れ。そうしたものを全体的に診て診断をくだすのだ。

優れた流れ派の雀士がやっていることは、これと似ている。局面全体を見て、それまでの膨大なパターン認識から、診断をくだす。そしてとんでもないアガリを拾ったり、とんでもないビタ止めをしたりする。たとえば多井隆晴や沢崎誠がわかりやすい。彼らが東洋医になっていたら、途方もない名医になっていただろう。「全体」を診る能力と、パターン認識に長けているからだ。

羽生善治のパターン認識

将棋の羽生善治さんがこんなことを言っていた。棋士が長考に沈んでいるときは、たくさんの着手について考えているのではない。直感で二つくらいの手に絞ったあと、その二つの優劣について精査しているのだ。そしてその直感は、記憶から生まれるのだ、と。

長考しているあいだに、脳内にある何万局もの棋譜のデータベースに検索をかけて、良さそうな手をあぶりだす。つまりパターン認識だ。じつはこれはすべての創作物にも通じる。映画も漫画も小説も楽曲も、すべては過去の膨大な人類知のデータベースからの引用にすぎない。

麻雀もそうだ。似たような局面での打牌選択が、どんな結果をもたらしたか。雀士は一打一打、膨大なデータベースに検索をかけながら打っている。もちろん牌理も大切だ。検索にかけるまでもなく、牌理で打てる一打は多いからだ。そこは将棋と一緒である。だから麻雀は「理」と「パターン認識」を競うゲームなのである。

羽生さんの話でもうひとつ面白かったのは、長考に沈んだとき、「それまでの局面に至るまでの流れを、一手目から脳内で再現していることがある」という話だ。私はこれを聞いたとき驚いた。将棋は麻雀とちがって完全情報ゲームだ。だから「何切る」ならぬ「何指す」問題を出されたとき、その局面だけを切り取って、最適解を出すことが可能だと思っていた。

しかし羽生さんは、そうではないと言う。まるで作曲家が次のメロディをつむぐために、これまでのメロディを脳内で再現するように、初手から指し手を再現する。そしてこれまでの流れから、「次はどう指すのが自然か」を考える。もし羽生さんが麻雀をやったら、ばりばりの流れ派になっただろう。ただし歴代棋士の中でも一、二を競うほどのデジタル脳にも恵まれているから、笑ってしまうくらい強くなったはずだ。

「直感は記憶から生まれます」。これはパターン認識の定義の一つといってもいい。だから雀士も、最低でも1万半荘くらい打つまでは、直感を重視しないほうがいいだろう。信頼するに足るパターン認識の蓄積が足りないからだ。

世の中には「1万時間の法則」と言われるものがある。どんな分野であれ、1万時間集中してやればプロになれるというものだ。この法則は麻雀にも当てはまるかもしれない。毎日10時間やれば、ざっと3年でクリアできる。半荘に1時間かかれば、1万半荘で1万時間。麻雀を始めて3年でプロ入りはたしかに夢ではない。

鉄壁保の言い分

名作『ノーマーク爆牌党』にこんなシーンがある。「麻雀に流れなどない」と言う相手に、鉄壁保が流れの存在を説明するシーンだ。


『ノーマーク爆牌党』片山まさゆき(竹書房)より




流れ派の「科学的な」言い分は、これに尽きるだろう。デジタル派も偏りの存在は認めるはずだ。だが「それを読み取ったり、法則化するのは人知のおよぶ所ではない。だからわれわれは、目の前の得することを積み重ねるしかない」と言うのがデジタル派の主張だろう。

デジタル派の主張は、だいたい似ている。だが流れ派のグラデーションは多様である。「なんとなく流れってありそう」くらいに思っているライト層もいれば、念じればツモ牌が変わると信じるディープ層もいる。初詣でかたちばかり手を合わせるだけの人と、箸の上げ下げまで信仰にしたがう人がいるようなものだ。


あなたは102号室に住めるか?

ではお前はどちらなのかと問われたら、私はこう答える。

「期待値こそ麻雀における神である、という園田賢の言い分は、最終的に正しいような気がします。もし百年後に完成した最強麻雀AI3台に囲まれたら、デジタル派はもちろん、どんな流れ派の雀士も勝てないと思うからです。だけど麻雀というゲームは複雑すぎます。人間の脳のスペックでは、正しい期待値計算には0.1%ほども辿りつけないでしょう。だから虚しい努力をつみかさねるよりは、流れとか経験則といったものに頼りながら、勝った負けたとやるほうが、豊かな麻雀ライフを送れるのではないでしょうか」

なんのことはない。私が敬愛する土田浩翔プロがつねづね言う、「どっちつかずが一番だめ」というやつだ。私が土田プロをリスペクトするのは、そのパターン認識が素晴らしいからだ「ここはペンチャンを外して、ゆったり構えたほうがいいんだけどなぁ」「あー、この7万は取っておいたほうが!」「この親番は連チャンしますよ」こんな解説が飛び出すと、だいたいその通りとなる。土田プロもまた優れた東洋医なのである。

ところで私はMリーグにおける「南家はデス席」を信じている。自分が選べるなら絶対にあの席には座りたくない。トータルで圧倒的に負け越している席だからだ。

しかし雀友のデジタル高見は、「デス席なんてある訳ないじゃないですか」と鼻で笑う。私はたとえ話で切りかえす。

「たとえばここにマンションがある。101 102 103 104号室はすべて空室だ。好きな部屋を選べるが、102号室だけは住人が2人続けて突然死した。だけど科学的な捜査では何も異常は見つからなかった。それでもなんの気持ち悪さも感じずに、102号室を借りられる?」

大昔の漢方医なら、「その部屋は気の流れが悪い」といって102号室を忌避するだろう。最近の「科学的」な漢方医なら、「その部屋にはきっとまだ科学では解明されていない磁場などの悪影響があるはずだ」と言って、やはり避けるだろう。あなたはどうするか。

最後に『神は数学者か』という書物を紹介しておきたい。これは宇宙のさまざまなことが、人類の発見した「数学」で説明できてしまうことに、根源的な疑問を抱いた人が書いた本だ。

数学なんて、しょせんは人類が勝手につくりだした記号体系に過ぎないはず。それなのに、なぜ天体の動きや、宇宙の物理法則が、すべて数学で説明できてしまうのか。ひょっとしたらわれわれは、神が宇宙を設計する際にもちいた計算体系を、本当に発見してしまったのかもしれない。そんなことが書いてある。

数学を信じることは、狂気でもある。われわれの数学が、宇宙的観点からみて、絶対に正しいとは言い切れないからだ。おそらくわれわれの数学がまったく通用しない宇宙空間がある可能性は高い。

しかし、あらゆる創作物や勝負ごとに狂気はつきものだ。それなくして傑作や名勝負はうまれない。だから私は「いちばんだめ」なマイルド流れ派として、園田やコバゴーの狂気を愛する者でもある。流れ派とデジタル派。どちらもいるからMリーグは面白いのだ。


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