水星の魔女について考えることをやめた
今年(2024年)のバンナム株式総会で『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の同性婚に関する質問が出たらしい。
あくまで伝聞なので具体的な質問内容には踏み込まないものの、それが私に忘れようと努めていたこの作品を思い出させるきっかけになった。
この記事では、そんな水星の魔女について私が考えていたことを、自身の思考を整理する意味も含めて書き綴っていく。
作品自体は忘れたほうがよいものの、忘れようと思ったその思考過程自体は今回をきっかけにしたためておくべきだと感じたからだ。
1.
放送当時、私は熱心に水星の魔女を追いかけていた。
ガンダムをキチンと観るのは水星の魔女が初めてだったが、第一話でガッチリとハートをキャッチされた。
なるべくリアルタイムでテレビに齧りついていたし、訳あってリアタイできない際はネタバレを見ないように録画を観るまでSNSを封印した。
他人の感想という先入観を持たずに、なるべくフラットな、初見の第一印象を大切にしたかったのだ。
そして観終わった後はSNSへ積極的に感想を投稿した。水星の魔女は毎話毎話の引きが刺激的で、SNSで盛り上がるような作品だったと思う。
「いったいこの後どうなっちゃうの?!」という感情を思わず抱かせるような、そんな勢いも含めてとても楽しい作品だった。
そんな私の熱が放送終了後パッタリ冷めたのは、やはりガンダムエースの記事を巡る一連の騒動と、それに関する製作元・バンダイナムコフィルムワークスの発言だった。
水星の魔女は「あるモビルスーツを伴って水星からやって来た主人公スレッタが、モビルスーツ製造大企業の令嬢ミオリネの許婚にされてしまう、学園×ロボット物」というお話。
最終回ではふたりの関係について「結婚」と直接的に言及されることはないものの、婚約から始まるこれまでの物語や、左手の薬指に嵌めた指輪の描写などから「まぁ結婚という形に落ち着いたんでしょうね」と解釈するのが無難な形で完結した。
しかし放送終了後、雑誌やラジオ、イベントなど、ありとあらゆるメディアで徹底的に「結婚」というワードが避けられるようになった。
これはある程度作品を追っていたファンなら誰しも気づいていたことだと思う。
それに気づいた私は「公式は同性婚という表現をしたくないのではないか」という疑念も持ちつつも、あくまで疑念でしかない以上、SNS上でそれに言及することは避けていた。
そんな本編では使われなかった「結婚」という文言を、主演声優へのインタビュー内容という形で初めて使用したのが、月刊ガンダムエース2023年9月号だった。
しかし物理書籍に記載されていたその文言は電子版では削除され、それがSNSで話題を呼び、上記の「お詫び」に繋がる。
結果として、私(を含め少なくない人々)が公式に抱いていた疑念は、公式自らによって真実と証明されてしまったわけだ。
2.
劇中本編で「結婚」というワードを利用しないことは、まぁ、理解できる。
日本では同性同士の結婚は認められておらず、もし水星の魔女が「結婚」という表現を使えば、それはこの国に何らかの(少なくとも私にとっては好ましい)変化をもたらすきっかけになってくれたかもしれない。
ただしもちろんそれらは作り手側がどのようなメッセージを伝えたいか次第で、同性婚に賛同するわかりやすい表現を作品中に組み込まなくてはいけないわけではないだろう。
同性同士であろうが何だろうが、物語上のとあるふたりが円満な関係性のゴールを迎えるとき、それらが全て「結婚」という社会的な規範に帰結してしまうのは勿体なさを感じる。
わざわざ「結婚」という言葉に固執しなくても、多種多様な関係があってよいじゃないか――そういう意味では、納得できなくもない。
ただし「結婚」というワードをわざわざ削除したとなると話は別だ。
こう記載されているものの、バンダイナムコフィルムワークスは実質のところ「結婚」という解釈のひとつをわざわざ否定している。
本当に「皆様一人一人の捉え方、解釈にお任せ」であるのなら、声優の発言やライターの記述もひとつの解釈にしか過ぎないはずなのに……。
この事件以来、SNSではスレッタとミオリネの関係についてどうしても「結婚」と言い切りたい人が増えた。
バンダイナムコフィルムワークスが「同性婚」を頑なに表現しない以上、それへの逆張りで人々は「結婚」という単語に拘る・拘らなければならないのだと思う。
カウンター・カルチャーといったところだろうか。
この「スレッタとミオリネは絶対結婚派」はSNS上で相当な存在感を放っており、この絶対結婚派に苦言を呈したり茶化す人々も少なくない数がいる。
(そういえば最近はスレッタとミオリネにレインボーフラッグを持たせた海外のファンアートが炎上したんでしたっけ?)
なんと作画監督まで「スレッタとミオリネは絶対結婚派」に苦言を呈しているのだ。
ただしこの件について忘れてはいけないのは、どのファンよりも「結婚」という表現に固執しているのは他ならぬバンダイナムコフィルムワークス自身であることだ。
別に結婚でも結婚じゃなくてもスレッタとミオリネが強い絆で結ばれて家族になったというエンディングで十分だったはずのに、わざわざ電子版で自己検閲する程に「これは結婚じゃないです!!!!!!!!!!!!!!」と叫ぶことに拘るバンダイナムコフィルムワークス。
結婚じゃなくても構わないのなら、逆に結婚であっても構わないはずなのに、どうして頑なに否定するのだろうか……。
とっても不思議ですね。
3.
私個人としては作品に対してクィアベイティングという言葉をなるべく使わないようにしている。
なぜなら私がカップリングが大好きな類のオタクであり、特定の作品に対して「クィアベイティング(実際に同性愛者やバイセクシャルではないのに性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法)だ!」と主張すると、そこに「私の好きなカップリングがくっつかなくて不満だ!」という文脈が生まれてしまうからだ。
そういった意味合いを含んでクィアベイティングという言葉を使うのは、おそらく適切な使い方ではない。
でもまぁ……正直に言って、水星の魔女はクィアベイティング以外の何者でもないでしょう。
スレッタとミオリネのふたりが劇中で明確にくっついたからこそ、こう断言できる。
スレッタとミオリネという同性間の婚約が物語の主軸になっていて、第一話で「(婚約において同性同士であることを気にかけるなんて)水星ってお堅いのね」というセリフまで存在して、その上で「結婚という単語は削除・否定します」だなんて、何もかもふざけている。
世界中で現実に起きている戦争や貧困・差別などは映像化できるのに、どうして同性婚だけは表現できないんでしょうね……?
仮に「政治的な主張をしたくなかった」から同性婚という表現を避けたとして、同性婚って戦争や貧困・差別以上に政治的なものなのでしょうか……?
同性婚って戦争以上に残酷で邪悪なものなのでしょうか……?
もしかして水星の魔女で描かれた戦争や貧困・差別って、(今のところ)平和を享受している我々日本人が、苦しい立場にいる国の人々をエンタメ化して面白可笑しく消費しているだけのものだったりするのでしょうか……?
ちなみにバンダイナムコフィルムワークスの公式サイトには、次のような記載がある。
全部ウソじゃないですか。
「世界中」「社会と深くつながる」なんて文言、同性婚という表現について徹底的に自己検閲している企業が世に発表するべきものではないですよ笑
さらに笑けてくるのが、この文言の隣によりにもよって水星の魔女の主人公スレッタ・マーキュリーの制作資料画像が掲載されているんですよね。
バンダイナムコフィルムワークスは実際の行動と矛盾しているこの文言を今すぐWebサイトから削除したほうがいい。
先ほども述べたとおり私個人としては、必ずしも同性婚を肯定する分かりやすく表現を劇中に含む必要はないと思っています。
言葉にしてしまうことで(水星の魔女最終回も含めて)無粋になってしまう表現はあると思うし、特別に肯定しなくても、ただ当たり前のように他と同じように表現されているだけで、創作物のテーマとしては価値があるはず。
フィクションであれどエンタメであれど、全ての創作や表現は例外なく現実と無関係ではいられない。
しかし必ずしも創作物に現実の問題を反映しなければならないわけではなく、フィクションがリアルの奴隷になる必要はない。
とはいっても、わざわざ否定する必要ってありますか?
クリエイターの政治的な主張や立場なんて人それぞれですし「同性間の結婚は伝統的な制度を破壊してしまうので反対だ」という立場の人がそういった主張を含む作品を制作するのはそりゃそうでしょう。
でも同性同士の婚約を物語の主軸とした作品で最終的に同性婚を否定するだなんて、やっていることが外道過ぎません?
えげつないところが、例のバンダイナムコフィルムワークスの発表だと表面的には「多様性」「表現の自由」を謳っているんですよね。
電子版での表現削除や、各種メディアで「結婚」という言及を徹底的に避けてきたこと――それらを知らない人々からすると「スレッタとミオリネは絶対結婚派」の方が「結婚」という表現に拘り続ける悪人に見えるという……。
表現を削除して拒絶して透明にしているのは、実際のところバンダイナムコフィルムワークスなのにね。
(株主総会で延々とこの話題を続けて進行を妨げようとしていたなら、それはそれでどうかと思いますが)
4.
今まで色々なアニメや創作物に触れてきて、それぞれが面白かったりつまらなかったりしたものの、どんなにつまらない作品でも作品に触れたこと自体は経験として私の心に残ってきた。
どんな作品もそれを創った人たちの努力や想いが込められていて、商業的成果とか作品としての質とか、そういったものとは別に尊重され得るべき何かが存在するはずなんですよね。
それなのに創られるべきではなかったとその存在まで否定してしまいたくなったのは、今までの人生で『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が初めてだ。
水星の魔女というコンテンツにたくさんの人々が関わっていることは、エンディングクレジットを見ても明白なのに。
私はそんな人たちの努力も、私自身の水星の魔女が好きだった頃の気持ちも、全てを否定しようとしている。
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』はあのバンダイナムコフィルムワークスの発言によって最終的に「同性間の婚約という物語で衆目を集めた上で、人々に同性婚の否定を突きつける作品」になってしまった。
このような残酷な行為を、製作がうわべだけのお詫びで誤魔化そうとして、制作のスタッフやキャストも全員見て見ぬフリする――もう邪悪以外の何物でもない。
仮に「そのつもりはなかった」「仕事だから仕方ない」を免罪符にしようとしているのなら、それこそ最悪だ。
だから私はあれ以来、水星の魔女について考えることをやめた。
水星の魔女を観ていた当時は毎週あんなに楽しくて、抽選でエアリアルのガンプラを買って初めてプラモデルを作ったり、たくさんの想い出があったはずだったけど、それらを全て忘れるように努めた。
スタッフもキャストも誰も彼も見て見ぬフリをするなら、私がいちいち真面目に考えることも馬鹿らしくなったからだ。
今の時代、ジェンダーを意識しながら素晴らしい作品を創るクリエイターなんて企業にしても個人しても大勢いる。
世の中にはスレミオにハマってしまったばかりに水星の魔女から逃れられない人々も多いようだが、私は幸いにもキャラクターを人質に取られているわけではないので、すっぱりと諦めることができた。
あんな残虐な行為をした作品にわざわざついていく必要はない。
もうこれ以上、水星の魔女にまつわる不幸の総量を増やしたくない。
SNSでは「現場のスタッフは頑張ったのに、上層部の悪いおじさんたちがそれを封じ込めた!」といった解釈をしている方もいらっしゃるようだが、何らかのソースがない以上、私がそういった解釈を信じることはない。
バンダイナムコフィルムワークスの発言は製作元が作品や関係者の全てを代表した発言であるし、それについて現場のスタッフが言及したのは私が知る限り上記に引用した「自分は結婚してるけど同性同士は別に結婚じゃなくてもいいじゃないですか笑」という発言しか知らないので、つまりそういうことかなと。
それと「世界展開するにあたって同性愛表現に厳しい中国の影響が~」という解釈もあったが、SNSで中国の方が「ウチにはウチの問題があるけど、それとこれとは無関係です。これはあなたの国の問題です(意訳」といった発言をしていたので、他所の国のせいにするのもお門違いだと思っている。
というか海外に配慮しても、それが国内のメディアを自己検閲する理由にはなりませんからね……。
海外展開を考慮するなら「同性婚に纏わる記載を削除する」だなんてそれこそ一番やってはいけない悪手であるし、実際にこの事件には海外のアニメファンが日本人以上に言及している。
同性婚について、描けないのなら最初から描かないほうがいい。
挑戦すること自体に価値があると言いたいけど、わざわざ同性婚を否定するという最悪の結末を迎えて、その表現の責任を取ることさえできない水星の魔女はその範疇を超えている。
表現の自由はあれど、自由には常に責任が伴い、よって責任の取れない表現はするべきではない。
水星の魔女はガンダムエース事件以外にも、本編の勢いある物語展開についてSNSで賛否両論の荒れ方をすることもあった。
ミオリネの2chアンチスレが馬鹿みたいな伸び方もした。
SNSでもスレッタとミオリネがくっついたという順当な解釈を受け入れられず現実逃避するカプ厨が大勢いた。
放送終了後、スタッフがSNSへ制作環境への愚痴を書き込んで物議を醸したこともあった。
こんなに色々あった水星の魔女、もしかしてこの世に存在しないほうがみんな幸せだったのではないでしょうか?
クィアベイティングも含めてカネで経済を回すことには成功しても、本来幸福を掴むためのカネによって夥しい不幸や苦しみが生まれてしまったら、それは本末転倒じゃないでしょうか?
生まれることは素晴らしい。何かしらの悲しみや苦しみがあったとしても、それ以上に楽しいことや嬉しいこと、誰かと繋がったり分かりあえたりする素晴らしさが存在する可能性は誰にも否定できない。
……とは言いたいものの、水星の魔女がもたらした痛みを直視すると、本来なら言葉にするべきではない言葉が心から湧き出てしまう。
今までの人生でこんな悲しいことを口にするのは初めてで、自分でもびっくりしているのだが、やはり水星の魔女は生まれるべきではなかった。
5.
それとついでに最悪だったのが、このガンダムエースに纏わる事件についても、本編の展開や解釈についてSNSが荒れたときも「まあガンダムではよくあることですな笑 あまり必死にならないほうがよいですぞ笑 最近ガンダムに触れた若い者は知らんかもですが、ガンダムはそういうコンテンツなので笑」みたいな言及をする終わってしまったおじさんがめちゃくちゃ存在していたこと。
(必ずしもおじさんとは限らないし、私自身もうおじさんな年齢かもしれないけど、キモさの方向性にテンプレなおじさん臭さを感じるのでこう表現する)
こういう「現実のあらゆる出来事に無力で、それを乗り越えようと足掻くことすら諦めて、現実や他人を冷笑することで自分が世間の上に立っているように錯覚し続ける、ただただ空虚なハリボテと成り果てただけの存在」が、ガンダムというコンテンツにはどうやら沢山いるらしいんですよ。
水星の魔女で初めてガンダムに触れた私は、ガンダムがこんな終わってしまったおじさんの巣窟になってることが衝撃だった。
水星の魔女って放送当時は同性同士の婚姻という現代の日本アニメがまだ描ききれていないことに挑戦した画期的な作品だと思っていたのですが、ガンダムというコンテンツが終わってしまったおじさんにとって居心地の良い場所なのだとしたら、そんな土壌で新しいことをしようとしたら「わざわざ自ら同性婚を否定する」というむごたらしい結末に着地してしまうのも必然だったのかもしれない。
さいごに
というわけで今回久しぶりに水星の魔女について思い出したのだが、私は例のバンダイナムコフィルムワークスの発言以来、水星の魔女に触れることも考えることもずっと避けてきていたので、もしかしたら今は色々と状況が違っているのかもしれない。
もし「新しい出来事があって今はこうなってるよ!」「こういう考え方もアリなんじゃないかな?」という方がいらっしゃったら、コメントいただけると嬉しいです。
昔は楽しんでいた作品が心の中で「生まれるべきではなかった」という結末に行き着いてしまうだなんて、悲しすぎますからね。
それと水星の魔女をキッカケに初めて作ったガンプラですが、ある日私の絶望に応えてしまったのか、棚からひとりでに落下して頭部がバキバキに壊れてしまった。
細かいパーツが散乱して行方不明になったので修復は無理そうなのだけど、これってやっぱり水星の魔女への想い出といっしょに捨てたほうがよいのでしょうか?
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