ソフィスト!アゴーン!古代哲学!


※本稿は大学のレポートを加筆修正したものである

課題1:ソフィストについてまとめる
 
 ソフィストとは、前五世紀頃の民主主義的な国家であるアテナイを中心に現れた職業知識人である。代表的な人物として、ゴルギアスや人間尺度説を唱えたプロタゴラスがいる。

 言論の力が政治的影響力を獲得していく中で、彼らは主に青年に弁論術を教えることで金銭を得ていた。弁論術は相手を説得することに重点を置くため、「自分が真実だと確信していることを語ることでもなく(中略)相手に応じて異なることを、時には正反対のことを、説得する」(注1)必要がある。そのため、ソフィストの立場は相対主義へと接近していくことになる。荻野弘之が指摘するように、こうしたソフィストの態度は、真理の探求を第一目標とする「ソクラテスの重視したような、一対一でなされ、十分時間をかけた、一問一答でなされる対話問答(ディアレクティケー)とは対照的である」(注2)と、とりあえずは言える。しかし、ソフィストを評価する上で、今日のソフィスト観が彼らを否定的に描いたプラトンのそれに大きく規定されていることを忘れてはならない。

 今日、ソフィストの作品は殆ど残っていない。納富信留は、その原因として、不敬神で訴えられ焚書された等の「批判による抑圧」や語ることを重視するソフィストにとって「「書くこと」が二次的な作業に過ぎなかった」(注3)点が挙げられるとしている。そのため、ソフィストの活動や思想を理解するうえで、「プラトン対話編は単に欠かすことのできない資料というだけでなく、多くの事柄に関してまさに唯一の証言と言ってもよい典拠」(注4)なのだ。しかし、納富がいうように、プラトン対話編は「強烈な批判の意図を明瞭に抱いてソフィストを描いている」ため、「プラトンの目をつうじてソフィスト見ること自体が、大きな問題をはらんでいる」(注5)のである。今日ソフィストを考える際には、ソフィストの思想を直接掴むことは難しく、彼らを批判的に描いたプラトンのソフィスト像から間接的に掴まざるを得ないという条件に留意せねばならない。

 プラトンは、ソフィストを「非哲学者」であると強烈に批判し、それと対照的に哲学者ソクラテスを描いている。しかし、荻野がいうように、そもそもソクラテスが告発され処刑されたのは「アテナイの一部の人たちによって悪質なソフィストだとみなされ、危険な人物と考えられていたから」(注6)であり、ソフィストとソクラテスを対比的に捉えることは自明の前提ではない。「ソフィスト(非哲学者)vsソクラテス(哲学者)」という構図は、プラトンにより事後的に仮構されたものなのである。納富は、ここには、「「哲学者」(フィロソフォス)という生き方が真理の探求者として成立する契機を、「ソフィストではない」という仕方で追求」(注7)しようとするプラトンの戦略があるとしている。つまり、ソフィスト的ではないという形式で哲学を否定神学的に定義するためにこそ、プラトンは「ソフィストvsソクラテス」という構図をつくりだしたのである。
 
 もちろん今日では、こうしたプラトンの否定的なソフィスト観は批判されてもいる。たとえば、自然の探求から人間の思索に目を向けさせたという功績から啓蒙家として評価される場合や、納富によれば「コミニケーション理論としてのレトリックの意義が真剣に取り上げられ、その歴史的源としてソフィストが取り上げられる」(注8)場合もあるという。ただ、プラトンのソフィスト観を痛烈に批判した人物として真っ先に想起されるべきはやはりニーチェであろう。

 ニーチェは、ソクラテス・プラトン以来の知性主義を根底とする西洋哲学を批判する中で、ソフィストを「反哲学」を体現するものとして称揚している。ただここで注意すべきなのは、ニーチェは、プラトンの提出した「ソフィストvsソクラテス」の構図を否定するのではなく、あくまでもその構図を前提とした上で評価を逆転させるという戦略を取っていたということである。(注9)すなわち、ソクラテスに対してソフィストを劣位に置くプラトンに対し、ニーチェはソクラテスを否定しソフィストを称揚するという態度で挑んだのである。そのため、「ソフィストvsソクラテス」という構図そのものは、ニーチェにより温存され強化されているともいえる。

 こうしてみると、ソフィストを肯定するにせよ否定するにせよ、今日においてもプラトンが事後的につくりだした「ソフィストvsソクラテス」の構図は、ソフィストを評価する上での重要な指針であるばかりか、今日の哲学観そのものにまで大きな影響を与えていることが分かる。このように捉えてみると、プラトンこそが最大のソフィストなのではないかとも思えてくる。プラトンは、ソフィストの持っていた技術や政治的・文化的影響力を換骨奪胎することで、哲学という営みの確立を試みたのである。(了)


課題2:初期ギリシア哲学を評価する
 
 ある競技(アゴーン)が展開されている時、そこには必ずといっていいほど(審判を含めた)観客がいる。では、初期ギリシア哲学において、「哲学」というアゴーンの観客はどんな役割を果たしていたのだろうか。
 
 初期ギリシア哲学の性格とギリシア人の持っていたアゴーン(競技)の精神には一定の関係性があるといってよい。たとえば、荻野弘之は「ギリシア哲学の「論理性」を成立させた要素」の一つとして、「競技(アゴーン)の精神」を挙げている。(注1)競作形式をとった古典演劇や弁論大会などは、「それぞれ優れた芸技を持つ人々が自由に競い合って、人間のもつ潜在的な能力を引き出し、そこに人間の可能性と素晴らしさを発見」させる役割を担っていたのだし、「ソフィストや弁論家に格好の活躍の場を提供」していたのだった。(注2)アゴーンの精神がソフィストらの活躍を後押ししたという直接的な関係があるばかりか、万物の根源を競って探求していた姿にアゴーンの精神の間接的な影響をみることも難しくない。

 だとすれば、「哲学」というアゴーンを見ていた観客はどんな役割を果たしていたのだろうか。その役割を考えることは極めて重要である。なぜならば、競技がある競技として同一性を保つには、観客の存在が不可欠だからである。東浩紀は、「子どもたちの遊びにルールはない。鬼ごっこがかくれんぼに変わるかもしれないし、かくれんぼは缶けりに変わるかもしれない。そして、プレイヤー=子どもたちが飽きたらそこでゲーム=遊びは終わり」だとし、プレイヤーしかいない子どもの遊び=ゲームに同一性が欠けていると指摘した上で、「プレイヤーはいつでもゲームのルールを変えることができる。だからゲームはゲームとして安定しない。それは裏を返せば、ゲームがゲームとして安定して存在するためには、かならずプレイヤー以外の第三者、すなわち観客が必要になることを意味している。観客はプレイヤーがルールを恣意的に変えることは許さないし、唐突にゲームを終えることも許さない。観客こそが、プレイヤーの快楽とはべつに、ゲームの同一性を作り出し支える」(注3)といい、プレイヤーと観客との緊張関係こそがゲームの同一性を生じさせているのだと主張している。この東の主張を敷衍すると、アゴーンをする競技者たちのゲームからの逸脱を厳しく監視し、同一の競技をするように仕向ける役割を果たしていたのが観客だといえよう。

 しかし、「哲学」というアゴーンがどのような観客を生んでいたのかを知ることは極めて難しい。そこには、文献があまり残っていないという時代的要因やソフィストやソクラテスといった「競技者」に魅了されるあまり、誰もが「競技者」になりたいという欲望を抱いたため観客の重要性があまり自覚されなかったという要因があるのかもしれない。もちろん、こうした事実は観客の重要性を些かも下げるものではない。

 このように初期ギリシア哲学における「アゴーン」と観客の関係を考えてみると、私たちは無闇に「哲学をする」ことを試みるのではなく、「哲学を観る」ことを重視しなければならないように思えてくる。否定的な提案に聞こえるだろうか?そうであれば、あなたはまだ観客の重要性に気づいていない。観客はアゴーンを観てその感想をボソボソと喋ることができるし、アゴーンを記録することもできる。「哲学」というアゴーンが展開されている競技場は、多様な観客に考える時間を与える場でもあるのだ。(了)


脚注

課題1
注1 『岩波 哲学・思想事典』、岩波書店、1998年。「ソフィスト」の項目。執筆は天野正幸。
注2 荻野弘之『哲学の原風景ー古代ギリシアの知恵と言葉』、NHKライブラリー、1999年、162頁。
注3 納富信留『ソフィストとは誰か?』、ちくま学芸文庫、2015年、28、31頁。 
注4 同上、22頁。
注5 同上、23頁。
注6 荻野弘之『哲学の原風景』、168頁。
注7 納富信留『ソフィストとは誰か?』、341頁。
注8 同上、36頁。 
注9 ニーチェは『権力への意志』の中で、ソクラテス以来のギリシア哲学者を「反ギリシア的本能」「デカダンスの症候」であるとする一方、ソフィストを「ギリシア的」であるとしており、ソクラテスとソフィストを対比的に捉えている。「ソクラテス以後のギリシア哲学者たちの出現はデカダンスの症候である。反ギリシア的本能が上位をしめる・・・「ソフィスト」はまったくギリシア的である。(中略)さまざまの起源をもった善悪が混合しあい、善と悪との間は消滅する・・・これが「ソフィスト」である・・・これに対して「哲学者」は反動である。彼は古い徳を欲するからである。彼は堕落の根拠を制度の堕落のうちにみとめ、古い制度を欲する。」(ニーチェ『権力への意志 上』427、原佑訳、ちくま学芸文庫、1993年、413頁。)
課題2
注1 荻野弘之『哲学の原風景』、171頁。
注2 同上
注3 東浩紀『テーマパーク化する地球』、ゲンロン、2019年、270-271頁。



 

 

 


 

 


 











 

 


 


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