岡田将生研究⑤「昭和元禄落語心中」その2 佇まいで魅せる後半(第7話~第10話)

 八雲(菊比古)は、基本相手の目を見て話さない。話をするとき聞くとき、たいてい下か横に視線を外す。その視線の動きが偏屈さをよく表現している。晩年に至っては、表に出る喜怒哀楽もほとんどない。台詞も少ない。ここからの八雲の心情の変化は、ほんのわずかに揺れる表情と居住まい佇まいが生命線。

 第7話は第1話の10年後から始まる。丁寧に描かれた八雲の壮絶な人生を見て来たおかげで視聴者は無理なく物語に入り込めるが、老いた八雲を受け入れられるかは、岡田の演技にかかっている。「噺家は老いてからが華だというが、間違いなく八代目は今が一番お美しい」「動いてしゃべるだけで人をこんなに満足させる」「噺家の夢だ」などなど、これでもか!と言わんばかりの美辞麗句が並ぶのだ。生半可な見た目と演技では、それこそ視聴者が満足せずしらけてしまう。求められるのは、若い頃のキラキラとほとばしる美ではなく、それまで抱えて生きて来たものが匂い立つような内面から放ついぶし銀の美。勢いで笑わせるのではなく、観客を引き付け聞かせる落語。若い岡田がどこまでそれを見せられるかが、この作品の勝負どころだったはずだ。

 2013年のドラマ「リーガルハイ」で主演の堺雅人が「岡田君の役(羽生)は本当に難しい。脚本に人たらしって書いてある」というような趣旨の事を言っていたのを思い出す。ここで堺の指摘する難しさは「万人に好感を持たれかつ人をだます狡猾さを併せ持つ二面性を説得力を持って演じる」ことだと思われる。当時24歳の岡田はそのハードルをクリアしたわけだが、落語心中の八雲はどうであろうか?演技で八雲の生きざまを追体験してはいるが、それだけでは人生の重みえぐみを出すのは難しい。徹底した老けメイクとNHKの卓越した撮影技術やカット割り、音楽も素晴らしかった。が、何よりこの役の演技にかける岡田の強烈な熱意が、落語にかける八雲の思いと共振し、観る者の魂を揺さぶった。老いた八雲はまごうことなく美しく、確かに落語の名人であった。

 第8話やくざの親分と与太郎が小夏をめぐって料亭でやり合う様子を八雲が隣室で聞いているシーン。一言も言葉を発しないが、細やかな表情の機微だけで八雲の心情を推し量らせる。8話の芝浜は師匠らしい余裕も感じられ素晴らしい。9話10話と話が進むにつれ、目がうつろになり、立ち座りの動作は老人そのもの。高座前の手の震え、落語を思い出せなくなるかもしれない恐怖、演者が30前の若者であることを完全に忘れさせられた。一方表情は信之介の誕生とともに徐々に和らぐ。(信之介とお風呂に入った時に一瞬見せた笑顔は必見)。

 最終話の「死神」では凄みが極致に達し、それでもなお「いやだ、死にたくない」と言う八雲の業を演じ切った。この「死にたくない」は、助六とみよ吉の事故シーンの悲鳴のような「なら、私も連れてけ!」という悲痛な叫びと呼応しながら真逆の事を言っている八雲の業であり矛盾である。後者の叫びとは反対に「死にたくない」は、弱々しい声でありながらこちらの方が強く視聴者に訴えかけるのだから不思議だ。その直前で死神に「ようやく会えた」と言っているにも関わらず。この途方もない矛盾を視聴者に納得させたのは、岡田の技量と言っても過言ではないだろう。まさしく名演。

 配役を決めるに当たって「品のある」俳優として岡田に白羽の矢が立ったととある記事で読んだ。「品」は、生まれ持ったものに起因する部分が大きいが、八雲(菊比古)に通じる岡田の「品」は、芝居と真摯に向き合い一途に努力する姿勢、その真っすぐさにあると思う。後の対談で「菊比古の生き様を見て欲しい」と語っているが、我々視聴者は「菊比古を全身全霊で演じる俳優としての生き様」を同時にそこに見るのである。「向こう10年こういう役(あらゆる覚悟を持って挑む特殊な技術を伴う難役と言う意味だと思う)はない」と言い切っていたが、「では10年後にまた見れるのかもしれないのか」とファンとしては楽しみが膨らむ。

 

 

 

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