『ソクラテスの弁明』にみられるロゴスとアロゴスの関係性


①問いの設定

 

 本稿は、『ソクラテスの弁明』において、論理や対話に代表されるロゴス(理性)とそれに反する神霊や神託に代表されるアロゴス(非理性)の関係が、どのように描かれていたのかを明らかにすることを試みる。

 一般に、哲学はロゴスの営みであると理解されているように思われる。(注1)しかし、『ソクラテスの弁明』にも描かれているように、哲学の起源ともされるソクラテスは、デルフォイの神託やダイモーンに代表されるアロゴス的なものとも関係を持っている。その態度の不可解さは、メレトスの告発状に端的に表れている。「ソクラテスは不正を犯している。若者たちを堕落させ、かつ、ポリスが信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを信ずるがゆえに。」(注2)

 本稿は、「『ソクラテスの弁明』において、ロゴスとアロゴスの関係はどのように描かれていたのか」という問いを設定し、その問いに答える形式をとる。その上で、ここでは、ソクラテスのダイモーンへの態度とデルフォイの神託へのそれを分けて考える。そして、前者はロゴスによりアロゴスを肯定するものである一方、後者はロゴスによりアロゴスを疑うものだと結論付ける。

 最後に全体の流れを簡単に説明しておこう。次の第二章では、ソクラテスとダイモーンの関係を明らかにする。そして第三章では、ダイモーンに対するソクラテスの想像力が、批評家・福嶋亮太のいう「前史的想像力」であること説明する。その上で第四章では、ソクラテスのデルフォイの神託への態度を考察し、そこには「前史的想像力」に回収され得ないロゴスの使用法がみられることを主張する。最後に第五章では全体をまとめる。

 ロゴスとアロゴスは簡単な二項対立で捉えられるような関係ではない。後にみるように、アロゴスがロゴスの力で肯定されることもあれば、ロゴスがアロゴスにより駆動されることもあるのだ。本稿が、『ソクラテスの弁明』,ひいては哲学の中で、ロゴスとアロゴスが相互に影響し合い複雑な体系を構築しており、それ故に魅力的な哲学的問いを生み出し続けていることの一端を示すものになっていれば幸いである。


②ソクラテスのダイモーン


 ここではソクラテスのいうダイモーンについて考えたい。『ソクラテスの弁明』からロゴスとアロゴスの関係を考える上で、ダイモーンへと思考を巡らせることは必須条件であると思われる。というのも、第一章で引用したメレトスの告発にみられるように、ソクラテスはまさにダイモーンを信じているという理由で告発され、その告発に対し弁明するはめになっているからである。たしかにメレトスが「新奇な神霊」といっているように、このダイモーンには特殊な性格がみられる。ソクラテスは、その性格を次のように述べている。


「これは私には子供の頃から起こっているものでーなにか声が生じているのですがーそれが生じる時には、私がやろうとしていることを、その都度、しないように妨げ、やるように勧めるということはけっしてありません。」(注1)


 このように、ソクラテスのいうダイモーンは、なにかを為すように勧める神ではなく、「禁止だけを命じるものであった」(注2)。また、このダイモーンの声は、ソクラテスの欲求に対してではなく、「やろうとしていること」に対して発されているのである。(注3)こうしてみると、ますますソクラテスのいうダイモーンが「新奇な神霊」であるように思えてくるが、例えばソクラテスとダイモーンの関係の整理を行った田中龍山は、まさにこうしたダイモーンの特殊な性格故に、「「ダイモニオンに従う」ことと「ロゴスに従う」ことの両立可能性」(注4)が生じたとしている。どういうことだろうか。

 田中は「「ダイモニオンに従う」ことをしながら、ソクラテスの行為は、ふたつの局面で、「ロゴスに従う」ことが可能」(注5)になっていると述べている。ふたつの局面を順に説明しよう。

 まず第一の局面は、ダイモーンの声が、ソクラテスが「やろうとしている」ことに向けられている点である。これにより、ダイモーンの声が聞こえてくるより先に、ソクラテスは自らの行為をロゴスにより自ら決定する必要が生じる。ソクラテスのいうダイモーンは、なにかを「やるように勧める」ことは決してない。そのため、ソクラテスは自らが為すべき行動をロゴスによって判断しなければならないのである。そのため、田中のいうように「「ソクラテスが行おうとすること」に先立って、すでにロゴスによる判断があった」(注6)のである。

 次に第二の局面は、ダイモーンの声は「単なる「合図」」(注7)にすぎず、その行為を禁止する具体的理由を説明するものではないという点である。そのためソクラテスには、ダイモーンの声をきっかけにし、自らのロゴスによって禁止の理由を考えることが要請されるのである。 

 その様子は、ソクラテスが、「この声が、私がポリスの政治に関することを為すのに反対しているのです。まあ、そう反対するのは、まったく見事だと思いますが。」(注8)と述べている箇所に端的に表れているといえる。なぜならば、「なぜそれをやめるべきなのかに関して、ソクラテスはみずからのロゴス(理性・議論)によって納得した」(注9)からである。

 ソクラテスのいうダイモーンは、自らが命じた禁止の理由を具体的に説明しない。それ故に、ソクラテスは禁止の理由をロゴスによって納得する必要がある。田中は、こうした一連のダイモーンのあり方を「ダイモニオンはソクラテスにロゴスを働かせるきっかけとして作用していた」(注10)と評価している。

 田中の主張をまとめよう。田中の考えでは、ダイモーンの特殊な性格故、ソクラテスはアロゴスであるダイモーンに従うこととロゴスに従うことを矛盾なく両立させている。それは第一に、ソクラテスがロゴスにより自らの行為を決定した後に、ダイモーンの禁止があるためだった。そして第二に、ダイモーンは禁止をするだけでその具体的理由を説明しないため、ソクラテスは、自らのロゴスにより禁止の原因を考え納得する必要があるためだった。すなわち、ソクラテスは、ダイモーンの声を聞く前後でロゴスを働かさなければならないのだ。


③前史的想像力


 前章では、ソクラテスのいうダイモーンの特殊な性格を指摘したうえで、それ故にソクラテスの中でアロゴス(=ダイモーンの声)とロゴスが両立していたとする田中の主張を紹介した。本章では、まさにその田中の主張に対し、批評家・福嶋亮太が提出した「前史的想像力」という概念を用いて論駁することを試みる。

 本稿では、ソクラテスはダイモーンの声を聞く前後でロゴスを働かせなければならなかったとする田中の発見を前提とした上で、それ故にソクラテスの中でロゴスとアロゴスが両立していたとする彼の最終的な結論に論駁するという形を取る。結論から先にいってしまえば、ソクラテスとダイモーンの関係において、ソクラテスのロゴスはダイモーンの声を正当化するものでしかないのではないか、すなわち、ロゴスとアロゴスが両立しているというより、むしろロゴスがアロゴスに従属しているに過ぎないのではないか、というのが本稿の主張である。

 ここでは特に、ダイモーンの声を聞いた後のソクラテスのロゴスの働かせ方に着目する。ここにみられるロゴスの働かせ方は、福嶋が提出した前史的想像力そのものであるといってよい。では、前史的想像力とはなにか。

 福嶋は、前史的想像力とは「なぜそのような歴史が生まれたのかを問う」(注1)思考法一般を指すものであるとし、その例として『淮南子』にみられる「射陽説話」を挙げている。(注2)

 この神話は、太陽は一個しかないという条件を正当化するべく「謂われ」をくっつけたものである。どのような話なのか具体的に説明しよう。

 その神話によれば、もともと太陽は10個あり、それらが順番に昇っていたが、あるきっかけで順番が狂い10個の太陽全てが天に昇ってしまった。それにより、人々があまりの暑さに苦しんだため、人々を救うべく弓の名人がそのうち9個を打ち落としたので、太陽が今のように一個となったのである。

 この種の前史(起源)をいう神話は、今起こっている事象の起源をいう(太陽がなぜひとつなのか)と同時に、今起こっている事象が起こるべしく起こっている(他の太陽が打ち落とされたから)ことを確認し、それを説明するものである。この種の神話は、広くみられる神話の特徴を兼ね備えている。たとえば、ホルクハイマーとアドルノは、神話の特徴を次のように述べている。


「神話とは、報告し、名付け、起源を言おうとするものであった。しかしそれとともに神話は、叙述し、確認し、説明を与えようとした。」(注3)


 こうしてみれば、太陽や、生き物の形態や、共同体などの「ほとんど疑う余地なく現前している」(注4)存在がなぜそのように存在しているのかを、ある種の理論的体系をもって説明することが、前史的想像力(に駆動された神話)の役割だといえるだろう。(注5)

 それゆえ、前史的想像力からは、現在の在り方がこうでなくてああでもよかったというような、現在を相対化するロゴスのあり方を最初から排除されている。むしろ、この現在の在り方を肯定するためには、「前史的想像力は、物事の発端を書き換えて、自分の望む過去を描き出すこと」(注6)さえ厭わないのである。

 要するに前史的想像力とは、前史をいうことで、この現在の正当性を仮構し、それを疑似的に確認し説明することで、この現在の必然性を捏造する想像力である。そのため、この現在へと疑いを向けるタイプのロゴスの位相は、最初から排除されているのである。

 こうしてみれば、ダイモーンの禁止の原因を考え納得するソクラテスのロゴスの使用法は、前史的想像力であるといえるだろう。なぜならば、ソクラテスのロゴスは、ダイモーンの声が間違っている可能性を最初から排除し、その声を必然化するためにしか使用されていないからだ。

 そのため、ここには田中が主張するロゴスとアロゴスの両立可能性などない。禁止の原因を考えるソクラテスのロゴスには、アロゴス(ダイモーンの声)が正しいという無根拠な前提を正当化する原因を遡行的に仮構する役目しか与えられていないのである。


④デルフォイの神託

 

 ソクラテスとダイモーンとの関係において、ソクラテスのロゴスは、ダイモーンの声であるアロゴスを正当化するものでしかなかった。なぜならば、このロゴスは、アロゴスの正当性へと疑いを向けていないためである。

 では、ソクラテスのロゴスは、常にアロゴスに奉仕するものだったのだろうか。おそらくそうではない。そこで、本章では、同じくソクラテスがアロゴスに接触した場面、すなわちデルフォイの神託を受けた後のソクラテスのロゴスに着目することで、ダイモーンに対するロゴスとは異なるそれを示すことを試みる。

 デルフォイの神託とは、ソクラテス『より知者のある者はだれもいない』(注1)という巫女のお告げである。それを聞いたソクラテスは、困惑しながらも次のようにロゴスを働かせている。


「そして長い間、神が一体何を言っておられるのか、困惑していました。そしてその後で、まったく気が重いながらも次のような探求へと向かったのです。私は、知恵があると思われている人の一人を訪ねました。可能ならそこで神託を論駁して、神の託宣に対してこう示そうと思ったのです。「この人が、私より知恵のある者です。あなたは、わたしがそうだ、とおしゃっていたのですが」」(注2)


 一般にソクラテスの探求の契機として紹介される箇所だが、本稿の文脈で特に重要なのは、ソクラテスが、デルフォイの神託に対しては論駁を試みていたという点である。

 ここには、アロゴスを無根拠な前提として置き、その前提を支えようとする前史的想像力とは異なるロゴスが表されているといえる。むしろ、ここに示されたロゴスは、アロゴスそのものを疑うものであるともいえるかもしれない。

 だとすれば、もはやソクラテスは、ダイモーンの声を聞いた時のように、アロゴスを自明の前提としそれを必然化するような自己完結したロゴスを働かせることはできない。自己を他者に開き(問答法)、自らのロゴスによってそのロゴスの根拠を構築していくしかないのである。

 ソクラテスとデルフォイの神託においては、アロゴスを否定しようとする動機が、ロゴスを駆動するという関係が見られた。ここでは、アロゴスの地位はロゴスの駆動条件に下がっており、先のダイモーンとの関係でみたような、ロゴスがアロゴスを奉仕するという立ち位置と丁度逆になっていることが指摘できよう。


⑤まとめ


 そもそも本稿は、「『ソクラテスの弁明』において、ロゴスとアロゴスの関係はどのように描かれていたのか」という問いに答えるべく書かれていた。そこで、ここでは、この問いに答えることでまとめに変えたい。

 『ソクラテスの弁明』においては、ロゴスとアロゴスの少なくとも二つの関係が描かれていた。

 第一に第二、三章で明らかにした、アロゴスに奉仕するロゴスという関係であった。これは、ダイモーンの声とソクラテスのロゴスの関係から見出したものであった。また、アロゴスに奉仕するロゴスとは、第三章で指摘したように福嶋亮太のいう「前史的想像力」とも言い換えられる。

 第二に第四章で明らかにした、アロゴスを否定するロゴスという関係であった。ここでは、アロゴスがロゴスの駆動条件となっているということもできる。これは、デルフォイの神託とソクラテスのロゴスの関係から見出したものであった。そして、第四章でも指摘したように、ソクラテスの探求は、アロゴスによるロゴスの根拠付けが不可能になった地点から始まったのだった。

 以上、『ソクラテスの弁明』に描かれたロゴスとアロゴスの関係の一端を明らかにした。本稿が、ロゴスとアロゴスの関係を考える上での一助になれば幸いである。今後は、なぜプラトンは、かくも複雑なロゴスとアロゴスの関係を描かなければならなかったのかを他の対話編にも目を配りながら明らかにしたい。(了)


脚注

①問いの設定

注1) 田中龍山、『ソクラテスのダイモニオンについてー神霊に憑かれた哲学者』、晃洋書房、2019、はじめに参照。

注2) プラトン、『ソクラテスの弁明』納富信留訳、光文社古典新訳文庫、2012、41頁。(尚、本稿の『ソクラテスの弁明』の引用は、全て光文社古典新訳文庫版)


②ソクラテスのダイモーン

注1) 『ソクラテスの弁明』、67-68頁。

注2) 『ソクラテスのダイモニオンについて』、28頁。

注3) 同上、36頁参照。

注4) 同上、35頁。

注5) 同上。

注6) 同上、36頁。

注7) 同上、37頁。

注8) 『ソクラテスの弁明』、68頁。

注9) 『ソクラテスのダイモニオンについて』、37頁。

注10) 同上。


③前史的想像力

注1) 福嶋亮太、『神話が考えるーネットワーク社会の文化論』、青土社、2010、102頁。

注2) 同上参照。

注3) ホルクハイマー&アドルノ、『啓蒙の弁証法ー哲学的断想』徳永恂訳、2007、30頁。

注4) 『神話が考える』、102頁。

注5) ホルクハイマーとアドルノは、神話の中に理論的なものとらえ方、すなわちロゴスの萌芽を見出している。「早くから神話は報告から教説になった。どんな儀礼にも、事象についてのある観念、つまり呪術によって左右されるべき特定の過程についての観念、が含まれている。儀礼の持つこういう理論的要素は、諸民族のごく初期の叙事詩のうちで独立した。悲劇作者たちが目のあたりにしていた神話には、すでにベーコンが目的として讃美したあの学問と力の徴があらわれている。」(『啓蒙の弁証法』、30-31頁。)

注6) 『神話が考える』、103頁。


④デルフォイの神託

注1) 『ソクラテスの弁明』、29頁。

注2) 同上、30-31頁。



 








 

 


 






 


 

 

 

 

 

 


 
















 


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