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看守とおさらばしたい

 月に一度、私たち4年生は卒論ミーティングをします。長岡ゼミの卒論は、ゼミ生がそれぞれの越境活動をすることを通して、そこで出会った人との対話や出来事から生まれた等身大の気づきや問いをストーリーをエスノグラフィーとしてまとめていくものです。そのため越境活動先で起きたエピソードや、発見したこと、疑問に思っていることを指導教員である長岡先生とゼミ生で共有し、対話をしていく卒論ミーティングは、一ヶ月ごとに越境活動を振り返り、再び次の一ヶ月の活動へ飛び立っていくための、空港のような場です。

 7月5日、この日も大手町にあるサードプレイス、3×3 Lab Futureで、ひとりのゼミ生の活動を起点とした対話がありました。ゴミ拾いをすることを入口として、地域での人と人とのつながりを創るイベントに参加しているゼミ生の活動の話です。新しくお客さんがイベントに来るとき、その人にどうなってもらいたいか。という主催者としてのスタンスについての対話だったのですが、ゼミ生は「ひとまず誰かと繋がりたい。というカジュアルな目的だとしても来てくれたら嬉しい。」と話します。それに対し、「けど実際それでは環境課題は解決してないよね」「きっかけはカジュアルなものだとしても、そのあとも、その人にそのままでもいい。ということ?」と先生との対話が進みます。
 この話から派生し、自分が現在進めているカーボンニュートラルをテーマにしたラジオも、多くの人に刺さるものではなくとも、ひとりでもいいから聞いてほしい。と思っていたのですが、本当に環境の意識を普及させたいのであれば、「ひとりでもいい」というのは、違うのではないか。と先生から問われました。
 自分は、本当はたいして本気で思ってないんじゃないかー。
問題意識を持ち、それに対して誠実にアウトプットをしていく。そうありたい自分が、そうなり切れていない薄っぺらい自分に蓋をして、見て見ぬふりをしてきてたけれど、対話をすることで瘡蓋がはがされていくような痛みがありました。

 自分の興味や、関心のある等身大の出来事から出発して、「やりたいから、やってみる」というプロセスを繰り返していけば、自分の薄っぺらさを感じなくて済んだと思います。今回卒論ミーティングで感じた痛みは、「環境問題に取り組むことが良い」と思うことに対して、いつも他人事だったからかもしれません。今までも確かに熱心に活動をしてきたけれど、そこには、私自身が何をおいてもしたいこと、というような要素は、無かったと思います。そうすると、だんだん自分の中の満たされないものを誰かからの承認によって埋め合わせようとしたくなります。アドバイザーの方にいい顔をしたり、チームに八方美人の態度をしたり。ただ、そうやって誰かから認めてほしい自分は、他者に受け入れてもらいやすいことをするように自己検閲をはじめて、自分の中に看守が生まれていきました。誰かからの期待に応えようとしながらも、成長し飛び立つことを自分から避けてしまうような状況になっていくことに気づきました。満たされないものを誰かの承認で埋めるために、心の中に看守がいる状況は、外発的な動機付けで動いている状態と言えるかもしれません。これでは誰かの言われたことを確実に実行することはできても、いつまでたっても自分のエンジンで飛んでいる気持ちになれません。

 今は看守に見張られる、自己検閲するという関係から、看守の存在を認め、うまく付き合っていくことが精いっぱいかもしれません。けれど、ゆっくり時間をかけて、おさらばしていきたいです。もっと心はポジティブなものであるはずだと信じて。

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