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(第6話)心理の迷路 〜善意と狂気の境界〜【創作大賞2025ミステリー小説部門応募作】2024/07/31公開

第6話「表層の裏側」

梅雨明けを告げる蝉の声が響く朝、桜井由香は警視庁に向かっていた。事件発生から一週間が経ち、捜査は新たな局面を迎えようとしていた。

警視庁に到着すると、中村警部が由香を呼び止めた。
「桜井、田中美咲さんが新たな証言をしたいと言っている。彼女の話を聞いてほしい」

由香は頷き、取調室に向かった。そこには既に田中美咲が座っていた。彼女の表情には、何か重大な決意が見て取れた。

「田中さん、新たに話したいことがあるそうですね」

田中は深呼吸をして答えた。「はい...実は、支援グループ内の人間関係について、もっと詳しく話す必要があると思いました」

「具体的には、どのようなことでしょうか?」

「藤原さんと吉田さんの関係です。表面上は良好に見えましたが、実は深刻な対立がありました」

由香は眉をひそめた。これまでの証言では、吉田は常に中立的な立場を保っているように見えた。

「どのような対立だったのですか?」

田中は少し躊躇してから答えた。「藤原さんのDV被害者支援の方針に、吉田さんは強く反対していました。表向きは穏やかでしたが、私室では激しい口論を交わしていたんです」

由香は田中の言葉を慎重に聞きながら、これまでの吉田の態度を思い返していた。冷静で協力的に見えた吉田の姿が、別の色を帯びて見えてきた。

「その対立は、どの程度のものだったのでしょうか?」

「かなり深刻でした。一度、吉田さんが『あなたの方針は被害者を危険に晒している』と藤原さんを強く非難しているのを聞いたことがあります」

由香は田中の証言に、新たな疑問を感じた。これまで見えていなかった支援グループ内の複雑な人間関係が、徐々に浮かび上がってきた。

その後、由香は吉田理沙との面談を行った。

「吉田さん、藤原さんとの関係について、もう少し詳しく教えていただけますか?」

吉田は少し驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いた様子で答えた。
「私と藤原さんは、同じ目標に向かって働いていました。時には意見の相違もありましたが、それは建設的な議論だったと思います」

由香は吉田の表情を注意深く観察した。その穏やかな表情の裏に、何か隠されたものがあるように感じた。

「田中さんの証言によると、かなり激しい対立があったそうですが...」

吉田の表情が一瞬曇った。「田中さんがそう言ったんですか...確かに、時には激しい議論になることもありました。でも、それは互いの信念がぶつかり合っただけです」

由香は吉田の言葉に、何か違和感を覚えた。表面上の穏やかさと、田中の証言との間に大きな隔たりがある。

この時、由香は「表層演技」という概念を思い出した。人が自分の本当の感情を隠し、社会的に望ましい感情を表出する行為のことだ。吉田は、この表層演技を行っているのではないだろうか。

「吉田さん、藤原さんの支援方針について、本当はどう思っていたんですか?」

吉田は少し躊躇してから答えた。「...正直に言えば、彼女の方針には危険性を感じていました。でも、それは専門家として冷静に議論すべきことだと思っていたんです」

由香は吉田の言葉に、真実の一端を見た気がした。しかし、まだ全てが明らかになったわけではない。

その日の夜、由香は一人で事件の全容を整理していた。藤原と吉田の対立、田中の新たな証言、そして関係者たちの表層演技。これらの要素が複雑に絡み合い、真相を覆い隠しているようだ。

翌日、由香は中村警部に報告した。
「支援グループ内の人間関係が、予想以上に複雑だったようです。特に、藤原さんと吉田さんの対立が鍵を握っているかもしれません」

中村警部は腕を組んで考え込んだ。「なるほど。表面上の協調と、内面の対立か...」

由香は頷いた。「はい。そして、その対立が事件にどう関わっているのか、それを明らかにすることが次の課題です」

その後、由香は再び村上健太との面談を行った。

「村上さん、藤原さんと吉田さんの関係について、何か知っていることはありませんか?」

村上は少し戸惑った表情を見せた。「私はグループの外部の人間ですから、詳しくは...でも、一度、二人が激しく言い合っているのを聞いたことがあります」

「どんな内容でしたか?」

「藤原さんが『被害者の意思を尊重すべきだ』と言い、吉田さんが『それは無責任だ』と反論していました。かなり感情的なやり取りでした」

由香は村上の証言に、新たな疑念を感じた。これまで冷静に見えた吉田の姿が、別の角度から見えてきた。

事件の真相に近づくにつれ、由香は自身の中にも葛藤を感じ始めていた。表面上の協調と内面の対立、真実を追求することと関係者の心情に配慮すること。これらの相反する要素の間で、彼女自身も揺れ動いていた。

しかし、由香は決意を新たにした。この表層と本質の差こそが、真相への道しるべになるかもしれない。人間の複雑さの中にこそ、事件の核心が隠されているのだから。

真実はまだ闇の中。だが、由香は必ずやその闇を晴らし、光を当てて見せると心に誓った。

この話で登場した心理学の概念と新出用語:
表層演技(ひょうそうえんぎ):英語では "Surface Acting"。"Surface" は古フランス語の "surfais"(上面)に由来し、"Acting" はラテン語の "agere"(行動する)から来ている。人が自分の本当の感情を隠し、社会的に望ましい感情を表出する行為を指す。この話では、支援グループのメンバーたちが、表面上は協調的に振る舞いながら、内面では対立していた状況を表現するのに用いられた。

登場人物:
桜井由香(18歳):主人公。新人女性刑事。鋭い洞察力を持つ。
村上健太(40歳):容疑者の一人。藤原の元恋人でDV加害者。更生を望んでいる。
田中美咲(32歳):容疑者の一人。藤原と支援方針で対立していた同僚。新たな証言で事態が動く。
藤原美樹(35歳):被害者。DV被害者の自己決定権を重視するボランティアスタッフ。
吉田理沙(38歳):支援グループのカウンセラー。藤原との対立が明らかになる。
中村警部(50歳):由香の上司。ベテラン刑事。

#創作大賞2025   #ミステリー小説部門

第6話終わり
次は第7話

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