岡田将生研究②「ドライブ・マイ・カー」車中の語りに引き付けられる理由

 映画「ドライブ・マイ・カー」の名シーンの一つといえば、サーブの後部座席で家福と対峙する高槻の語りのシーン。狭い車の中、互いの顔の切り返しのみの暗い画面。音楽もない、静かな声だけの演技に人々はなぜ魅了されるのか。ポイントは「声」と「視線」。

 車に乗り込んで来た高槻は「家福さん、僕は空っぽなんです」と言う。地獄の底から響くような低い声で。岡田将生は、若い頃から語りの上手い役者である。それ故連続ドラマでも「平清盛」をはじめ「聖なる怪物たち」「掟上今日子の備忘録」「不便な便利屋」などでは語りも担った。とりわけ映画「僕の初恋をキミに捧ぐ」の「僕の大好きな繭…」と呼びかける優しい語りは多くの人の涙を誘った。ドライブ・マイ・カーの高槻は、「僕の初恋…」の繭への優しい語りかけと対局のゾッとするような声で家福に語りかける。まるで天使と悪魔だ。

 声以上にこのシーンで印象的なのが、涙をたたえながら心の奥底をのぞき込む漆黒の宝石のような高槻の眼。岡田はもともと役柄によって目の印象が大きく変わる、眼差しや視線で演技をする俳優だと筆者は常々思っていた。高槻のこのシーンの目は、同作中の高槻のどの眼差しとも大きく異なる。NHKドラマ「昭和元禄落語心中」で菊比古が「死神」の最後に舞台上に倒れる時に客席を見つめる空虚な眼に似てると思った。この眼が映画を見終えた後も私たちの心を捕らえて放さない。

 このシーンにおける岡田の語りがすんなりと人の心に届くのはなぜだろう?険がなく穏やかではあるが決して弱くはない声。丁度よい速度と間。大げさな抑揚はないが、陰影のある語り口。これらは濱口監督による徹底的な本読みによって磨き上げられたと考えるのが妥当であろう。監督いわく「役者の間でその時に起こったことをカメラに収める」「車中のシーンでは確実に何かが起こっていた」。

 ヤツメウナギの少女の話の続きは、台詞を聞いているだけで頭の中に情景が浮かび上がってくる。これは話すテンポと見ている側の想像の速度がピタリと一致するからではないだろうか。不思議なことに視聴者は、このサイドストーリーの映像を脳内で再生しながら、映画(スクリーンの高槻の顔)を見ているのだ。岡田はもしかしたら、脳内で同じようにヤツメウナギの少女の話を再生しながら語っているのではないだろうか。普通、物語を他人に聞かせる(ラジオドラマなどのような)時には、伝えようとするあまりもっと大げさな台詞回しになる。ところがこの高槻の台詞回しは、極端にそぎ落とされているにも関わらず心に響く。

 物語の最後に「私が殺した」という台詞が3度繰り返される。筆者の記憶する限り岡田は、同じ台詞を繰り返すとき、同じトーンで台詞を言わない。例えば「ワーニャ伯父さん」の劇中劇、逮捕直前のゲネプロでの「ええい畜生、畜生目」という台詞を思い出してほしい。岡田は1回目の「畜生」を絞り出すような小さい声で言い、2回目の「畜生目」で感情を爆発させている。この台詞を全部同じトーンで叫んでしまうと演技が単調になる。この辺りが岡田の台詞回しの巧さだと思うのだが、高槻の「私が殺した」は、3回ともほぼ同じトーンで淡々と語り、それが空虚さと不気味さを増大させている。視聴者は、この車に人を殺したと思っている人が3人乗っていたことに後になって気づかされるのだ。

 声のトーンと話す速度、顔の表情にほとんど変化がない中、そこにわずかな強弱を生み出しているのが、カメラの切り替えと岡田の視線である。(高槻の話を聞いている西島秀俊のリアクションも秀逸)。「どれだけ理解しあっている相手であれ・・・」の部分では岡田は、カメラから視線を外している。続く「他人の心をそっくり覗き込むなんてそれはできない相談です」のように核心の部分はカメラ(家福)に向かって語りかける。「結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは」でカメラは家福を捕らえ、最後に高槻がカメラを見つめながら涙はこぼさずに「本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深く真っすぐ見つめるしかないんです」と結ぶ。この一連の映像で、高槻がカメラを見つめて話す台詞がより強調されて視聴者に入って来る仕掛けになっていて、あっぱれとしか言いようがない。そして、高槻のあの眼と声は確かに一線を越えた者の眼と声であった。

 余談になるが、作中の高槻は家福と話すとき、ほぼきちんと家福を見つめて話している。「キャラクターに一貫性を持たせない」ようでいて、その場その場で嘘のない人間なのだろうと視線一つで思わせる。高槻が見るものを引き付ける理由は、そんなところにあるのかもしれない。

 


 




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