20241028月②
ロルバーンの紙集め。
楽しかった! 一気にやっちゃうから絵に偏りがあるけど、集まると見応えあるな。
来月からは、色指定で集めようかなとも考えている。
*
「チャイムの音が鳴る」と、皆さんは何を想像されますか?
私は「授業の始まり」でした。
寺村輝夫(てらむらてるお)という童話作家が書いた「わたしの童話創作ノート」という本の中で、
「小学校です。いま、ベルがなりました。チャイムでもけっこう。ベルは、意思の伝達手段です。先生にも子どもにも<何か>を伝えるために、なるのです。さて、ベルはいったい、何をつたえたのでしょうか?」と書いています。
寺村は続けます。
「「第◯時限の終わりである」
と思った人は、まず平均的大人です。たしかにその通りなのです。すくなくとも、先生がたは、「終わった」と思い、学習に区切りをつけるでしょう。
しかし、同じベルを、ちがうひびきでとらえる子どもがいます。その子たちは「終わった」とは感じません。
「休み時間の始まりだ!」」
「授業の終わり」でも、「休み時間の始まり」でもないと、なんで私は「授業の始まり」だと思ったんだろう。
スクール(学校)のはじまりはスコーレ(遊び)である。
と言う文章を見つけました。
遊びって何だろうって考える。損得考えず、何のためにやっているのかわからず、意味もなく、ただ夢中になっている状態。
そんな状態をずっと続けていく。
そこには覚悟も、勇気も、主だった理由も、ない。
私が、その状態を辞めてしまうのは、経済的に立ち行かなくなってしまう不安が頭をもたげてくるからだ。
今はいい。両親も健在、食べていく余裕はある。
でもこの先、お金がなくなったらどうしたらいいの?
私の不安はいつもそこにある。
生活できなくなったらどうしようって。
社会保障があるから、最悪の場合はそこに頼ればいい。
本当に頼っていいの?
後ろ指さされない?
私の不安はここにもある。
他人からの視線、評価、が私の判断の根底にある。
自らが楽しいことをすればいいんだよ、と言った美術の先生の言葉もわかる。
でも、どうしても、評価される立場っていう感覚がずっと私を見張っている。
楽しいって何だっけ。
面白いって何だっけ。
学びは遊び。
学んでいれば安心?
でも今まで学んできた内容は、他者が価値のあると評価したものたち。
でもそれって「遊び」というより「学問で遊ばされてる」というか。ここにも「遊び」より先に、他者の視線がある。
純粋に楽しいこと、面白いことをもっと追求したい。
私のそれはどこにあるんだろ。
学校のチャイム、からここまで考えた。
*
荒俣宏(あらまたひろし)の「図像学入門」という本に、こうある。
「最初は太陽のように、いろんな情報をボンボンだしている。が、そのうち寿命がつきて、情報量がだんだん少なくなり、ついに光を出さない大きな星になってしまう。(中略)ゼロになって情報を何も出さなくなった星がその先どうなるかというと、だんだん小さくなっていき、ある限界以上に縮むと、ついにブラックホールになって、今まで自分から情報を出していたのが、今度は逆に情報を吸い込むようになります。(中略)そういうブラックホール図像が出現したときには、今度は我々がその図像に対して、いろんな情報を与えてやらなければいけなくなります。(中略)白い空間だけの絵に対し、「雪」っていう情報を食わしちゃうと、その絵はいっぺんに意味が変わります。崩壊から創生に移るんです。」
ここを読んでたら、現在のイラスト情報がAIに学習される状態は、ブラックホールが情報を吸い取っているのか、なんていうふうに考えてしまった。
そのAIが出してきたイラストを見て「可愛い」だったり「綺麗」だったり「面白い」、そして「のっぺりしていてつまんない」、「どれも同じに見える」みたいな感想をヒトはもつのか。
ヒトは、そのAIイラストから物語を想像したり、普通とは違った見方をして「こんなふうにも見えるよ!」って想像することもあるんだろうな。
そしてそれは創作だし、AIイラストもAIによる創作と言っていいんだろうか…となると、「オリジナルって何だ」ってなってくる。
「自分なりの情報の寄せ集め」がオリジナルか。
その情報源にAIを含めたら、幅は増えるんだろうな。
ただやっぱりそれを創作と言い始めると、どこからどこまでが個人の作ったオリジナルか、わからなくなる。
なんだか話がごちゃごちゃになってきた。
イラストを描きつづける夢中さが、尽きてるのよ最近。
スランプともいうべきか。
うまく描けないと楽しくない。
そのうまい、は自分でうまいと思えるものです。他人の目を気にせず自分でうまいかどうか判断するのは、自分に好都合なことですね。
他者からの目線を含めてないので「遊び」に近いかもしれません。
そんな「遊び」が、できなくなってきているとでもいうのでしょうか。
描くのに飽きたのかな?
飽きることない探究心を今は持っていないのかな。いや持っているからこそ、難しいとか大変だと考えが先回りして、手が止まってしまうのか。
今は書いてることの方が、楽しい。
書いていると自分の考えを確認できる。
確認してさらにその先へ考えを進めていける。
それが楽しい。見えない未来から見える未来へ進んでいっている気がして。
わたしは私を説明できるようになりたいのかな。
自分でも自分のことをわかっていないから、もっと知りたいのかな。
前のページでわかってるのにね、自分にはなんにもないって。
答えがないのに探して、今は言いがかりでもつけてるんだろうか。言葉遊びで自分に酔ってるんだろうか。
もうよくわかんないや。
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