見出し画像

崩壊3rdの開かれた「解釈」へ向けて ~崩壊3rdは何に対する「愛の物語」なのか?~

はじめに


崩壊3rdのプレイヤーというコミュニティに属する中で、一つ自分の中のモヤモヤとして残っていたものがあります。
崩壊3rdと崩壊:スターレイルにおける結びつきに関して、時折議論が紛糾することがあります。
(最近ですと、黄泉とヴェルトの関係など)

筆者は人文学、特に哲学を専攻していましたが、人文学は非常に広い分野をその考察の対象としています。
その一つとして、「解釈」というものはどのようなものかということも人文学における考察対象となります。
「解釈」が持つ役割は古くから聖書のテキスト解釈等で重視されていましたが、特に現代においては文学や芸術等の解釈に関する解釈論(いわば「メタ解釈」)がとても活発に行われています。
一方で、崩壊3rdという物語を解釈するにあたって、「解釈」というものそれ自体が何であるかがほとんど意識されないこと、もしくは個々人の独自の解釈観で解釈が行われているということも感じています。
崩壊3rdはゲームであり娯楽であるため、そういった個々人の経験による解釈を行うことが否定されてはいけません。しかし、解釈とは何であるかということが一面的にしか認識されていない状態が、不毛な議論を呼んでいるとも思っています。

上記の点をふまえた上で、「解釈」とは作者の意図、もしくは表現の意図を読み解いたり深堀りしたりするだけではなく、作者とは別個に読者(プレイヤー)が作品と相互作用を行い、その解釈を深めていくこともできることを確認したいと思います。
また、「解釈」とは原理的に無限の解釈のありようがあり、それらの解釈において貴賤もなければお互いに排除し合うものでもないことについても確認したいと思います。
そして実際に、そのような解釈のありようが新たにどのような解釈を産み出すことができるかについて、『卒業旅行』という具体的なテーマをもとに分析を提出したいと思います。

この記事ではまずパート1として、解釈に関する「テクスト論」と呼ばれる立場について解説し、「作者の意図」や「作品の設定」に従ったり読み解く解釈とは別の解釈の仕方があること、そしてその解釈の仕方がどのようなものであるかについて説明します。
そしてパート2として、テクスト論の立場を踏まえたうえで、『卒業旅行』のPVに関して分析を行います。

なお、この記事自体はパート1のテクスト論に関する説明とパート2の『卒業旅行』の分析が(一応)独立であるため、パート1を読んでいて「これよく分からんな」もしくは「これ気に入らんな」と思ったらそこを飛ばしてパート2へ進んでも大丈夫です。 
(個人的にはパート1の方に比重を置いているので、パート1についても読んでいただけるととても嬉しいですが)

注:
この記事はこれまでの解説記事とは異なり、「解釈」というものそれ自体について考察した上で、その内容を『卒業旅行』の解釈へ活かすという内容になっています。
その都合上、非常に記述が固くなったり難解になる場合があります。
出来る限り分かりやすく書くつもりではありますが、不明点等ございましたら質問や筆者のTwitterアカウント(@johnhenry_16)までお気軽にお知らせいただけると幸いです。
その内容を踏まえて、こちらの記事に加筆修正を行いたいと思います。

この記事の目的:
・「解釈」というもの自体は非常に多くの可能性をもっており、原理的には無限の解釈がありうる。
・異なる解釈に対して、その解釈の間での貴賤は存在しない。
・物語の「作者」が提示した設定に関して、それを受け取るかどうかは読者に委ねられる。
・物語の「作者の意図」を読み取ろうとする解釈も解釈の一つとして存在しうるが、「作者の意図」を読み取らない解釈も存在しうる。
・「解釈」というものをより広く捉えたうえで、『卒業旅行』に対する新しい解釈を試みる。

なお、この記事では「作者」「読者」という用語が出てきますが、これらは崩壊3rdに関する記述の場合、それぞれ「HoYoverse運営(もしくはシナリオライター)」、「プレイヤー」のことを指すと考えていただいて構いません。


パート1:テクスト論について

ここではまず、「テクスト論」と呼ばれるものの立場がどのようなものであるかについての素描を行います。
このパートの内容をまとめると下記のようになります。

「自然な」解釈
 ~解釈を「自然」たらしめているのは誰/何なのか?~

一般的に「解釈」という行為が行われているとき、その解釈には(基準は何なのか?と聞かれるとよく分からないけど)優れているものがあるように感じられます。そういった解釈にはどのような性質があるでしょうか?

一般的な「よい解釈」は、その解釈が作品の世界観を上手く反映していること、キャラの性格からすれば自然な行動になっていること、作品に対して新たな視点を提示すること、解釈によって多くの事物を説明できていること、などが挙げられるでしょう。
また「自然な解釈」とは、「作品の設定に従っている」かつ「多くの人が肯定できる」解釈であるとも考えることができます。
しかし今回の記事では、そういった「よい解釈」「自然な解釈」とは異なる方向性を目指します。
こういった暗黙の前提などを掘り崩し、新たな可能性を開いていくことは「脱構築」と呼ばれることがあります。
例えれば脱構築は、建物を建てるために作られた土台を一度掘り崩し、また新たに土台を作ることだと言うことができます。
土台を作るということは、その土台の上にしか建物を建てられないこと、つまり建物の範囲を制限することでもあります。
脱構築はそういった解釈の可能性を(暗黙のうちに)制限してしまっているものを取り除き、解釈の可能性をより広げるものであるということができます。

例えばですが、『卒業旅行』のPVにおいて列車に乗っていた律者たちについて、様々な解釈をすることができます。
特に「列車に乗っていた律者たちは悪役の役割を課されていた」という解釈を提示いただいたことがあります。これが自然な解釈であり、かつよい解釈であることは疑いないでしょう。
しかし、そういった「自然でよい解釈」と、「作品の前提を掘り崩す解釈」は衝突するわけではありません。一つの物語に対して複数の解釈がありうるように、一つの場面に対しても複数の解釈がありえます。

逆に、列車に乗っていない律者について考えてみましょう。列車に乗っていない律者として、ウェンディおよびアナ・陳天武を挙げることができます。
しかし、それ以外に重要な律者が乗っていないことに気づいたでしょうか?

空の律者は列車に乗っていません。

「空の律者はエレベーターで上がる際の演出として使われているので、列車に乗っている演出には使えない」「ウェンディはかなり昔のキャラなので、出すとノイズになってしまう」というのは百も承知です。
ここでの解釈は、そういった大人の事情や演出上の事情というのを考慮の外に置き、完成された一つの「作品」をどう解釈するのかという点に重心を置いています。

解釈と「モデル」
 ~作品内の文章を、誰が真にするのか?~

ここで世界観の構築に関して、数理論理学における「モデル」の概念を援用して論じたいと思います。
数理論理学における「モデル」とは、一口に言えば「ある一連の文章を真とするもの」だと言えます。また、言い換えれば「ある一連の文章と矛盾しないもの」だとも言えます。
と書いても何を言っているのかという話なので、下記の例を挙げます。

・キアナは雨が降っている場所にいる。
・キアナは傘をさしている。

この時、上の二つの文章を満たす世界は、全て(上の二つの文章の)モデルだと言えます。
例えばここで、キアナがいるのが天穹市であっても、聖フレイヤ学園であっても構いません。また、キアナの隣に芽衣先輩がいてもいなくてもかまいません。
雨が降っていてキアナが傘をさしているなら、それらも全てモデルとなります。
なぜなら、「キアナは雨が降っている場所にいる」と「キアナは傘をさしている」のどちらの文章も満たされているからです。

モデルに関する例を与えたうえで、その対象を上記のような二つの文章から、崩壊3rdという作品世界全体に広げてみましょう。
崩壊3rdにはいくつもの文章があります。また、物語を記述するための文章も当然あります。例えば人物の会話、モノローグ、資料などが挙げられるでしょう。
作品の「自然な」解釈としては、物語中にある文章全て(登場人物の会話等も含む)に対して、それがほぼすべて正しい内容であるという前提に立って解釈を行うとするものでしょう。これは作中に出てくる各種資料や、古の楽園における「追憶の皿」などで記述されている内容についても、基本的に「そこには正しい内容が書かれている」と解釈するものになります。

しかし、ここで一点注意したいポイントは、「それらの文章を正しくしているものは誰/何なのか」という点です。
物語を読むときに、人は自然と「作品において書かれている文章については正しい」という仮定の中で文章を読んでいくものです。しかし、そういった仮定を見てみると、実はその仮定というのは何かに権威づけされたわけでも、正しいと保証されたものでもありません。
例えばですが、オットーが誓約の十字架の性能について語っているとしましょう。私たちは「現文明最高の科学者でもあるオットーが言うのならまあそうなのだろう」ということで、誓約の十字架の効果、および第零定格出力等についてはこういうものだ、と解釈します。
しかし、オットーが誓約の十字架の効果について正しく理解できていた、とする保証は物語のどこにもありません。オットーは確かに現文明において最も優れた科学者ではありましたが、そのことから誓約の十字架の効果について正しく把握できている、ということは直ちに導かれるわけではないのです。
副次的なものとして、テレサがカロスタンにおいて誓約の十字架の第零定格出力を使用したシーンについて考えてみましょう。テレサが使用した誓約の十字架の効果がオットーの言ったとおりであるならば、オットーは誓約の十字架について正しく理解していると言えるのではないでしょうか?
実はそうでもありません。なぜなら、「誓約の十字架の第零定格出力は実は2つある」ということや、「誓約の十字架の 第零定格出力は使用者によってその効果が変わりうるが、オットーはそれを認識できていない」という可能性も考えられるからです。
この時、物語上の描写と矛盾を生じさせることなく、登場人物の属性について真偽を逆転させることができています。

こういった内容について、より簡単に真偽を逆転させる方法があります。「登場人物はある場面において嘘をついていた」というものです。
たとえば「コズマは12歳以下の女の子が好きだ」というグレーシュの発言があります。これ自体についてはコズマ自身によって否定されています。
しかし、コズマ自身が否定していることから、「コズマは12歳以下の女の子が好きだ」という文章が偽であることは直ちに導かれません。コズマが嘘をついて誤魔化していた可能性も考えられるからです。
論理的に見れば、コズマの否定が正しいと確定できるだけの根拠は存在しないのです。

注:ここで「作品やキャラを冒涜している」という指摘が考えられますが、ここで考慮しているのは「論理的にどう判断されるか」という点なので、作品やキャラの倫理的な面については除外して考えています。

上記で、登場人物の言ったことや物語上の描写は、ある程度簡単に真偽を逆転させられること、およびその中で物語上の描写と矛盾を生じさせることもないようにできるということを見てきました。

それでは、作品世界の中で「これは正しいものである」と保証されているものについて、別のものは考えられるでしょうか?
それは古の楽園の中に存在します。楽園のタイプライターです。
これ自身について、「楽園のタイプライターは楽園の中の真実を記述する」と述べられています。
(これに関して、論理学に詳しい方だと楽園のタイプライターの性質に関してかなり胡散臭いと感じる方もいるかと思います)

ところが、楽園のタイプライターは「エリシアが死んだ」と「ケビンが死んだ」という文章を書いた紙を吐き出しています。これは真だったでしょうか?
少なくとも、ケビンは実際に生きていました。「楽園のタイプライターは楽園の中の真実を記述する」というものを保証するものは登場人物の会話、および「これまで楽園のタイプライターが間違ったことを言ったことはない」という経験的な事実にしかすぎません。

注:厳密にいえば、「楽園のタイプライターは楽園の中の真実を記述する」という文章を論理学的に考えれば真とすることもできます。なぜなら、「ケビンは楽園の中にはいない状態だった」と解釈することもできるからです。
しかし、古の楽園というデータ空間の中の隙間に入り込んだことで、楽園の中から出ることにはなりません。これについては、「楽園の中」「楽園の外」をどうとらえるかという別の問題になります。

先ほどまでは、作品世界の中にある言明のことについて分析しました。
それでは、作品世界の中でまだされていない言明についてはどうでしょうか?
作品世界の中では真偽が判定していない言明が無限に存在します。一般的に言えばこれは「設定が決まっていないもの」ということができます。

それでは、そういった文章等が正しいのは、作者による権威付けが行われているからではないでしょうか?
これは自然な疑問になると思われます。
そういった疑問に対して、「文章等を正しくするのは作者によってではなく、読者によってである」という立場に立つのがテクスト論だと言えます。
これについては、『ライターと「作者の死」』の部分で詳しく解説します。

否定的な解釈から肯定的な解釈へ

ここまで、物語の中の会話や文章を捕まえては、それに半ばいちゃもんをつけるような形で否定的な解釈を行ってきました。
ここまで否定的な解釈を行ってきたのは、「自然な解釈」とされるものの前提を崩すという目的を果たすためです。
「自然な解釈」の中には、いくつかの暗黙に仮定されていた前提があることを見てきました。そして、そういった前提が正しいと保証するものもないことを見てきました。
このことから何を言うことができるでしょうか?それは、解釈というものは本来、より大きな可能性を持ったものであるということです。言い換えれば、暗黙の前提を取り払うことで、解釈の可能性をより大きく広げることができるということです。

ライターと「作者の死」

ここで、現代のテクスト解釈において重要かつ有名な概念である「作者の死」について触れたうえで、新しい解釈の可能性について考えていきましょう。
フランスの哲学者であるロラン・バルトは、『作者の死』という有名な論文において、概略次のように主張しています。

・これまでの解釈は、作者の意図を読み取ることに終始していた。
作品は作者の意図から切り離され、自律的な「テクスト」として解釈するべきである。

ここでロラン・バルトは、作品を支配し、作品の解釈における軸となり、作品の背景となる人格等を供給するものとしての「作者」に対する死を告げます。

共通テストなどでよく言われる「国語は『作者の意図・気持ちを答えよ』というゲームである」という言説については、少なくとも現代の解釈論においては異なるということができます。

崩壊3rdにおける有名なライターとしては焼鳥先生(古の楽園、および1部全体のライター)が挙げられます。
しかし、作品を解釈するにあたって、ライターの意図を汲み取る必要は必ずしもありません。作品は作品として、作者とはほぼ独立に存在するためです。そして、作品の解釈についても作者の意図とは独立して行うことができます。

注:これは、ライターの意図を読み取ろうとする解釈を否定するものではありません。そういった解釈も当然一つの解釈として存在します。
ここで強調したい点は、ライター(≒作者)の意図を排除した解釈も存在しうるという点です。

二次創作の意義

ここまで、作品における言明を真や偽にするのは作者ではなく読者(プレイヤー)であるということを見てきました。
これは二次創作においてより分かりやすく見ることができます。
二次創作は、本編中には存在しない設定を追加したり、「もしこういう世界だったら」という設定の下に作品を作ることができます。
これは「本編において真偽が判明していないものを真か偽にする」こと、および「本編において真もしくは偽であるものを逆転させる」ということができます。
こういった二次創作の広大な可能性は、読者による解釈の力と可能性によって担保されているということができるでしょう。

ここまで読者(プレイヤー)に対する解釈の多様性について見てきましたが、この解釈の多様性は二次創作の多様性を担保しているということもできます。

崩壊:スターレイルの解釈における崩壊3rdの設定について

テクスト論の立場に立てば、崩壊:スターレイルという作品の解釈においても無限の可能性があり、そこでは崩壊3rdで明かされている設定を参照しなければならないわけでは決してないということは付言しておきたいと思います。
なぜなら、崩壊3rdにおいて明かされている設定を崩壊:スターレイルにおいて受け取るかどうかということも、最終的には読者に委ねられているためです。

パート2:『卒業旅行』の解釈について

それではここまでの議論を踏まえたうえで、『卒業旅行』のPVに関する分析を進めていきましょう。

『卒業旅行』において、最も重要なメッセージがあるとすれば下記のものでしょう。

「これは愛の物語」

崩壊3rdが「愛の物語」であることは間違いありません。ですがここでは、崩壊3rdが「愛の物語」であるというメッセージを消去した上で解釈を進めていきます。
先ほどの議論の中で、物語からどのようなメッセージを受け取りまた受け取らないかは読者に委ねられるという議論が行われました。
ここでは、「愛」という最も重要なメッセージを見えないようにしたうえで、どのような解釈が可能かということについて考えていきます。
『卒業旅行』というPVにおいて「愛」というメッセージを剥ぎ取った時、そこにはどのようなテクストが残っているのでしょうか?

列車の中にいる律者について

列車の中にいるキアナは終焉の律者の状態になっています。そこにオットー(約束の律者)と支配の律者が登場します。
ここで、支配の律者は「もう一人足りない」と言い、その後侵蝕の律者が登場します。
重要な点は、「列車にいるべきなのがオットー、支配の律者、侵蝕の律者であり、それ以外の律者ではない」ということが含意されていることです。

キアナは列車を去り、艦橋に上がるエレベーターに乗ります。

エレベーター

ここで重要な点は、キアナがシーンが切り替わるごとに過去の形態に戻っていっていることです。
(これに関しては気づかれた方も多いかと思います)
もう一つとして、列車とエレベーターは人を運ぶ乗り物であるという点です。
より詳しく見てみると、列車は乗客がその行き先を選択することはできませんが、エレベーターは乗客が降りる階を選択することができます。

列車とエレベーターは、運命に流されていくキアナを象徴していると考えることができます。

空から落ち、屋上に辿り着くキアナ

キアナはエレベーターから落ちますが、これで曲がりなりにも運命に流されていく乗り物から降りることができた、という点はあります。
しかし一方で、キアナの手を芽衣先輩が掴み、屋上に降り立ちます。

「昔と変わらないね」
「色々あったね」

そしてキアナと芽衣先輩は屋上から降りていきますが、屋上から降りる際には「人間が踏みしめることのできる階段を降りていく」という点が重要です。
これは先ほどの空から落ちていく(=自分でコントロールできない)場面とは対照的であることに注意が必要です。

ここで「カノン」が流れるシーンが挟まりますが、今回の解釈においてはこの部分は考慮に入れないため省きます。

再度列車に乗るキアナ

先ほどまでの分析で、列車は運命に流されているキアナを象徴しているということを主張してきました。
しかしここで、キアナは再度列車に乗ります。
重要な点は、最初のシーンでは初めからキアナが列車に乗っていたのに対して、このシーンではキアナが自分の意志で列車に乗ったことです。
芽衣もブローニャもフカもテレサも、列車に乗ることはありません。

崩壊を乗り越えた後の世界について、キアナ以外の人間は使命から降りることができます。
(これは芽衣先輩が教師のための勉強、ブローニャがゲーム制作を始めたことによっても示されています)
しかし、キアナだけは「崩壊を消し去る」という使命から逃れることはできません。

列車に乗ったキアナは月光の形態になっています。
これ自体は『Reburn』において
これはキアナが自分の意志で使命に向き合うことを示していると考えられます。

荷物を抱えるちびキアナ

ここまでの分析を踏まえると、最後のシーンでちびキアナが抱えている大きな荷物が何であるかについての解釈が一つ浮かぶでしょう。
ここでちびキアナが抱えている荷物は使命である、といえます。
キアナは運命に流されていきながらも、最終的にはカスラナ家の人間として、自身の使命を見つけることができました。

『卒業旅行』~「何」からの卒業なのか?~

ここまで、『卒業旅行』の各シーンを確認してきました。
ここで、「卒業」とは何からの「卒業」なのか、ということについて考察しましょう。

崩壊を乗り越えた後の世界において、キアナとそれ以外の役割は大きく異なります。
『卒業旅行』はキアナだけの卒業旅行ではなく、キアナ以外の人間にとっての卒業旅行でもあるのです。

キアナ以外の人間は、使命からの卒業をすることが可能になりました。
これはキアナ以外の人間が(律者たちを除いて)列車に乗っていないことからも言えます。

そしてキアナは、一人で使命を背負い込むことからの卒業をした、という解釈ができるでしょう。
それは列車内で姫子先生に声をかけられ、聖フレイヤ学園の人たちが現れることから言えます。
キアナは空の律者覚醒以降、一人でずっと使命を背負い込んでいました。薪炎の律者覚醒以降仲間と共に使命を果たしていくことを覚えていきますが、終焉の律者になった後はまた月で一人、使命を果たさなくてはなりません。

しかし、キアナはかつてのように、心まで孤独になったままで使命を果たさなくてはならないわけではありません
月と地球で通信ができるようになっており、キアナは物理的な距離があるとしても、仲間たちと心で繋がったまま使命を果たしていくことができます。

「これは愛の物語」~愛は、「何」に対する愛なのか?~

そして、最終的にまたこのメッセージに戻ってきます。

「これは愛の物語」

これは簡単なメッセージのように思えますが、よく考えれば愛は何かしらの対象を取るはずです。
(これは哲学的に言えば「志向性を持つ」と言われるものであり、博愛や隣人愛、神の愛であったとしても何らかの対象を取るはずです)
最終的な解釈として、崩壊3rdは「使命に対する愛の物語」という解釈を出すことができます。

キアナだけでなく、人間は誰しも自身の運命、もしくは使命を持っています。
(それに人生の中で気付けるかどうかという問題もありますが)
その使命を愛することができるかという点は、『卒業旅行』から引き出すことのできるとても重要なメッセージと言えるのではないでしょうか。

結び

私の提示した解釈について、どのように思われたでしょうか?
パート1でも繰り返し述べましたが、この解釈が正しいとか間違っているとかいうことはありません。また、この解釈とあなたの解釈が衝突し相容れない状態になるといったこともまたありません。
なぜならば、「作者の意図」といったゴールおよび優劣の判断基準は作品と切り離して考えることも可能であり、その場合に解釈の優劣や解釈の原理的な相反は存在しなくなるためです。
解釈というのはとりもなおさず「自分にとっての作品世界」を作り上げる行為であり、作り上げた作品世界(解釈)は尊重されるべきものです
そしてその解釈から、また新たな二次創作の作品が産まれる可能性も尊重されるべきものです。
 
崩壊オンリーというこの場において、出展者のそれぞれの作品等についても同様に尊重されるべきものであり、それはそれぞれの作品を享受したあなたの解釈についても同じことが言えます。
そしてもし次の崩壊オンリーであなたが出展者の立場になった場合は、あなたの出展する作品についても尊重されるべきものであることは言うまでもないでしょう。

次回の崩壊オンリーは10月開催予定とのことです。
あなたの出展する作品を心待ちにしております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?