ツイッター風味な性思想満載でお届けする、白雪姫を題材とした何か。

最近のツイッターの差別、レーティングの騒動を見ていて思いついたので書いてしまいました。ツイッターネタというかノリというか価値観が満載ですが、それでもよければどうぞ。

※ ちょっと後味が悪いかもしれません。ご注意ください。
※ 本作は、小説家になろうにも掲載しています(https://ncode.syosetu.com/n7398gu/)。


「世界一美しいのは誰?」
「はい、それは白雪姫さまです」

 いつものように魔法の鏡さんに質問をした王妃さま。その質問に今までと違う答えを返す魔法の鏡さん。その答えに王妃さまは激怒して、「おのれ白雪姫、どうしてくれよう」と、浮かび上がった感情のままに叫びます。

……この話を聞いて、あなたはどう思ったでしょうか?

 誰よりも美しく成長した白雪姫と、世界一美しい女性の座から引きずり落とされた王妃さま。白雪姫さえいなければ、王妃さまは世界一美しい女性のままでいられたのにと、そんな話にも見えます。ですが、普段からツイッターをお使いのあなたなら、きっとお気づきのはずです。

――そう、そもそもこの事件は、白雪姫の美しさが引き起こしたのではありません。

 女性が年を重ねれば、その容姿が評価されにくくなっていくのは、ある意味において当たり前のことです。
 もちろん、女性の価値は容姿だけではありません。ですが、王妃さまは自分の容姿が評価されていることを知っていました。特に王妃という立場には、美しい女性がつくことが多いのも確かです。それだけ、王妃さまは自分の美しさに自信を持っていたことでしょう。
 ですが同時に、いつまでも美しくいられるわけではないことも知っていたのです。それは、自分が世界一美しいかどうかを、毎日のように魔法の鏡さんに確認していたという事実からも明らかです。

 つまり、美人という評価を重んじる世界に生きる王妃さまに、世代交代の時期が訪れたのです。

 ですが、そのことをうすうす感じとりながらも認めたくなかったのでしょう。王妃さまは半ば八つ当たりのように、白雪姫に怒りをぶつけてしまいます。――白雪姫さえいなければ、まだまだ私は現役でいけるのに、と。

 もちろん、世界一美しくなくても、現役でいることは可能です。ですが、長い間「世界一美しい女性」として君臨していた王妃さまには、そのことが見えなくなるくらいに視野が狭く、また頭が固くなっていたのです。

――そう、つまり王妃さまは、まだまだ十分にお若いのにも関わらず、全人類がかかると言われている恐るべき病、「老害」に感染してしまっていたのです。

  ◇

 そもそも、女性の美しさというのはなんでしょうか?

 美しさというのは、個人ごとに感じ方が違います。例えば、桜の花と梅の花、どちらが美しいかと言われて決めることは可能でしょうか。……もちろん、桜の良さや梅の良さを論じることは可能です。ですが、どちらが良いと感じるかは個人によって違いますし、そのどちらも尊重されるべき意見です。

 絶対的な「美しさの順位」なんて、この世の中にありません。そんな絶対の基準のない「美」を、誰がどのようにして順位付けしているのでしょうか。

……実は、女性の美しさというのは、女性が決めているのではありません。

 いつの時代も、女性の美しさを論じ順位をつけるのは、女性に欲望を抱く男性と、相場が決まっています。

――そして、その評価基準は多分に「若さ」と「おっぱい」と「けもみみ」に偏っている、その可能性は否定できないのです。

  ◇

 世の中にはたくさんの人がいます。そういった順位付けに疑問を持っていない人もいるし肯定的にとらえる人もいます。
 もちろん、そんな基準で女性を評価し順位をつけることを問題だと思う人もいます。女性を外見で判断することそのものに反対する人たちもたくさんいます。特に欲望にまみれた視線を多く浴びてきたであろう女性に、そう思う人は多いはずです。

 今は高度情報化社会です。いろんな人たちがいろんなことを、いろんな場所で話し合っています。だから、ある一つの意見がわきあがり、瞬く間に広がっていくのも、当然の成り行きだったのかも知れません。

――これこそが男社会の弊害だ、と。

  ◇

 なお、「男社会によって定義された女性の美しさ」を求めるのは、男性に限った話ではありません。また、その欲望の形は、誰もが考えるであろう形をしているとも限りません。

 世の中というのは、その観測の仕方によって性別や、時に次元の壁すらやすやすと超えてしまいます。だからこそ、この世の中というのは尊いのです。

……おっと、つい話がそれてしまいました。いけない、いけない。話を戻さなくてはいけませんね。

  ◇

 王妃さまにとって「美しさ」というのは、外見で判断される男社会の中で生きていくための「武器」だったのです。ですが、その武器も、年を重ねるごとに失われていきます。

――そう、王妃さまは、年をとることで自分がそれまで持っていた「美」という武器を失うのが怖かったのです。

 だってそうでしょう? 男社会の中でそれまで自分が評価される元になっていた「美しさ」を失ってしまったら、この先生きのこることができるのか、不安になってしまうのもしょうがないじゃないですか。

 だから王妃さまは、恐怖から身をそらすために、自分の容姿はまだ衰えていないと言い聞かせながら、「白雪姫さえいなければ」と叫んだのです。

  ◇

 一見すると無茶苦茶に見える王妃さまの叫びですが、世の中というのは広いものです。その叫びに同調する人たちも、世の中には結構いたのです。

――ああいう、自分から男たちに評価される格好を好んでするような女が男を付けあがらせるのだと、そんな主張をする人たちが。

……王妃さまと主張が違うじゃないかって? いいえ、そんなことは細かいことです。大切なのは白雪姫が邪魔だという、その一点のみなのです。大事なのは結論です。それに比べたら、自分が抱える主張や思想なんて、大したことではありません。正しさだの誇りだの、そんなことにこだわっていたら、他人をりよ……共闘することなんてできません。敵を狩るには、利害の一致こそが大切なのです。

 そんな、「女性に対する欲望」に関するものは見境いなく狩ろうとする「新世代の狩人」さんたちによって、なぜか同じ女性である白雪姫はこの世界から退場させられ、見えなくされてしまいます。

……見えなくされるって何? そう思われるかもしれません。ですが、世の中には「問題があるものは見えなくすればいい」と考えているとしか思えないような人というのは、結構たくさんいるものです。

 大丈夫。見えなくなれば、世の中に影響を与えることはありません。だから、自分の気に食わない人から社会的な立場を奪い、発言の場を奪う。そうして見えなくすれば、争う必要もなくなります。

――醜いものを見えなくする。痛みを感じることなく、争いも生まれない。何と見事な平和主義なのでしょうか。そう、おとぎの国は、こうでなくてはいけませんね。

  ◇

 ですが、そんな見事なまでの平和的思想を見て、「そんな横暴は許さない」とばかりに義憤を燃やす人がいます。自分のことを正しいと信じて疑わない、正義という名の劫火で悪がのたうち踊るのを見て喜ぶ、攻撃性にあふれた人たち。

――王妃さまとその同調者の行いを見て怒りを覚える「正義の王子さま」たちが、ここで物語の舞台にあがります。

 そう、表舞台から退場して眠りについた白雪姫には、王子さまが通りかかると相場が決まっているのです。

……ですが、ここで一つ、残念なことをお知らせしなくてはいけません。王子さまは困った人の前に「偶然」通りかかったりはしません。ましてや、見返りのないままに味方になってくれたりはしないのです。

 彼らは白雪姫がどうなろうが、実はかまわないのです。彼らには彼らの目的が、主張したいことがあるのです。

 彼らはこう言いたいのです。――「若さ」も「おっぱい」も「けもみみ」も、みんな大切なものなんだ! それに救われてる人はいるんだ、と。

 そして、その意見に首を傾げる人を危険視し、集団で説教を始めるのです。

 そう、これはおとぎの国を舞台とした物語で、おとぎの国の物語は平和でなくてはいけません。だから彼らも、おとぎの国の流儀にそって、正義を語り、数でその正義を証明し、……そして痛みを感じずに済むよう、王妃さまや狩人さんたちを亡き者にはせず、ただその発言力だけを奪おうとしているのです。

――そう、彼らもまた、形は違えど、見事なまでの平和主義者なのです。

  ◇

 かくゆう私も、「いつかきっと白馬に乗ったお姫さまが通りかかってさらってくれる」と夢見て、40年以上生きてきました。……そうですね、この発言をアホらしいと笑う人の方が正常だと思いますし、「そうだそうだ」なんて賛同者が山ほど出てくる世界なんて、それこそどうかしていると思います。

 それでも、こんなことを思っているからといって、誰かから攻撃されたり迫害されたりする謂れはありません。この夢を笑う人に対して、私はこう思うのです。

――わきまえてはいけない。白馬に乗ったお姫さまに願望を抱いているからといって、それは悪いことではない。なら、堂々と口にすればいい、と。

 ええ、だから私は叫びますよ。白馬に……(以下、本題とは関係ないため割愛

  ◇

 ああ、なんという、しっちゃかめっちゃかな物語なのでしょう。秩序も上品さもどこかに置き忘れてしまったかのような、とてもばかばかしい状態になってしまいました。

 でも、それもしょうがありません。だってこれは白雪姫という、王妃さまとお姫さまという新旧二人の美女が、「新世代の狩人」と「正義の王子さま」という協力者を得て、命をかけて戦争をする物語なのですから。

……白雪姫はそんな話じゃないだろうって? いえいえ、相容れない人たちが互いにその存在を見えなくしようと、あらゆる手を尽くして争うのです。それはもう、戦争と呼ぶものにしかなりません。

――むかしむかし、おとぎの国とは違う、現実の世界で。虐げられたひとたちの前で夢を語った牧師さまがいました。その牧師さまは、自分たちを虐げている人たちともいつか手をとりあって生きていくのが夢だと、多くの人の前で語りました。

 狩人さんや王子さまの言葉には、夢がありませんでした。それはきっと、「目には目を」と言い合いながら互いの目をつぶしあうような、殺伐とした話だったのです。
 それはまるで大昔のおとぎ話で語られるような、古い、夢を見ることのできない価値観です。

 彼らは口々に、自分たちが世界を前進させてきたと胸を張ります。ですが、そんな人たちが、本当に、この世の中を前に進めてきたのでしょうか?

――それはきっと違います。もっと静かに、争いにならないように穏やかに対話を続けてきた新しい価値観と夢を持った人たちが、この世界を一歩ずつ前に進めてきたのだと、そう私は信じています。

  ◇

 そして、白雪姫の物語も、ラストシーンに差し掛かります。

 再び姿をあらわした白雪姫。白馬に乗った王子さまたちの「正義の象徴」となった彼女は、目の前の、赤く焼けただれた鉄板の上で焼け踊る王妃さまを見て、上品に、美しく笑います。まるで、世界中にいる王子さまの視線を意識しているかのように。そうやって笑えば世界中の王子さまが自分に協力してくれることを知っているかのように。

――それはまるで、自分は世界一美しい女性と自覚していて、その「武器」をどう使えばいいかを、ずっと間近で見てきたかのようでした。

 そうして、白雪姫は、独り炎上し狂い踊る王妃さまの様子を、よそいきの笑顔を浮かべながら、ずっと眺め続けるのでした。

  ◇

 やがて、白雪姫は世界一美しい王妃さまとなり、鏡に向かって自分の美しさを確認しながら、今日も平和に過ごされるのでした。

 めでたし、めでたし。



 最後に。

 このお話は、1800年代にグリム兄弟が収集して出版した「グリム童話の白雪姫」をベースにしています。

 一般的に知られているであろうディズニー版との最大の違いは、やはりラストシーンでしょうか。「グリム童話の白雪姫」では、王妃は真っ赤に灼けた鉄の靴を履かされ、祝宴の中、死ぬまで踊り続けるのに対し、「ディズニーの白雪姫」では、女王は老婆に化けた状態で雷に打たれ、老婆の姿のままに亡くなります。

 ディズニーで最後の場面が差し替えられたのは、当然、灼けた靴をはかされ死ぬまで踊らされるという残虐性のためだと思います。

 ですが、「グリム童話の白雪姫」が、王妃の最後を意味もなく残虐にした訳ではないと思います。童話として、子供に理解させたいことがあり、それを寓話として成立させるためにあえて残虐な表現にしたのだと思います。

 そして、ディズニー版も、単に残虐性を薄めるために最後の場面を書き換えたのではないはずです。「老婆の姿のまま、雷に打たれて亡くなる」という描写にも、ちゃんとした意味があってそうしたのだと思います。

 童話や童歌は、時代とともに表現の方向性や許容値が大きく変わっています。今ではありえないような表現が、過去においては当たり前に使われていたりもします。

 レーティングのような、誰に見せて良いかという判断は、常にその時、その場所での価値観でなされるべきだと思います。例えば多民族国家、多宗教国家においては、それぞれの価値観で合致するかどうか判断ができるだけの材料を示すべきだと思いますし、価値観がある程度特定できるような国なら、その価値観に寄せてしまってもある程度までなら許されると思います。

 場所が変われば価値観も変わる。時代が変われば価値観も変わる。価値観が変わるのなら、正しさだって変わるはずです。

 正しさが変化したのなら、その変化についていけば良いと思います。ですが、間違いを排除して、その間違いが変化したらどうすれば良いのでしょうか。

 少なくとも今はまだ、変化と寛容が必要な時代だと、私はそう思います。

……なお、ここまで偉そうに語ってみましたが、私は「グリム童話の白雪姫」の知識はwikipedia以上のものは持っていません! そう、たいして知りもしないのに、こんなことを偉そうに語ってしまったのです!

 と、自爆したところで、以上です。
 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。



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