岡田将生研究④「昭和元禄落語心中」その1 語りで引き込む前半(第1話~第6話)

 どこを切り取っても名作中の名作ドラマ「昭和元禄落語心中」。岡田将生自身が「この役をやるために今までこの仕事をしてきたんじゃないか?」と語るほど力を入れて臨み、孤高の名人落語家の10代から70代までを見事に演じ切った。あらゆる方面から高評価を得た金字塔のような作品である。この作品に限っては、観てもらえば言葉はいらない程に、キャスト、脚本、演出、音楽など作品自体の素晴らしさは誰の目にも明白だが、敢えて岡田の演技にスポットを当ててみたいと思う。

 この作品においてしばしば言及されるのは岡田の美しさと色気。岡田自身も「美しく見えるように意識した」と語っているように、所作の細部にまで神経が行き渡っている。姿勢や立ち居振る舞いの美しさは言うまでもないが、菊比古(八雲)の動作は、極限まで抑えられていて無駄な動きが何一つないことに驚かされる。話をするときに手を動かしたりの身振り手振りが一切ない。わずかに視線と顔を動かすのみで、全ての感情表現を行う。流し目と伏し目を多用することで、色気を醸し出す。菊比古(八雲)の流し目は、視線の後から顔が付いてくる。強い視線を送るときにはには、うつ向いたまま伏し目から眼だけ上げて前を見据える。振り向くときには、いったん視線を落としてゆっくりと顔を回し流し目で顔をあげる。こうした一連の目の動きと極度に抑制された所作が、岡田の本来持つ美しさと色気に拍車をかける。

 前半で着目すべきは、1話の50代、さらには10代から30代までの演じ分けだ。特に2話以降、メイクに頼らず自然に経年を感じさせる演技に脱帽する。どこか純粋さを残したままの10代から、落語に伸び悩み次第に助六に嫉妬し覚醒する様。みよ吉を捨てて落語と心中する覚悟を決める決意の眼差し。孤独を極め、徐々に偏屈さと頑固さをにじませる30代。すべて顔つきや声が違うのだ。10代は表情筋を緩め、声もやや高い。第3話鹿芝居の後の覚醒は、目に光が宿り声にも張りが出る。視聴者にも「変わった」と一目でわからせる説得力のある演技は圧巻だ。以後、年齢とともに眼光鋭くなり、徐々に険しい顔つきになる。声色も徐々に低く、台詞の速度もほんの少しづつ遅くなる。一瞬も気を抜かない緻密な演技は常に緊張感を伴い、視聴者を巻き込む。

 第2話から第6話で作品の根底を支えるのは、名人芸のような岡田の語り。2話から6話は八雲が過去を与太郎と小夏に語って聞かせる、という形で物語が始まるので、全編に渡って八雲の回想を思わせる語りが入る。ところが注意深くこのナレーションを聞いていると、所々回想ではなくその場面での菊比古の心情が語られているのだ。つまり、50代の八雲の語りと若い菊比古の「語り分け」がなされている。例えば3話、楽屋で師匠がそばをご馳走してくれるシーンは八雲の語り、直後の助六の「夢金」の解説は助六への憧れを交えて少し高めで臨場感のある菊比古の声で語られている。4話の助六「居残り佐平次」の場面もやはり菊比古の声で語りが入るのだが、3話のときより若干声が低く、やや鋭く、助六への心情の変化や経年が見て取れるという芸の細かさだ。変えているのは声の高さだけではなく、声の張りや艶やかさスピードなど、年齢や心情を強く意識したナレーションはそれだけで聴きごたえがある。これらがごく自然に行われ、かつ魅力のある声、聴きやすい話し方でなければ、おそらく作品の魅力は半減していたであろう。視聴者は、八雲の語りに引き込まれ物語の世界へ没入させられるのだ。

 第1話から名人としての落語を4つも披露するというのもなかなかのハードルの高さだが、ここに原作漫画とアニメのファンからのプレッシャーまでのしかかる。岡田の役者としての武器の一つは、謙虚な性格とは裏腹の演技に対する度胸の良さだと思っているのだが、その度胸というか肝が据わった感じが、八雲の名人として高座に上がったときの威圧感のようなものに上手くフィットしていると思う。第1話で八雲の見せたカリスマ性は、岡田が伊達に若い頃から数々の主演を張ってきたわけではないことを物語り、この作品を成功へと導く大きな要因となったことは間違いないだろう。

→後半へ続く


 

 

 


 


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