『批評の意匠と哲学に憑いた幽霊』

 ひとを探求へと誘う奇妙な魅力を持つ言葉がある。その言葉が意味することははっきりとしないにも関わらず、なぜかそれに魅了され、その言葉の意味を探ることに憑かれてしまうような体験。そのような体験抜きには語れない言葉があるとすれば、ぼくにとっては東浩紀『存在論的、郵便的』の第一章タイトル「幽霊に憑かれた哲学」がそれだ。
 
 『存在論的、郵便的』を買ったのは冬に地下街で催されていた古本市だった。当時高二だったぼくは、サブカルチャー分析に関心があったため東浩紀を『動物化するポストモダン』の著者として知っていた。ちょうど『動物化するポストモダン』をおもしろく読んでいる最中だったので、というか、その時ほかに購入したい本がみつからなかったので、とにかく安いん(定価約二千円だが、そこでは千円で売られていた)だから買うんだと内容をほとんどみないままレジへ向かった。もしかしたら一度も本を開かずに買っていたかもしれない。 
 もちろん、当時のぼくは、東浩紀が浅田彰や柄谷行人の『批評空間』の系譜を引き継ぐ批評家あるいは哲学者としてデビューし、彼のデリダ研究の博論をまとめたこの『存在論的、郵便的』でそのキャリアを本格的にスタートさせ、やがて浅田や柄谷らの批評に限界を感じ、それを突破するべくサブカルチャーを主題的に扱った『動物化するポストモダン』が書かれていたことなど知りもしなかった。その意味で『存在論的、郵便的』との出会いはまったくの偶然だったといえる。 
 そのため少なくとも高三の五、六月ごろまでの長い間、『存在論的、郵便的』はぼくの部屋の片隅に追いやられ開かれないままでいた。それが、いつ、どんなきっかけで、開かれることになったのかは明確に思い出すことができない。ただ先述のタイトル、すなわち「幽霊に憑かれた哲学」に魅了されたのは、排便中の便器の上だったことだけははっきりと覚えている。当時のぼくには排便中に本を読む癖があったのだ。(今ではスマホをみるようになってしまったが...)  
 なぜこのタイトルに魅了されたのかは今でもよくわからない。当時のぼくが「幽霊」のメタファーを少しでも理解していたとは思えない。デリダに強い関心があったわけでもなければ、そもそも哲学に関心があったのかさえ怪しい。しかし、ともかくこのタイトルはぼくを魅了する奇妙な「謎かけ」として立ち現れた。 
 ぼくはこのタイトルに込められた意図を捉えるべく、すなわちこのタイトルにかけられた「謎かけ」を解くべく、『存在論的、郵便的』に留まらず東の他の著作も読んでいくうちに彼の文章に魅せられていき、彼のような文章を書きたいと思うようになった。 

  そこで高三の秋には高校生向けの哲学のコンクールに出場した。そこでは『存在論的、ほそ道的』という、松尾芭蕉の俳句を『存在論的、郵便的』の理論的パースペクティブ(詳細は述べることはできないが、たとえば「固有名」と「確定記述」の問題系など)を用いながら分析する哲学エッセイを提出した。もちろん、この哲学エッセイのタイトル,『存在論的、ほそ道的』は、『存在論的、郵便的』のオマージュである。ところで、この哲学エッセイの着想は2017年に出版された東の主著のひとつである『ゲンロン0 観光客の哲学』で提示された「観光客」のメタファーにあった。 
 ここでは紙幅の都合上、細かい議論は省略せざるを得ないが、『ゲンロン0 観光客の哲学』で東は、「観光客」を「特定の共同体にのみ属する「村人」でもなく、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体も訪れる」(★1)存在なのだと定義している。そして、そのような「観光客」的な存在こそが、世界中でナショナリズムの嵐が吹き荒れる一方でグローバリズムにより世界中が急速に均質化する二一世紀の政治思想を考える上での足場になるのだと主張している。東浩紀の本でお薦めを聞かれたら、ぼくは真っ先にこれを挙げる。 
 「村人」でもなければ「旅人」でもない第三の存在としての「観光客」。ぼくは、この図式を踏まえ、松尾芭蕉は一般に強い意志を持つ「旅人」ととしてのイメージが強いが、むしろ気ままな「観光客」のような人物として捉えるべきなのではないか。少なくとも、そのような捉え方により芭蕉をおもしろく読むことができるのではないか、と考えた。そして、このような着想のもとぼくは『存在論的、ほそ道的』を書きあげたのである。 
 正直、東浩紀のオマージュであるこの哲学エッセイが評価されるとは思ってもいなかった。けれども、予想に反し評価され銅賞を頂いた。休み時間に学校支給のiPadから受賞を確認し、喜びのあまり同級生の元に駆け寄り大声で自慢し、その夜、数少ないLINE友達に受賞報告のメッセージを送りつけたことは今でも鮮明に覚えている。むろん、今振り返ればこの哲学エッセイの弱点をいくらでも指摘できる。表現も拙ければ、問題意識も確立されていないばかりか、参照すべき東浩紀に実存的に共振するあまり、議論の収拾がつけられていない。というか、そもそも松尾芭蕉を「観光客」的な人物とみなせるのだとする学問的根拠は一切ない。    

 けれども、少なくとも当時のぼくには、この哲学エッセイを作品解釈を行う文章でもあれば哲学的議論を行う文章でもあり、またその両者を繋ぐ特殊な回路を模索する文章として書くのだという明確な意図があった。 
 おそらくこれは単なる個人的な自惚れに過ぎないだろうが、こうした意図は、先述の『ゲンロン0  観光客の哲学』と通底するものであるようにも思われる。というのも、東自身が『ゲンロン0 観光客の哲学』は、「カントやシュミットやネグリの読み直しからドストエフスキーの読解まで多岐にわたる議論を含」(★2)んだものであり「政治思想の本でもあれば文芸批評の本でもあり、また両方が切り離せないことを主張した本でもある」(★3)のだと紹介しているからである。 
 松尾芭蕉の読解と『存在論的、郵便的』は一見繋がりそうにない。普通に読めば、前者は日本文学で後者は西洋哲学の研究だ。けれども、多少強引にでも両者を繋げること。ぼくはそんなことを試みていた。 
 作品解釈と哲学的議論を、日本文学と西洋哲学の研究を、接続させる試みが評価されたという事実が当時のぼくにどれほど勇気を与えてくれたか、いくら強調してもしすぎることはない。この受賞がなければ、ぼくは批評家になろうとは思わなかっただろうし、哲学への意欲も失っていたかもしれない。その意味で審査員の方々には本当に感謝している。
 
  もちろん、『存在論的、郵便的』の議論を基盤にした哲学エッセイで賞をとったということが、ぼくが「幽霊に憑かれた哲学」の「謎かけ」から解放されたことを意味するわけではない。哲学エッセイを書いていたとき、ぼくは真剣に『存在論的、郵便的』を読んでいた。その経験が、哲学エッセイを書く上での土台となった。だが、結局「幽霊に憑かれた哲学」の「謎かけ」は解くことはできなかった。 
 けれども、いまならば『存在論的、郵便的』とは異なる角度から、「謎かけ」を解くための足場となる論点を荒削りではあるが取り出すことくらいならできるかもしれない。では、その論点とはなにか。 
 結論から先にいってしまえば、その足場とは、「東浩紀は批評家だ」ということである。もう少し丁寧にいえば、「東浩紀は批評家というバックグラウンドを持つ哲学者だ」ということでもある。ここで少なくない読者は「東浩紀は批評家だ」という記述は、東の属性を表したものにすぎず、「謎かけ」を解くための足場には到底ならないのではないかと考えるかもしれない。けれども、このような単純な事実の再確認こそが、「謎かけ」を解く鍵となるのである。  
 実際に東自身も自らが批評家であることを度々強調している。たとえば、先述の『ゲンロン0 観光客の哲学』は「批評家が書く哲学書」であると東自ら紹介している。(★4)とすると、たとえそれが哲学書であったとしても、常に「東浩紀は批評家だ」ということを意識していなければ、東の本を十分に読み解くことはできないということになる。 
 しかし、残念ながら今のぼくには、「批評家が書く哲学書」とそうでない哲学書の差異について語る力はない。けれども、それを考える足がかりを、たとえば『ゲンロン0 観光客の哲学』から取り出すことはできるかもしれない。 
 『ゲンロン0 観光客の哲学』は、それ以前に書かれた東の著書、『弱いつながり』の主張をアップデートすべく書かれた本でもある。『ゲンロン0 観光客の哲学』では、その『弱いつながり』の議論の本質が、その意匠のほうにあるのだと述べられている。どういうことだろうか。 
 東曰、『弱いつながり』の観光客論は柄谷行人の他者論や山口昌男の「中心ー周縁」図式から強い影響を受けている。(★5)だから、「『弱いつながり』は、その点では本質的に新しいものではない。(...)むしろ、哲学書としての『弱いつながり』の本質は、その新しくないテーマを新しいスタイルで語ったところ、つまりは本質ではない意匠のほうにあるのかもしれない。」(★6) 他者論を観光客論と言い換えること。その意匠に『弱いつながり』の本質がある。そして、『ゲンロン0 観光客の哲学』では、『弱いつながり』から話を一歩進め、観光客論と他者論の「ニュアンスの差異」を問題としている。 
 『ゲンロン0 観光客の哲学』において、その問題意識は次のように表現されている。「観光客論と他者論は、本質は同じかもしれない。しかしそれでも、「他者が大事だ」と主張するのと「観光客が大事だ」と主張するのとでは、ニュアンスは大きく異なる。そして本書は、まさにそのニュアンスの差異がいま重要だと考え、その差異の意味を理論的に基礎づけるべく書かれた本である。」(★7) 『弱いつながり』の本質は、観光客論という新しい意匠を導入したことにある。そして、『ゲンロン0 観光客の哲学』は、古い意匠=他者論と新しい意匠=観光客論、つまり新旧の意匠のニュアンスの差異こそを問題にしている。そして、それを東自身が「批評家が書く哲学書」だとしていることを踏まえれば、東は「本質」でない意匠に拘る批評家であるといえるかもしれない。というよりも、一見繋がりそうにないテーマを繋げることを批評だと定義するのであれば、むしろ、意匠に拘ることこそが批評家の絶対条件なのかもしれない。 
 一見繋がりそうにないテーマを繋げるためには、個々のテーマの深堀りだけでは不十分である。それだけでは、それらのテーマの繋がりを感じることができなくなる場合がある。だからこそ、「本質」から離れた意匠を使い、それらが繋がっていることを再確認する必要があるのだ。  

 ぼくは高校生のころから今まで、東の批評に憧れている。それは、意匠により種々のテーマを縦横無尽に論じる批評に憧れているということでもある。そんなぼくを見て、「お前は所詮、東浩紀の表層をまねているにすぎない」と嘲笑するひとがいるかもしれない。そしてその指摘はある意味では正しい。というのも、真実に辿り着くには、意匠、すなわち話し方に目を配り注意を向ける必要などないのだという考えが哲学の起源に埋め込まれているからである。 
 『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、その弁明中に、アテナイの市民に向かって「話し方はどうぞ気にしないでー下手かもしれないし、もしかしたら上手かもしれませんがー私が語っていることが正しいかどうか、そのことだけを検討し、そこに注意を向けてください。」(★8)と懇願している。もちろん、これは彼が敵対していたソフィストに対する反論である。ただ、その一方で、真実と話し方=意匠が切り離された瞬間であるとも読める。  
 真実に辿り着くにためには意匠に拘る必要などない。これがソクラテスの主張である。哲学の起源が真実から意匠が切り離された瞬間でもあるのだとすれば、東浩紀の批評は哲学的に無価値で、ぼくはそれに憧れていることになる。だから、ぼくを嘲笑するひとがいるのだとすれば、それは哲学的に正しいということになる。しかし、それは本当に正しいのだろうか。本当に、真実と意匠を完全に切り分けることができるのだろうか。 
 それを吟味するためには、ソクラテスがその裁判の原因となる探求をなぜ始めたのかを考える必要がある。ソクラテスは「だれもソクラテスより知恵のある者はいない」というアポロンの神託を聞き、その探求を始めることになる。(★9)ではなぜ、彼は、その神託を聞いた後に探求を始めたのか。それは一言でいってしまえば、彼には、「ソクラテスより知恵のある者はいない」という神託が何を言っているのかわからない「謎かけ」に思えたからである。「 神は、一体何をおっしゃっているのだろう。何の謎かけをしておられるのだろう。(...)そして長い間、神が一体何をいっておられるのか、困惑していました。そしてその後で、まったく気が重いながらも、神の意図をめぐって次のような探求へと向かったのです」(★10) 
 ソクラテスは、真実に辿り着くには意匠=話し方に拘る必要がないのだと主張した。けれども、その一方で当のソクラテス自身は、真実を「謎かけ」という遠回しな形で伝える(少なくとも神託を聞いた直後のソクラテスは「謎かけ」だと思った)神の意匠=話し方に駆動されるように探求を始めた。 
 このようなソクラテスの両義性を踏まえれば、たしかに、真実に辿り着くには意匠になど注意を向ける必要はないのかもしれないが、ある意匠がある個人を偶然に知的探求へと導いてしまうかもしれないのだから、その意味で意匠は重要なのだといえるだろう。だとすれば、意匠の効果は事後的に図られるものだともいえるかもしれない。   
 
 哲学の起源には意匠に偶然的に憑かれたソクラテスがいた。けれども、当のソクラテスは真実と意匠を切り離した。そのことを考えるとき、ぼくは、『存在論的、郵便的』の第一章の「哲学の歴史は固有名の集積である。そしてそれは偶然的かつ経験的に成立したものでありながら、必然的かつ超越論的に真理を語る。」(★11)という文章を想起せずにはいられない。哲学にはたまたま個人が意匠に憑かれ、知的探求を始める瞬間が必要不可欠である。けれども、その偶然の瞬間は抑圧され、必然の物語=哲学史へと回収されていく。 
 哲学には幽霊が憑いている。彼らはいるのかいないのかすら分からないという恐怖をわれわれに与える。それゆえ、彼らは抑圧されている。けれども、抑圧されたものは必ず再回帰する。だからこそ、幽霊を哲学の「本質」という抑圧から解放する必要がある。ぼくはそのために必要な道具のことを批評と呼んでいる。(了)

★1 東浩紀、『ゲンロン0 観光客の哲学』、ゲンロン、二〇一七年、一四頁。
★2 東浩紀、『テーマパーク化する地球』、ゲンロン、二〇一九年、一七三頁。
★3 同上
★4 『テーマパーク化する地球』、一七四頁。
★5 『ゲンロン0 観光客の哲学』、一四頁。
★6 同上、十五頁
★7 同上
★8 プラトン、『ソクラテスの弁明』納富信留訳、光文社、二〇一二年、一八頁。
★9 『岩波 哲学・思想事典』、岩波書店、一九九八年。「ソクラテス」の項目。執筆は今井知正。
★10 『ソクラテスの弁明』納富信留訳、三〇頁。
★11 東浩紀、『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』、新潮社、一九九八年、六六頁。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?