井の中の蛙3

“私がこうであるのは世界のせい、
       世界がそうであるのは私のせい。”


<自己と他者>

他者のための行為は結局自分の為にもなり、自分のための行為は結局他者の為にもなる。


<不信>

不信に思うためには先ず信じていなければならない。
元々信じていないものを不信に思う事は出来ないのだから。


<弱者が持ちうる唯一の武器は「気持ち」である>

これにより、自分の持つものの多くをやりたい事に捧げる。
金は無い。あるのは時間と労力。
一般の人が楽しんでいる時間や休息に当てる時間を投入できる。
めんどくさい事や忍耐を要する事もやれる。

どんなに能力の高い者でも「気持ち」が無ければどうしようもない。
全てにおいて能力が劣っていたとしても、気持ちがあれば何事をも成せると思う。

一人でも多くの人が自分がやりたい事をやれば、それに追随してやる奴も増える。
そうすれば、世の中もっと面白くなる。

でも・・、
大抵の人は、思うだけで終わってしまう。残念ながら今の所、これが現実。
しかし、これを変えたい。


<SF症候群>

「普通なら・・」「昔やったら常識・・」「○○であれば当然・・」
しかし、今起こった事が現実、たった一つの現実、それしかない現実。

『たら、れば』は未来の事を考える時のみ有用なもの。
既に起っている事に対しては全く無意味である。


<考え方によるプラスとマイナス>

ある考え方によって「喜び」を得たとしても、
その考え方によって「喜び」以上の「悲しみ」を得る事になってはどうしようもない。

例えば、
「○○が良い」とする。
しかしそれが稀な事(大抵そうだろうし、また他力本願でもあるだろう)だと、
「良い」では無い事の方が圧倒的に多くなる。
また、常に「良い」を望むようならば、それは常に不満を抱く事となろう。


<評価>

個人を正当に評価する事が出来なければ、自己を評価する事は出来ない。
そして自己を評価する事が出来なければ、自分が何をやるべきなのかが分からず無駄に人生を送る事になる。


<評価>

多くの人に評価して貰えれば、次にどうすれば良いのかが見え自己は成長する。
しかし誰にも評価されなくても、自己評価が出来れば個人は成長する事が出来る。


<芸術作品の価値>

・いままでその世界で培われてきた評価基準によるもの(=金額)。
・全く個人的な好き嫌いによるもの。
・特異性によるもの(希少価値)。
などがあると思う。
注目して欲しいのは、特異性によるもの(希少価値)である。
個人個人みな特異なのだ。個人的なものほど面白いものは無い。
当然、鑑賞者も個人で特異なのだから、相性というものがあり全て良いということは無い。
それに皆が良いというものは、100%鑑賞者個人にフィットしているとは言い難い。
自分で自分にピッタリな奴を見つけて欲しいと思う。
見つけられれば、自分の人生にとって重要なアイテムとなろう。

なぜこんな事を書いているのかというと、
人々(特に日本人)が余りにも人(他者たち)の評価に左右されていると思うから。


<ひいき>

ひいきをしない事は不平等である。
ひいきの対象がある人にだけひいきをしないという制限が付くのはおかしい。
好き嫌いを自由に表現できないのはおかしい。
特に教師が生徒に対しひいきをしないのはおかしい。
人には相性というものがあるし、ひいきがあって当然。
それが個性と言うものでもあるから。


<死ぬために生きる>

個は他の個と個を結ぶ。
また、膨大な情報を処理し、個としてより良いものを自らを通して表現する。
それは死ぬまで続く。

死と共に、種まきが終わる。
あとは、芽が出るのを祈るのみ。

死は新たな始まり。

DNA→思考(心)→情報。


<多重人格障害>

専門医の誘導(先に概念を鵜呑みにしているため)。
原因を虐待にする根拠が薄い。後退催眠の正否。
様々な仕組みやイメージの妥当性。
虚言癖の進行したものに近いのではないか(自分が意識的に作り出したものが本当にそうだという風になった)。
メディアや書物、それに専門医からの不確実な情報による深化。
心理学ではなく、医学方面からのアプローチに期待したい。


<怒る>

済んだ事を怒っても意味が無い。
怒るのは事が済んでからだ。
よって、怒るのは無意味だ。


<祇園祭>

祭りは余り好きではない。
以前、テレビで海外の祭り(多分、南米)を取り上げていたのを見た。
そこでは、年一回の祭り(地域ごとに大きなオブジェを造りパレードしてその素晴らしさを競う。)
のため、日々出費を切り詰めた生活を送っている。
たった1日のために。
私にはそれが納得行かないのだ。
祭りのための大出費を普段の生活に満遍なく振り分ければ、少しでもより有意義な生活が出来るだろうから。


<ハレとケ、ハレなんか要らない>

普段が充実していれば、特別なものなど必要ない。


<節約>

一時、ワイドショーで流行ってた節約の勧め。
物凄く出費をケチって節約をし、それで貯めたお金で海外旅行って、いったいそれで何を得られるのか?
心が狭くなっただけではないのか?


<室伏広治、銀メダルおめでとう>

負けても負けても挑戦し続けられるのは、自分自身の成長を自覚出来ているから。
そして、自分自身の成長を自覚するためには日々の努力が不可欠である。


<自己表現>

自分が表現した物は、以前の自分にとって価値がある。
以前の自分とは、すなわち自分の後進達の事である。
価値観や考え方が全く違う人には理解され得ないから。


<価値観や考え方>

この世界では、価値観や考え方が人々によって勢力争いをしていると言える。
そして単純に考えれば、価値観や考え方は時を経るごとに洗練されて行く様に思えるのだが・・、
実際にはそうでもない。
現在、アメリカやヨーロッパでは人々の科学離れが社会問題になっており、
それに伴い、カルトや超常現象、それにインチキ健康食品などが蔓延している。
そしてここ日本もまた・・・・。

これを何とかするためにも、
一人でも多くの人が、自分のやりたいことをやるって事が必要。
何をやるにせよ、そのために多くの事を知らなければならないし、考えなければならない。
そうすれば、誤った情報や考えを見分ける力も付くだろうから。
それに、容易に出来ない事柄であればあるほど、他者の協力が必要になり、
協力してもらう事で他者の(個人としての)価値というものも生まれる。

「まず自分がやらないと、“やる気の連鎖”は始まらない。」

意図せずとも自己の行為は周囲の人に影響を与える。
ならば、意図的に行動する事で、その影響力を強められる。

周囲の人への影響とは、自分の行為を肯定的または否定的に受け取られるという事。

既に同じ様な価値観や考え方を持っている者相手であれば大抵肯定的に受け取られるだろう。
が、そうでなければ否定的に受け取られ易い。

他者の価値観や考え方を訂正させようとする。
訂正させようとするという事は自分と相手の価値観や考え方が違っているという事。
価値観や考え方の違う人に何か言っても、ほとんど否定的に受け取られる。
だからまず、コミュニケーションを取れるようにし、
その上で数少ないであろう共通の価値観や考え方を元に話を展開していかなければならない。
しかし、まずコミュニケーションというのが驚異的に難しい。
結局の所、相手が幾らか歩み寄ってきてくれるまで待つしかないと思う。
無理に追っては、逆効果となるだろうから。


<メジャー音楽業界>

メジャーは多くの人が働いているため、十分な売上が必要となる。
しかも、マーケットはほとんど日本のみ、しかしアメリカとなると桁違い,
それほど人気が無くてもマーケットのデカさで物凄い大金を手にする事が出来る。
そのため、特に日本のメジャーではマーケティング調査などにより、
確実に売上を確保できる作品が、しかもコンスタントに製作される事を求められる。

そこで良い曲というのは、既存の価値観に依存したものである。
“良い”という事自体、既存の価値観、過去の経験によって決められている。
生活においてはそれで良い。
が、芸術という事になると違ってくる。それは単に保守的という事に過ぎない。

そしてメジャーでは、その保守的な作品を大々的に宣伝、露出する。
消費者は個々の価値観を持っており、それぞれに相性の良い作品があるはずで、
労力を惜しまず探せば見つけられるだろう。が、その労力を惜しんでしまっている。
探さなくても、それなりのものが目前に提示されているから。
そして、知っている人が多ければ多いほど、その作品が良いと言う人が多くなる。
10人の人が知っていて10人が「良い」と言うよりも、
1000人の人が知っていて100人の人が「良い」と言っている方が、
結局支持している人が多いと言う事になってしまうのである、たった1割なのに。
日本人特有?の、「みんなが良いと言ってるから良い」という感覚により同調。
それにより、この保守的な作品がまた次の作品に反映されるという悪循環が生まれる。
メジャー業界にとっては好循環。

ある種、カルトやな。
まず、価値観を誘導しておいて(マインドコントロール)、
その価値観に沿って作られた著作物を売り付ける。
それが良い物だと思う様に誘導された者は、それが出版されるたびに購入する。
出版者は安定した利益を約束される。


<ヒーリングミュージック>

気分的に癒されても、現実的な問題が解決されなければ、またダメージを受けてしまう。
そして、それを癒すために聴く。
この循環自体は悪循環とまでは行かないが、
この循環のせいで自分の人生にとっての有意義な行動が阻害される。

元々ヒーリングミュージックとして作られていない曲が、
販売戦略のためにヒーリングミュージックとして取り扱われている事が多いと思われる。


<参拝>

靖国神社参拝、何がダメなのか?
なぜ、そんなに過去にこだわるのか?
今の価値観で過去を判断するのにどんな意味があるのか?


<花火大会の事故>

人のせいにして恨むより、自分のせいにして後悔する方が良い。
「恨むぐらいなら後悔する方が良い。」
後悔する方はその後、前向きに生きれる可能性があるから。
恨むのは、市や警察、警備会社を訴えるぐらいで、しかもそれに勝ったところで、気が晴れるわけでもないだろう。
後悔し同じ事が起らないために自分が出来る事は何か?と考え、
例えば、イベントをより安全に楽しんでもらうためのボランティア組織を立ち上げるとか、
簡単にはネットで観客に向けてイベントの注意事項を発信したり、
市や警察にも事前に調査資料を提示したりも出来るだろう。


<こずるい行為は自爆系の諸症状の1つ>


<「覚めない夢はない」か?>

覚めたから、それが夢だと分かる。
しかし、夢を見ながら死んでしまったらどうか。
・・・、実はそんな事は起らない。
覚めていないのだから、それが夢だと分からないから。


<「ゆるせない」では自爆する>

他人を傷つけようとすると、必ず自分も傷つく。
自分を傷つけようとする他者は、傷つく。

他人のための行動は、結局自分のためにもなっている。
自分のための行動は、結局他人のためにもなっている。


<音楽>

まず「聴く」という事について述べたい。
元々聴覚は視覚の補助的な役割を果たしており、視覚情報は形状・位置・色をほぼ確実に把握できるが、
範囲は狭く1つ壁があるだけでその向こうの事は全く分からなくなる。
それに対し、聴覚情報は不確実ではあるが、視覚では無理な範囲をカバーしている。
つまり、見えないものを音から推測するという事。
当たり前の事なのだが、これが音楽を他の芸術と比べて特異なものにしている点なのだ。

現代に生きている人達は、日常生活の音だけでなくテレビや映画などでBGMの付いた色々な場面を経験し、
また感情に溢れた歌詞が乗った曲を経験する。
だから、曲から場面をイメージするし、現実に見る事が出来ない感情を感じる事が出来る。

音楽は様々なイメージを喚起させたり精神状態を変えたりする力がある。

少し脱線。
ファンタジーの世界には吟遊詩人(バード)と言う職業がある。
彼らは歌を歌ったり、楽器を演奏する事で魔法と同じ効果を生み出す。
このアイデアを考え出した人、それを支持した人がいたからこそ、現在こうした地位を得ている。
つまり、そういったイメージに違和感がなっかたということである。

戦線復帰。
CMで何かクラシックの重鎮?が「色んな曲を聴け」とかって言うとったなぁ。


<発言>

「価値の無い人間なんていません!」これで一体何が言えているのか。
結局、発言者にとってはそうだという事でしかなく、聞き手にとっては何の意味も無い。


<アメリカ同時多発テロ事件>

事件直後から朝までテレビにくぎ付けであった。
というのも、物凄く面白い事が起ったと感じたからである。
面白いと言うのは、興味深いと言う意味である。
誰がどういった考えでやったのか?
これからどうなるのか?

それから、時間・日にちが経つにつれ、色々な事が分かり色々な事が起った。
アメリカは報復をすると言う、しかもテログループを支援する組織や国をも対象にすると。
どれぐらいの規模でどこまでやるのか?報復後の宗教及び人種問題はどうなるのか?
もっと、えげつない事にはならないのか?

一部のイスラエル人が喜んでいる映像が流れていた。多くの人が亡くなった事を喜んでいる。
アメリカの人たちも報復により、無関係なアフガニスタンの人々が死ぬのを見て喜ぶのか?

今現在でも、ビンラディンに似ていると言うだけで殺害された人、
友人にインド人がいるというだけで刺された人、イスラム教徒というだけで襲われた人々がいる。
こんなアホな事が起っている、というか今だこんなアホな奴がいるという事が残念。
「You Must Learn」ですな。

早く宗教なんか無くなれば良い。
自爆したら天国に行けるだとか復活できるとか、信じてしもたら容易に自爆できてしまう。
思想ってだけなら立場の違いや価値観の違いと言う事で済むところが、
宗教になると絶対的な正しさを強いるから、価値観の相違は即悪や敵となってしまう。
一般的な宗教なら割と寛容だからあってもかまわなないと言えそうだが、
常にそこから極端なグループが生まれる危険性があるので、全て無くなる事が望ましい。

世界を変えるには、そこにいる人々の考えを変えて行くしかない。
力わざでは、結局力によって崩壊する。
力わざ(テロ)は結局、自分や仲間を追い詰める事になってしまう。


<人は人と人を繋ぐために生きている>

意識しようがしまいが、結果的にそうなっているのだ。
個人は時間的に前の人と後の人、空間的に右の人と左の人とを繋げる、「繋ぎ」なのだ。
個人は生きていく中で、様々な人から影響を受け、少しずつ自分なりの考えを作り上げていく。
自分とは、様々な人の色々な考えを少しずつ組み合わせて出来ている。
言わばフランケンシュタインが作ったモンスターの様なものだ。
そして自己にとって有益な考え方は、当然それを持つ者を良い方向へ導き、
さらにそれは手本となり人々に広がる。
がぁぁぁぁぁぁぁ、残念な事に今だに感情に左右される人や目先の事しか考えない人が多い。どうすれば良い?


<人は履歴>

その人が何を考え何をやったかという事がその人自身だ、と。
その人についての記録・記憶がその人だと思う。
だから、その人が生きている内は履歴が更新され、死んだ時更新が停止しその人が確定する。
死んだ時、個人は完成する。


<運命>

運命に逆らう事は出来ない。
何故なら、運命は済んでからでしか分からないから。
分からない物に逆らう事は出来ない。


<「何のために生きるのか?」とか「何のためにやるのか?」>

何かのためでないと、なぜいけないのか?
何かのためであっても良いし、何のためでも無くても良いのではないか?
理由なんかどうでも良いと思う。
何となく生きても良いし、単にやりたいからやるでも良い。
それは、何となく空を見上げたり、歌を口ずさんでみたりするのと同じ事。

最初の問いは、既にそうである事に、後から理由を探そうとしていて、
かつ見つかっていないからこその問いである。それは、元々たいした理由が無かったという事だ。
(答えが分からないと言うのは、“答えが分からない”という答えが分かっているという事)


<無いものを見つけようとしてはいけない>

なぜなら、それには捏造の可能性が生まれてしまうから。
(夢に限らず、人は欠けた部分を適当に補ってしまう能力が備わっているから)


<理由は行動に先行していなくてはならない>


<用務員室(2001.10.24関西テレビ)>

静岡の小学校の用務員さんのドキュメント。
用務員の持つ悩み事の中心は教師や生徒との関わり方。
専門家である教師を前に、生徒にどこまで口を出して良いのかなど。
取り上げられていた小学校では、
生徒のみならず教師も情報収集を兼ねて(特定の教師だけかもしれないが)用務員室にやって来ていた。

教室に行きたくない生徒や授業を飛び出した生徒が用務員室にやってくる。
少し前までは担任の先生が来て無理に教室に連れて行ったが、
今では用務員室に様子を見に来て無理そうであれば用務員さんに託す。
託された用務員さんは話をしたり自分達の仕事を手伝わせてみたりする。
最近は授業を飛び出したり、学校を飛び出したりする新入生が増えていると言う。
そういう生徒が出たときには自転車に乗って探しに行く。

現在、不況の影響から用務員の人員削減や民営化が進められようとしている。

ある教師が生徒に「先生には何を聞いても話をしてくれないのに、
なぜ給食のおばさんとはそんなに良く話すのか?」と叱っているのを見た、とある教師が語っていた。
「用務員室にいる時、生徒は本当の姿を見せる。」とも語っていた。
教師は6年間同じ学校に居る事が少ないが用務員はずっと同じ学校にいて、
特に上手く溶け込めない生徒の事を良く知っているという貴重な存在である。

自分の子供に胸を張って言えない仕事だと言う。全くそんな事はないと思う。
そういう風に思わす方がおかしいのだから。


<親しい人の死と赤の他人の死は同じ>

私が、そう思うのはなぜか?
同じ人だから。それもある。
肉体の死が個人の死ではないから。
というのも、私が気に入っている人たちの多くが死んでいるし、また出合った時には既に死んでいた人もいる。
彼らとは彼らが形にして残したものを介して話をする。

人は肉体を通して外界とコミュニケーションをする。
話す事や行動する事で、自分の思いを伝える。
そこには自分の思いや考えを何らかの形にして残すという事も含まれる。

肉体は自分をリアルタイムで表現する道具である、と。
リアルタイムだからこそ、その時々の状況に応じた細かい表現が出来る。
そかし、リアルタイムだからこそ、その表現は刻々と変化し、後に残らず記録されない。

他者の肉体の死とは、リアルタイムでコミュニケーションする機会を失う事であり、またその人の記録の更新がストップするという事。つまり編集完了、晴れて完成という事。

自分にとって自分の死は全ての消滅。
しかし、自分の持つ有益な情報や考えは他者の中で存続する事が出来る。
自分の役に立ってくれた情報や考えを、死ぬまでになるべく多く残しておきたいと思う。


<熱>

論理的に考えて行動する事が大事だという事を伝えるには、聞き手が前提として熱を持っていなければならず、
もし持っていなければ先ず熱を持ってもらわなければならない。

だから、私は『ONE PEACE』に惹かれるのです。
そこには現実世界で死に絶えようとしている夢や希望、それに熱があるからです。
夢や希望が死に絶えようとしているのを実際に目の当たりにすると絶望感に襲われる。
しかし、私は諦めない。サンチャゴが諦めなかったように、私は諦めない。

無理でも頑張るのでは無い。無理では無いかもしれないから頑張るのだ。


<積み木>

死ぬまでに1つでも積む事が出来たなら、そこには積み木が1つ残される。
そうすれば、次の者はそこから積み始められる。
1つでも多くの積み木を積めたなら、次の者はより高い位置から始められる。

昨日までに積んだ積み木は、今日の自分が受け継ぎ更に積み、明日の自分へ受け渡す。


<忍耐>

じっくり事に当たらなければならない。
お互いにお互いの事を知らないのだから。
何も話さなくても何度か顔を合わしていると、その人の印象はハッキリしてくる。
相手に対して特別な事をする必要は無い。
好意は何となく伝わるものだから。
無理をしてはいけないし、計算してはいけない。
それは、相手に違和感を覚えさせるから。
心の歪みは何らかの形で相手に伝わるものだ。
当然、マナー違反はいけない。


<相乗効果>

AがBに対して他の人より+0.1敵対心を持って接すると、
Bはそれを敏感に感じてAに対して他の人より+0.2敵対心を持って接する。
Aはそれを敏感に感じてBに対して他の人より+0.3敵対心を持って接する。
Bはそれを敏感に感じてAに対して他の人より+0.4敵対心を持って接する。
Aはそれを敏感に感じてBに対して他の人より+0.5敵対心を持って接する。
Bはそれを敏感に感じてAに対して他の人より+0.6敵対心を持って接する。
                     ・
                     ・
                     ・
                     ・
そして、二人は完全に敵対する。
(「敵対心」を「好意」に換えれば正反対の結果が出る。そしてこの場合、相乗効果が全く生じないならば、それは相手が自分に対して全く興味が無いという事である。)


<アドバイス>

その人が見落としていると思われるメリットとデメリットを伝える事。


<見る>

単に「見る」というだけでも、それまでに蓄積された知識によって対象から喚起されるものは異なる。


<欲が足りない>

強力な欲があれば、それは突進力になる。


<表現>

表現は様々なパーツの組み合わせ。
言葉を組み合わせて文章を、音を組み合わせて曲を、色や形を組み合わせて絵を作る。
さらに、組み合わされて出来た物同士組み合わせる。
結局、何が言いたいのかというと、サンプリングやコラージュがもっと認められ、
もっと多くの人が自由に表現できるようになったら良いなぁ、と。

それに知識も。
数学のように、色々な式を組み合わせて公式が作られる。
そうすれば、めんどくさい計算作業を公式により一発で解決できる。
さらに、公式と公式を組み合わせてより複雑な問題を容易に解く公式を生み出す。
そして、さらに・・・、と。

サンプリングやコラージュの問題は著作権。
作った人に対しての配慮は必要。
何文字幾ら、何秒幾らという形で、販売出来るようになったら良いんやけど。
ほんなら、色んな文章組み合わせて物語を作るとか(これは無いか)、曲やアートは言わずもがな、
映画なんかもカット&ペーストで面白いもんが出来るんやないかなぁ。(色んなホラー映画の切り貼りしたいなぁ。)
でも、正規で入手したものかどうかの判断をどう付けるのか。
ネット上でソフトなどの不正入手が横行している現状では、成立しない。
もし、何か良い方法を見付けられたなら商売になるんちゃう。誰か頼むわ。
それから生まれる恩恵は計り知れへんからね。買いまくるでぇ~(安くしてや~)。


<挫折や絶望は、必死で努力した先にしか無い>


<規制>

他者による規制は、見えているものだけだが、自己による規制は、全てを網羅する。


<信じているモノと信じている者(宗教や常識など)>

信じているモノが誤っているとしても、それを信じている人を軽視することは出来ない。


<能動的に生きる>

自分の為に努力する人は、今何が出来るか、次に何をすれば良いのかを常に考えているから、
「生きるのに疲れた」だの「面白くない」だの「ムカツク」だの、つまらない考えを抱かない。


<納得行かないモノを納得する>

納得行かないモノは「納得行かないモノ」として納得する。


<物>

物は壊れたり無くしたりするし、数量的な限界もある。


<超魔術師マリック(情熱大陸より)>

工房と呼ぶ部屋でマジックを考える。
大き目の勉強机とベット、
それに壁際には本立てがずらりと並び、日本で出版されたマジックの本は全てあると言う。
休みの日には、そこで眠たくなるまでマジックの事を考え、眠たくなったら眠る。
日本中をライヴツアーで周り、テレビにも出演。世界のマジック市にも勉強のため出かける。マジック一筋。

表には現れない部分で膨大な労力が支払われている。それらが表に現れたほんの一部をしっかり支えている。


<信じる人たちへ>

可能性があるからと信じるのなら、そうでない可能性があるから信じない事も出来るのではないか?
可能性があるからと信じるのなら、ありとあらゆるものを信じなければならない。
究極の“取らぬ狸の皮算用”だ。
通常なら、当たってもいない宝くじが当選したらどうしようかと考える事を指して使われる。
これは、それ(宝くじ)に付いてだけの事なのでそれほど大した事は無いけど、
究極の場合は、全ての起こりうる可能性のあるものに付いてあれやこれやと考えなければならず、大変な事になる。
何かの本に書いてあった、自分が行動すると起こりうる不都合とその対策を延々調べあげ続けて、全く動く気配を見せないロボットの如しである。


<「どうして子供は勉強しなくちゃいけないんですか?」>
え、そうなん?


<ミスを隠す>

ミスを隠すようになると、隠す事に依存してミスが減りにくい。
公開しておけば、一緒に仕事をしている人の目が気になるし、事前に(又は事後に)チェックして貰えもする。

隠すと本体を傷つけなくて済むので良い様に見えるが、しかし、それは自己の抵抗力の低下を促進させる。
そして、隠し事がバレた時、抵抗力の弱まった本体は大きなダメージを受ける。
恐れや不安が膨らみ、隠さないと居られなくなる。という悪循環。

何となくこれが浮かんだ。↓
『思想は多くの反対意見にさらされる事によって強化される。』


<あの人のあの行為を批判するあなたのあの行為は?>


<あ~、国会議員になったのは、それがしたかったからか。>


<オリンピック>
つらいねぇ。
やっぱり結果を望む傾向があるからねぇ。
まぁ、物凄く過酷なトレーニングこなして来た人たちやからしょうがないか。
色んなモン諦めて、それに注いで来たんやから。
いや~、マジでキツイわ。
多くの敗者を生む大会。
神戸の震災やセンタービル破壊なんかと同じ感じ。
皆が、自分にとって最高のパフォーマンスが出来れば満足!ってなれば良いなぁ。
もしそうなったら、積極的にオリンピックを見たいと思う。
全選手が全選手を応援できるようになったらなぁ。


<円広志が高級魚ではなく、メダカが好きな理由>

メダカを眺めていると、その向こうに川や山が見えてきて気持ちが和むからやって。


<『ONE PEACE』 読んでますかぁ~(読んでない可能性大)>

(ま、読んでるとして)良いでしょ。SBS質問コーナーが効いてるでしょ。
これ読んで影響を受けた子供らが将来何をしでかしてくれるんかと思うと、嬉しくなるでしょ。

ね、現代において成立する、数少ない理想的な教師像が見て取れるでしょ。
面白い事に、教師という職業に就く事によって、本来教師がやるべき事(生き方を教える事)が出来なくなる。
現在、教師として機能しうる為には、“教える”という形態をとらない方が良い。
文化・芸術によってメッセージを“伝える”、あるいは自らの生き様を“見せる”というのが有効だと思う。


<イスラエル・パレスチナ>

争いを望まず徴兵を拒んで牢に入れられた青年は、父親に「こちらが何もせず、敵の思うがままになっていると、
この国がなくなってしまう。そうなっても良いのか。」と言われ、
「それで争いがなくなるのなら、それでもかまわない。」と答えた。(番組不明)

入植地付近の警備についていてパレスチナ人に殺害された兵士の母親は、
「私個人としてはパレスチナ人を憎んでいません。だって、ディビット(息子)個人を狙った訳ではなく、
自分の信じているもののために戦ったのですから。寧ろ憎いのは、今のこの国の状況です。」
そして自爆テロについては、
「娘は国の為に死んだのだと言って誇りに思っても、子供を無くして悲しくないはずが無い。
命をかけるに値する土地なんてないという事に気づくべきです。」と。(『きょうの出来事』より)

(上記の取材に当たった今泉記者のリポート。)反戦運動の主な主張は、ユダヤ人入植地の放棄です。
入植地はイスラエル全土に140ヶ所ほどありまして、イスラエル・パレスチナ双方の戦闘が絶えません。
そこに住むユダヤ人にとって見れば、その土地は先祖が住んでいた自分達のものでありますし、
パレスチナ側から見れば、その入植地の存在そのものが占領以外の何ものでもありません。
そうした中、入植地を放棄するべきだと言う声がユダヤ人の側から出てきた事は注目に値します。
どんなに軍事攻撃をしても自爆テロはなくならないどころか、かえってその勢いを増していまして、
力では問題は解決しないという事に、少なくとも一部の人は気が付き行動を起こすまでになったと言う事です。
こうした動きはまだまだ少数派で、政治を動かすには程遠いというのが現状ですが、
今後の和平に向けた一筋の光として期待されます。(『きょうの出来事』より)

アラバスタ国王が言ってた、「国とは“人”なのだ」って。(『ONE PEACE』より)


<分かる?>

あなた達は、なぜ、分かり得ないものを分かろうとするのですか?
あなた達は、分かり得ないという事を分かろうとするべきではないのでしょうか?


<建設的な議論をする為には、情報公開が不可欠>


<楽しみ>

能力UPに応じて、得られる楽しみは広がる。
一人の人間が死ぬまでに全人類の持つ能力を全て手にする事は出来ない。
死ぬまで能力UPに努めるならば、常に新たな楽しみを楽しむ事が出来る。


<老人ホーム>

入居する前、精神的に弱っていた老人は、
入居後、自宅から持ってきた草花の世話を「仕事だ、趣味と実益を兼ねた仕事、皆に見てもらうために。」と、
楽しそうにやっていた。
他の入居者達も「話し相手がいて、楽しい」と。

一人暮らしは良くないのだ。


<福祉対象者>

最終的には自給自足。
消費物ではなく、自分達で何とか出来るようにするためのものを。
無人島を提供するとか。

老人介護を老人が、障害者をサポートするボランティアを障害者が、援助される側の人がNGOで働いたり。

福祉の対象となる人達の労働を援助。生産物を優先的に購入、金銭的援助と免除など。


<『この先、良い事なんて何も無い?』と自殺。(by夢のカリフォルニア)>

「良い事」とは何か?
現時点で未来を知ることは出来ない。
何があるか分からないのだから、「良い事なんて何も無い」などとは言えない。
「良い事」は自分で生み出すもの。
自分や世界を良くするのは自分自身。


<人>

確実に分かるのはそれに費やされた労力。
センスや感性など感覚的なものの良し悪しは人それぞれなので不確実。
自分ならそんな事に、それだけの労力を注がないものに対して注いでいるという所に注目して欲しい。

世界をより良くと願った科学者や哲学者たち、それに芸術家たちが、
死後100年後に1日だけ復活して世界を見れたら良いのになぁ。


<自己>

自己とは、個人が持つ様々な物事に対する捉え方・考え方の総体の事。
(便宜上、「一つの事柄に対する捉え方・考え方」を“部分”と呼ぶ事にする。)
私の持つ“部分”は、過去・現在の人達から受け取ったものとそれらから生み出されたものであるため、
世界中の多くの人達も持っている。
類似する“部分”同士は単一の人に固まり易く、私と同じ“部分”を持つ他者を見つけたならば、
その他者はもっと多くの私と同じ“部分”を持っている可能性が高い。

私の“部分”は世界中の人々の中にある。
私の肉体は私の“部分”が繁栄するのを補助する。
私の肉体が失われるという事は、私の“部分”の繁栄の補助をやめるという事。
私の肉体が死んでも、私の“部分”は生き続ける。


<あなた>

文句を言うあなたが何とかして下さい。
無責任だと責めるあなた自身はどうなんですか。


<わがまま【我が×儘】>

[名・形動]自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。「―を通す」「―な人」

“自分の思いどおりに振る舞うこと”って、すべての人がそうでしょう。


<徹底的に利己的になる>

状況判断をして、
そこから得た情報を分析し、
自分にとって、もっとも利があるものを選ぶ。

この能力が高いほど、自己が得る利が大きくなる。
利益追求、強欲、それで良し!
つまり、日々これ精進!


<『航海日誌』を読んで>

P25の図の空欄自体無い。
「他人の感じているその感覚」の『その感覚』と呼んでいる時点で既に、空欄が想定されてしまっている。
『その感覚』何てものは無い。箱の中の甲虫。

人は先ず沢山の事を手放しで受け入れている。
そうしなければ、「アキレスと亀」のようになってしまう。
現実は仮象。混沌に浮く孤島。
ある地点からいきなり始まっている。地に足はついていない。

人は安易に物事と物事を結びつける。信じていないと言いながら、ゲンを担ぐ。
時間的に連続しているというだけで、因果関係があると考える。
これは、動物にとって大事な事。
敵の接近や食物の場所などを知る上で的確に因果関係を見つけられれば、生き残り易くなる。
生物学で、様々な動物で条件付けの実験が行なわれている。
ハトですら、関連を見つける。が、正確を欠く。
人はこの能力の発達したからこそ、色々な事を考える事が出来る。
前に会ったあれとこれが同じだから今回もああなるだろうから、自分はこうしとこう、とか。

人は特に顔を認識する能力が高い。
そのため、顔でないものまで、顔だと認識してしまう事がある。壁の染みや木々を射す光の陰影など。

分かる方法が無い場合は「分からない」ではなく「無い」のである。

大森さんの考えには十分納得が行く。
他人の痛みが分かるのは、自分と同じだと類推してしまっているから、それで特に問題ないからだと思う。
それについてあえて考えたら、問題があった。
しかし、大森さんが納得の行く答えを披露して下さった。

無いものは無い。
マグリットの「人間の証明」である。
あのキャンバスの向こうはキャンバスに描かれた絵と同じかどうか分からない。
のではなく、キャンバスの向こうは無いのだ。


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