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「残花と残香 一本柱鳥居と軍艦島」



一本柱鳥居(二の鳥居)は国指定史跡「長崎原爆遺跡」2016年10月3日指定される。爆心地から南南東約800メートルの高台にあり、この鳥居は貴重な原爆遺跡として評価も高く、原爆資料の一つとなっている。1924年(大正13)、山王日吉神社の二の鳥居が建立され、のち参道に一の鳥居から四の鳥居までが建てられ1945年8月9日の原子爆弾で鳥居も破壊されたが、そのなかで二の鳥居は強烈な爆風(秒速約200m)によって爆心地側の半分が吹き飛ばされ、その折に上部に残っていた「カサ石」が風圧でねじ曲り角度(約13度)がわずかに変わっている。にもかかわらず二の鳥居は今なお奇跡的にも一本柱の状態で建ち続けている。 一本松鳥居は戦争と言う人間の大きな過ちの結果奇跡的に残ったものだ。科学的に検証すれば爆風の方向や元々の劣化などなぜ残ったかは、さまざまな原因が分かるだろうが、多くの被爆者はあの爆風を受けてもけなげに片足で立っているこの鳥居を見て戦後復興を頑張る原動力になったはずだ。私はこの片足鳥居を見て強風に耐え、かすかに散り残るしだれ桜のように思えた。その姿は散り残った残花がいつまでも戦争のない平和な世界が続くように願い、見守り続けているようにも思える。


長崎の離島航路や連絡船の発着地・大波止港から直線距離で南西方向19㎞、野母半島からは4.5㎞にある端島は、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから別名「軍艦島」とも呼ばれた。元は瀬であったが埋め立てにより形状は周囲1.2㎞、面積は約6.3haあり、南北に細長く長さ約480m、幅約160m海岸線は直線的で島全体が護岸堤防で覆われている。炭鉱で採炭される石炭は八幡製鐵所の製鉄用原料炭として供給し、日本の近代化を支え続けてきたが1974年に閉山、その後35年間は島民といえど上陸できなかった。海底炭坑だった端島は日本で最先端の暮らし・未来都市があった。最盛期の1960年には狭い島内に5267人もの人々が暮らし、東京の9倍の人口密度だった。炭鉱労働者は所得も高く、大半の人が都会にも無かったコンクリートでできた高層マンションに暮らし、カラーテレビの普及率が平均10%時代に、この島では100%の人が所有しており、島には土地も無かったため土を購入しベランダで植物栽培をしたり、主婦の人気の習い事が生け花教室であったりと、水道や風呂、トイレ、炊事場以外は文化的な生活が営まれていた。「ある日突然、町の住人全てが姿を消しタイムスリップした」とは映画に出てきそうなシチュエーションだが軍艦島はまさにそう言いたくなる圧倒的な存在感を放つ場所だ。住宅、学校、映画館、パチンコ店、住人はまるで着の身着のままでどこかへ出かけたように住宅の中には扇風機やテレビなど多くの生活用品までが残されている。建物はかなり劣化しているが人々の生活臭い、炭鉱夫達の汗の臭いが香ってくる当時の残香が感じれる場所である。



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