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昔話ぽつり、の話

母の認知症が散見しています。母には苦労ばかりかけました。張り合いが無くなったのですね。

少し亡くなった父の話をしたいと思います。
父は貧乏な寺の長男として生まれました。祖父は僧侶としては立派でしたが、父は祖父に愛されず、ネチネチと父に畳の目に米粒を擦り込む様な否定をしました。2人はやがて人目を憚らず法務のやり方でぶつかりました。台所でよく殴り合いの喧嘩をして、猿股一丁の祖父は下げられた食器の上に吹っ飛んでいました。

祖母はパニックになり、隣の家に逃げていきました。そして、隣のお父さんが「どっちが悪い」かというくだらない裁判に巻き込まれるという毎度の顛末。母方の祖父も、父の兄弟達も、電話で呼び出され、本当にくだらない事をこの親子はしていました。

祖父は私が中3の冬に亡くなり、父は祖父の子育てを真似ました。モデルケースがそれしか無かったのでしょう。「俺も殴られたから殴る」と私を良く殴りました。小学校の授業参観で手を上げて、目立とうとした私は、「俺に恥をかかせやがって」と隣室の襖まで吹っ飛ばされました。よく、本堂の物置にも閉じ込められました。

母は「子供に良くないから殴るな」と言って止めてくれてはいましたが、私は「自分は微塵も悪くない」と好きな事をしようとしました。よく時代小説を読み、漫画を読みました。

父と祖父を恐れた友達はだーれも我が家に遊びに来ません。だから、逆に他の友達の家に遊びに行きました。
友達の家は新鮮でした。優しい友達同士みたいなお母さん、ユニークなお父さん、私の家とは違いました。

祖父が亡くなった後は、父は少しずつ穏和になって行きましたが、役場の季節職員と寺の兼業で、ワープロの操作に手惑い、いつもイライラしていました。
父も母も、私を寺の跡継ぎに洗脳しようと必死でしたね。歯向かう事が出来なかった私は、嫌々、宗門の経営する短期大学部の仏教科に進みます。が、
大教室での授業に恐怖した私は必修科目を落とし留年、退学します。

父は開口一番「育て方に失敗した」「金を返せ」と怒鳴り散らし、
私は再び、今度は宗門の専門学校に入学する事になります。
そこは、卒業と同時に僧侶資格が取れる学校で、
私はその学校で人間として大事な事を学びました。また、父も卒業した学校でした。

コミュ障のメンタル病んだ坊主が1人、誕生しました。2000年の卒業式に父が来ました。嬉しかったようです。私も嬉しかった。笑っている父をこの頃よく見ました。

卒業式から10日経過した頃、父が倒れました。
良性の脳腫瘍でした。
手術は岩手大学からドクターがいらっしゃって、
成功しましたが、父は半身が麻痺し、喋る事も目を開ける事も出来ず、寝たきりになりました。
私が、最初にした事は、「父の美化」でした。
文字通り、私は寝たきりの父の頭部にフラットのオムツを敷き、シャンプーとお湯の入った容器を持って頭を洗いました。足も洗い、顔は化粧水でパックしました。歯も吸引機で唾液を吸いながら綺麗に洗いました。

そして、「父親像の美化」も行います。そうしないと憎悪で介護など出来ませんでした。
母と妹、妹の彼氏も協力してくれて、介護は続きます。12年前、地元の花火の日に父は亡くなりました。昨年13回忌を勤めました。
父が虐待し、愛情を注がなかった事を、恨みましたが、今はだから、こんな夫と結婚したのだなと納得しています。
成長出来たのも父への反骨精神故でした。

父に愛されたかった。寂しかった。
それが本音です。

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