ぼくがカリスマ批評家になるまで日記1

 大学にも慣れてきたので現状報告的な日記でも書こうかなと思ったので、なんとなく書きます。

 最近のぼくはといえば、入学早々フランス語を落とし、発表原稿はその日の朝に作り徹夜で発表するという、まあまあに終わった典型的な私文大学生をやっています。ただまあ、ぼくが最も影響を受けた批評家・東浩紀について発表することになっているので、それは頑張りたいと思ってます。  
 思い返せば、ぼくはカリスマ批評家になりたいといいつつ、完成した批評を一度も書き上げていません。なので、先ほどの東浩紀の発表に加筆修正したものが、ぼくの最初の批評となるはずです。今は東浩紀を読み直したり、柄谷行人を読んだりしています。『ゲンロン0』についての批評となるはずなので、興味のある方は是非。 
 そういうこともあり、最近は批評のことしか考えていないわけですが、こうなってくるとまあ、人はおかしくなってくるものです。そこで、愚痴というか意気込みというか、要するに情念というかをここでぶつけたい。そんな感じでいくので、今回は注も引用(今日「すばるクリティーク受賞作」を読んで思ったんですが、ぼくの文章って意外と引用多いんですかね?)もなければ中身もない、妄想垂れ流しでいこうかなと思います。 
 じゃあ、なぜぼくが情念をこんなにも溜め込んでいるのか。それは、一言でいえば、ぼくの所属している学科(哲学科)の中では、批評があまり評価されないからです。というか、狭義の批評(「日本の批評」といったときに想起される小林秀雄以来の思弁的文章)について知らない/興味ない人も多い。彼らの中では、批評とかをやるよりも難しい哲学書を一語一句丁寧に読んでいくことこそが、最も頭がいい行為なのでしょう。だから、端的にいうと、批評をやってるぼくはそんなに頭がいいとみなされていないわけです。(あえて過剰にいっているだけで、基本的にみんな優しいです。) 
 まあ、これは当たり前といえば当たり前な話で、哲学科なのだから哲学マニアが多いことはなんらおかしなことではありません。にもかかわらず、最近までのぼくは、大学の人たちは批評をバカにしているのだと思い込んでいたわけです。そして、なんとかして、この状況を変えなければならないとまで思っていた。もの凄い被害妄想力です。 
 しかし、それが被害妄想だと気づいたとしても、批評の話が通じないという問題は解決しません。なので、まあその問題は半分あきらめることにして、それについて悩んでるなかで考え始めたことを書きます。では、それはなにか。 
 結論からいってしまえば、それは、「なぜ、ぼくは批評に惹かれてしまったのだろうか。あるいは、なぜ批評は少なからぬ読者を獲得してしまったのだろうか。」ということです。東浩紀論では『ゲンロン0』を梃子にして、こういった問題について間接的にアプローチしたいとも思っています。それはさておき、「なぜ批評に惹かれるのか」というようなことを考え始めたのでしょう。 
 それは、一言でいえば、そもそも批評に価値がないことに気づいたからです。先ほどもいったように、基本的に哲学科の人々は哲学マニアであり批評を愛しているわけではない。だからこそ、彼らに批評を説明する際には、まず批評の価値を説明しなければならないのです。ひとは、自分が真面目に取り組むべきものではないと判断したものに真面目に取り組んでいる人間をみるとバカにする生き物です。。。 
 宇野常寛のいうように、この世界がバトル・ロワイヤル系であるならば、バカにされないためにも、ぼくは批評の価値を擁護しなければならない。しかし、改めて考えてみると批評の価値を説明するのは驚くほど難しいことに気づきます。 
 特に日本でガラパゴス的に発達した(している?)とされる狭義の批評は、ジャーナリズムに属するわけでもなく、アカデミズムに属するわけでもない奇妙な文化です。だとすれば、批評は、新しい情報を提供するもの(ジャーナリズム)でもなく、学術的発見に寄与するもの(アカデミズム)でもないという結論にならざるをえない。だから、批評の価値をいうことは難しいのです。  
 もちろん、このようなタイプの批評の価値を巡る議論は、珍しいものでなく、至るところで展開されていることは知っています。にもかかわらず、ぼくが、批評の意味に拘るのは、それが自分の問題として、すなわち柄谷行人の言葉を借りるならば、「この」私の問題として降りかかってきたからに他なりません。要は、今まで抽象的で他人事だと思っていた問題が、具体的な自分事になってしまったということです。 
 批評の価値をいうのは原理的に難しく、更にそれは「この」ぼく自身の問題となりつつある。では、ぼくはこのまま、哲学マニア達に蔑まれ続ければならないのでしょうか。なんとか、この不毛なバトル・ロワイヤルから逃げ切る戦略はないのでしょうか。(何度もいいますが、基本的に大学の人達はいい人だと思われます) 
 今のところ、ぼくの考え得る最も有効な戦略は、批評の価値の問題をむしろ徹底的に「この」私の問題として捉えるふりをするという戦略です。つまり、君たちには無意味な問題に思えるかもしれないが、「この」ぼくにとっては大きな問題なんだ、だからその意味で「この」ぼくにとっては考える価値があるのだと、嘘でもいいからいうのです。こうすれば、ひとはなにもいえなくなる。それどころか、批評の困難にひとりで立ち向かっている(ようにみえる)孤独な態度は、どこか文学青年的でロマン的な印象をも与えるかもしれません。 
 しかし、やはりそれは「嘘」でしかない。批評の価値の問題は「この」ぼくの問題でしかなく君たちには関係ない、だから放っておいてくれと叫ぶつもりにはどうしてもなれない。なぜかぼくは、批評の価値の問題を「この」ぼくの問題に回収しきることに違和感を覚えてしまうのです。それは、おそらく、ぼくが批評を好きになったきっかけが「ゲンロン0」との出会いであったからに他なりません。 
 「ゲンロン0」は、観光という「みんな」がしていることについて考えることで、十代のころに哲学的書物を読みながら「この」私について考えていた柄谷の「他者論」(「探求Ⅱ」)を更新しようと試みた本だともいえます。(ちなみに最初の宣言通り注はいれませんが、「ゲンロン0」が柄谷の「他者論」の更新を企図するものである旨は本文中に記されています) 
 そうなってくると、批評の価値について考えることを、単純に「この」ぼくの問題なのだと居直ることはできない。けれども、もちろん、批評の価値を素朴に信じることもできない。だからそのふたつの隘路にアクセスすることでしか、つまり観光客について語る「ゲンロン0」に出会った過去の自分の体験を再解釈することでしか、ぼくは批評の価値について考えることができないのです。 
 発表の準備に取り掛かっていたら、こんな情念というか謎テンションが渦巻きはじめてきました。冒頭にもいった通りおそらくぼくはおかしくなっているわけですが(朝の5:30にnoteを書いているのだから)、批評の価値を素朴に主張することも、批評の価値の問題を「この」私だけの問題にしてしまうことを封じられ、その隘路を探すとなるとこんな風になりますよね、普通・・・。 という感じの、愚痴というか日記というかなにかでした!
 
 ここでいっていた批評の価値の話に触れるかはまだ分かりませんが、とにかく、七夕までにはぼくの東浩紀論がなんらかの形で出ると思うので、ぜひ読んでください。(了)

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