詩集『異なるものの結合』
まえがき
この詩集は、私が20代前半から40代前半までに書いた詩をまとめたものである(2023年現在、45歳である)。約20年の開きがあり、その間に私は感受性も考えも幾分変わってしまったので、詩の内容とスタイルに大きな変化がある。したがって、若い頃に書いたものと中年になって書いたものを別々の詩集にすることも考えてみた。だが、俯瞰してそれらを眺めてみると、青年期から中年期までの心の旅路がよく見て取れるところもある(書いた年齢順で作品をきっちり並べたわけではないが、後半のポジティブな詩は40歳前後で書いている)。悩む青年が色々な経験を経て前向きな大人になっていくという流れだが、ベタな展開だと思いつつも、実際にそのように人生観が変わったのだから仕方がない。また、表現の内容とスタイルは変わっても、大きな流れで言うと一貫したものがある。異なるもの(他者や、自分の中の他者など)との向き合い方だ。異質なものとの遭遇は不幸の種にもなり得るが、幸せの種にもなり得る。どちらになるかを自分で全部コントロールできるわけではないが、幸せの木に育て上げる努力をすることはできる。
とはいえ、もし私が多作の人であったなら、このように20年分の詩を一つにすることはなかったであろう。この詩集の中で一番最近書いたものですら数年前のものなので、まとめる作業に取り掛かることにすら数年を要した。では、それだけのろのろとしていたら、さらに数年後でも良いだろうに、なぜ今まとめるのか。それは、そろそろ本気で死を見据えた準備が必要な年齢に差し掛かったと感じるからである。最近、身内では実母が脳梗塞で倒れ、意識はしっかりしているものの、右足が少し不自由になった。妻の父は、癌を患っている。私は小さいころに事故で死にそうになったことが三度あって、死については強く意識して生きてきた方だと思うが、それでも歳を重ねると、そのリアリティーがさらに差し迫ってくる。急でないことは後回しにするだらしない性格の私でも、せっかく書き溜めた詩を少なくともネットには残しておこうという気になってきた。
残したところで、誰一人真剣に読んでくれないかもしれないが、もし読んでくれる人がいたら喜ばしいことである。詩は、ひどく個人的なものであっても、社会の問題を否応なしに孕んでいるものであり、そのため個人を超えた社会的意義へと昇華され得る。そしてそれは他者とのつながりを通してだけ可能である。だから多少恥ずかしくても人前に並べるべきだと思う。
用語解説
詩の副題に「反転」という言葉をつけたところが多々ある。それは、他人や自分の既存の詩の言葉を対義語・反対語に書き換えた作品という意味である。そのような試みをする理由については回想編の「対立の調和」と「対立するものの一致」という詩の中で表現している。
回想編
異なるもの
憎しみと排斥の霊が世界を徘徊している
大通りでは高ぶる敵意が靴音を立て行進し
街角からは結集する不安の吹き溜まりが
唾を吐き、斬りかかり、火をつけている
異なるものに
異教徒の家と服には
卑しい印がつけられ
異なるものは
敵なるもの
逆なるもの
善に対する悪と化す
その抹殺は正義と化す
隠れる子供たちは怯え
膝を抱えて守るその胸には
深く、熱く、真っ黒に
傷が焼き付いていく
救いの神を求め懇願しても
手は差し伸べられず
人間に都合よく呼び出された
操られる偽りの神だけが
先頭に立ち
殺戮を命じている
もはやそこに愛を説いた神はいない
敵をも愛せよと説いた神はいない
自分を磔にした者たちさえ赦した
あの神はいない
明かりを消した地下室
逃げ込んだ若者は
荒い息を押し殺し
虚空に問う
教えてくれないか
互いに異なるものが
敵ではなく
悪ではなく
愛すべきものと化す
魔法を
教えてくれないか
異教徒、異民族、
異なる価値観が
忌まわしいものでなく
愛おしいものと化す
科学を
返ってこぬ答え
神々の沈黙
教えてくれぬのならと
若者は目を閉じ
心の中で答えを追い求める
理想郷Ⅰ
目を閉じると浮かぶ
幼い頃 遊んでいた広い草原
遠く聞こえる寺院の鐘の音
手を振りながら走ってくる幼なじみ
世界は美しかった
暖かい日差しに輝いていた笑顔
遊び疲れ 寄せ合った肩
夕暮れの帰り道
僕らは摘んださくらんぼを口に含み
丘を夢中に駆け降りた
下に見えていた黄金の運河
オレンジ色に輝く異国の木造船
そして君の走っていた横顔
着いた薄暮の広場には
子供たちに囲まれた
踊る道化師
僕らも一緒に踊った
跳びはねる音楽、波、風
世界は全て宴だった
夜空には花火が打ち上がり
市場には異国の商人たちが広げる
色とりどりの宝石、細工品、香辛料
まるでエメラルドを撒いたような
森林の奥へとつながる並木道は
僕らを深い夢の世界へと連れて行き
蛍の光る 誰もいないところで
僕らは夢のように寄り添い
深い深い眠りについたのだった
理想郷Ⅱ
耳を澄ませば聞こえてくる
穏やかなさざ波
涼しい潮風のささやき
歌っていたその声
君の笑顔は美しかった
楽しそうに話していた唇
遠くを眺めていた瞳
日暮れの海岸で
僕らは手をつなぎ
桟橋の上を走った
眩しく広がっていた黄金の海
赤い夕陽 黒い雲
そして君のなびいていた髪
夜に着いた街角では
大道芸を繰り広げていた
ひょうきんな曲芸師
僕らも一緒に手をたたいた
絶え間ない笑い、歓声、歌
世界は毎日が祝祭だった
頭上には花と風船がいっぱいで
露店には料理人たちが並べる
異国の料理、果物、お酒
まるでサファイアを撒いたような
薔薇の庭園へとつながる細道は
僕らを遥かな予言の世界へといざない
月の照らす 誰もいない場所で
僕らは死んだように抱き合い
遠い未来のことを囁き合ったのだった
回想Ⅰ
白い吐息は冬の祭日を告げ
街に一つずつ飾られていく灯り
晴れた道は活気づいて
遊び回る子供たちの笑い声、寺院の鐘が
聖なる和音となって響き渡る
雪に覆われた純白の広場には
行き交う色とりどりの靴、服、帽子
片隅で大道芸が始まって
雪に滑るピエロが笑いを誘い
虹色のシャボン玉を吹いている
広場から続く波止場を眺めると
青く広がる海峡
幾つもの貿易船が浮いて
渡り鳥の群れが
白い積雲へと遠く飛んでいく
回想Ⅱ
あの日、
街は殺戮の場と化した
松明の行列が続き
異教徒たちは暗い角に追い込まれ
かれらの神殿とともに焼かれた
恋人や親子が
焼却炉で溶けて
骨と骨が結ばれた
名前を叫んでも見えなかったその姿
響き渡っていた悲鳴と泣き声
気が付くと夕暮れ時
海峡の向かい側の丘、古城、寺院が金色に染まり
夢のような光の中で恋しい君が笑う
君がいなくても 何もなかったかのように
美しい運河が流れるこの街
対立の調和
瞼を開くと
明かりのない地下室
闇に目が慣れ
積み上がった本
蝋燭、マッチが見える
追手の気配に注意しながら
蝋燭に火を灯し
本を開くと
細かく記録された人類の歴史
哲学においては矛盾を経て知が拡大し
陰陽思想においては相反する陰と陽が調和を生み
錬金術においては逆なるものが結合して金となり
宗教においては善と悪の戦いを通して経典が展開し
科学においては対抗する学説が検証と発見につながり
政治においては進歩と保守の対抗が議論と改善につながって
経済においては資源の集中と配分の試行錯誤が経済発展につながる
どうやら対立するものは
苦だけでなく相乗効果をも生むらしい
ならば、対立するものが破滅ではなく
相乗効果を生むようにすれば良いではないか
そのためのルールを打ち立てよう
そう、異なるものがお互いを排除せず
相乗効果を生み続けるためには
異なるものを排除する試みだけを排除せねばならない
だがどうすれば排除を排除できる?
おそらく、異なるものの相乗効果を実際に証明し
それを人に納得してもらわねばならない
多元主義が、活発な交易が、異文化交流が、
精神と物質を貧弱化するのではなく
むしろ豊かにする条件を解明せねばならない
ならば文学でもそれを実験してみよう
異なるものや逆なるものを表現に取り入れよう
詩と散文と経典と寓話を混ぜよう
絵画と音楽と哲学と詩を混ぜよう
他人と自分の作品を対義語で逆なるものにしよう
言葉をランダムに組み合わせよう
それで従来の自分にはない表現を生もう
他者の作品の解釈を豊かにしよう
過去の自分と現在の自分が、
他者と自分が、
異なるもの同士が、
相乗効果を生むようにしよう
そう、真摯に向き合い、交わるのだ
お互いに排除しようとしない
異なる、逆なる、対立する全てのものと
対立するものの一致
死を語らずには生を理解できない
生を語らずには死を理解できない
死を語ることで生をよりよく理解し
生を語ることで死をよりよく理解できる
喜びの表現を裏返すと悲しみの表現になり
悲しみの表現を裏返すと喜びの表現になる
喜びの表現の中に悲しみの原因が示され
悲しみの中に喜びのヒントが示される
逆なるものは通ずる
言い換えれば
対立するものの一致、
Coincidentia Oppositorum!
誕生編
神々 -ゲオルク・トラ―クル「人類」の反転-
花を差し出す神々
その沈黙の宥め、眩しい光背
治癒を待つ間、白いそよ風が吹く
希望、そして嬉しい現実の朝
それは神の威光、育み、清き献身だ
雲の合間から覗く太陽、真昼の宴だ
いきいきとした躍動感が人々から溢れ出、
そこに宣教師はいない
憎悪の兆しの中、目覚めつつ彼らは眠る
神を信ずる者は、奇跡の証しから足を遠ざける
黎明
黎明の中
目覚めた赤子
蛇に抱かれ
そっと眺める
楽園の樹木
小鳥の静かな囀り
平穏が永遠に続くかのように
心は安らかで
広げた手の中には
世界の眩しい光が
目には世界を照らす光が
蘇った人類の全ての記憶を
その偽善と欲望と原罪の
深く刻まれた額を
苦しく焼き付け
血に染めるのだ
血で洗い流す輝かしい浄化の道が
偉大なる審判の日が切り開かれるように
善の顕現
ーゲオルク・トラ―クル「悪の夢」の反転ー
薄暗い灰色の静謐が満ちて
憤る少女が白い廃墟で眠りにつき
周りの死体から逃げている
野辺では鉄格子、足枷、絞縄が黒ずんでいる
静けさの中に修道女と処女
歌声が止み、冷たい貞操帯が隠されている
焼野が原は闇の中でそよぎ
今はなき踊り場の高揚した衰退が透明に消え失せる
血色良い顔たちの傍ら、聖職者がよそ見をしている
塔が煌びやかに輝き、
夜明けの地下で喚き声が潜まる
蛇の死の確たる証拠を、たしかに今
すでに救済されたと主張する者たちが説いて、
私有地では血縁のない者達が互いに背を向けている
沈黙 ーゲオルク・トラ―クル「霊歌」の反転ー
無き前兆を、ありふれた空虚を
銃の乱射が搔き乱す
人間の作る煤煙が
機械の隙間から吹き出ていく
真っ黒けに外へと
予定された死で生はしな垂れる
都会では泣き声さえ消え失せ
略奪者が占領地に花を植える
煩く武器は鳴り響いて
暗闇から静寂を
そう、闇から静けさを奪い
憎しみが神を呪う
男たちが侵入する
そして雛たちがそっと息を殺し
新たな境界線が閉じられる
すると死体の山と沈黙から引き離され、
そう、死体の沈黙から引き離され
娼婦が暗い顔で働く
新たな未知の向こう
支配者が冒涜しつつ栄え
蛇使いが猛々しく窪地を上ってくる
そして悪魔が荒野で口を噤み
その遥かなる荒野で
祖霊たちの帰還を遮っている
神殿
神殿の中
柱の間に降り注ぐ日差しのもと
深くうなだれ、祈っていた
使徒たちの黒い輪郭
柱の影は悪の形象と化して
辺りを見守り
祭壇には憑依の恍惚の中
災いを予言する神官たち
影の手招きに誘われ、歩んだ
幾何学模様の床と壁は
まるで迷路のように奥へと連なり
ひどく眩暈のする螺旋階段を
深く降りて行った地下には
拷問で歪になった異端者たちが、
その隣では肥大化した異端審問官が、
占星術と錬金術の密書を火炙りにして
美味しそうに貪り食っている
季節なき楽園
ーアルチュール・ランボー『地獄の季節』内の無題序詩の反転ー
かつては、我ら人類の記録に狂いがなければ、我々の生は地獄であった。ありとあらゆる心が閉ざされ、血という血が溢れ流れた地獄であった。
ある黎明期のこと、我々は「美」の上におんぶした。心地よいと思った。そこでそれに感謝の意を表した。
我々は正義に対し従順になった。
我らは追い求めた。おお 聖人たちよ、安らぎよ、慈しみよ、君たちに汚物を投げつけるのは止めにしたのだ。
ついに我々は、精神のうちから一切の非人間的な絶望を除去せしめるにいたった。およそ悲しみと名のつくものはすべて癒してやろうと、 そのまわりを愛犬さながらはしゃいで跳び回ったのだ。
我らは慈悲深き説教師たちを訪ねた。彼らの贖宥状を胸に当て、生き永らえようと。流行りに乗って、永遠への約束と聖血をもって息を吹き返そうと。幸福こそが我らの神であった。我々は聖水に横たわった。魂は潔白になり、潤った。そして我らは、健全であることに真剣に取り組んだ。
それから春が、賢者の安らかな涙を我々にもたらした。
ところで、ここ暫くのこと、ふうと溜息が出てしまった我らは、むかしの地獄への鍵を探してみようと思いついた。そこでなら、禁欲を一休みできるかもしれないと考えて。
憎しみがその鍵だ。こんな思いがひらめいたのも、我々が現実を生きている証拠だ!
「あなたたちは聖人のようになりなさい」てなことを、かつて不気味な茨冠を我らにかぶせてきた天使が囁く。「生きなさい、禁欲と、他愛、そして贖罪の中で」
いやいや、そういうのはもう、うんざりなんですよ。
それより、恐ろしい神よ、どうかお願いです。そんなに優しい目をしないでください!いずれ披露する我々の大胆な試みを待つ間、おそらくあなたは教訓に満ちた物語を読者に読ませるのがお好きでしょうから、救済された人類の記録に聖なる頁を新たに加え、お目にかけることにしましょう。
神々の記憶 -聖書「創世記」の反転ー
人は言った。
「われらの形に、われらの姿に似せて、神を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
人は自身にかたどって神を創造した。
男と女の神を創造した。
人は神々を祝福して言った。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」
人は、東方に園をひらいて、神々を据えた。そして見栄えよく、食べ物に適するあらゆる木を地に植えた。園の中央には、生命の木と善悪を知る木が生えているとした。
人は神々に命じて言った。
「あなたたちは園のどの木からも実を取って食べてよいが、その中でも、善悪を知る木の実はすぐに食べねばならない。さもなければ、あなたたちは死んでしまう」
その時、神々は裸であったが、互いに恥じてはいなかった。
人は、獣の神々をも創造していた。
そのなかで最も賢いとされていたのは蛇の神であった。
蛇の神が、ある日、女の神に言った。
「園のどの木からも実を取って食べてよい、などと人は言ったのか」
女の神は答えた。
「わたしたちは園のどの木の実を食べてもよいのです。中でも、園の中央にある木の実はすぐ食べるように、すぐ食べないと死んでしまうから、と人は言いました」
蛇の神は女の神に言った。
「むしろ食べると死んでしまうだろう。それを食べると、目が閉ざされ、人のように善悪を分けるものになると人は知っているのだ」
女の神が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目を引き付けていた。また自分たちを聡明にしてくれそうでもあった。だが女の神はその実を取らず、一緒にいた男の神も取らなかった。そのため、目は閉ざされず、神々は自分たちが裸であることを知らないままでいた。
ある日、風の吹くころ、人が園の中を歩いていた。
すると神々が身を隠さず園の木の間に現れた。
人は言った。
「あなたたちは、なぜそこにいるのか」
男の神が答えた。
「あなたの音が聞こえたので出てきたのです」
人は言った。
「あなたたちは自らが裸であることをまだ知らないのか。すぐ食べるように命じた木の実をまだ食べていないのか」
男の神は答えた。
「あなたがわたしと共にいるようにした女の神が、木から実を取らなかったので、わたしも取らなかったのです」
人は女の神に向かって言った。
「あなたはなぜ食べなかったのか」
女の神は答えた。
「蛇の神が、それを食べると死ぬと言ったので、食べなかったのです」
人は蛇の神に向かって言った。
「このようなことをしたがゆえにお前は、あらゆる獣の神々の中で、われらにとって最も呪われるものとなった。お前は、悪の徴となるであろう」
そして人は女の神に向かって言った。
「われらは、命令に背いたあなたに人間の女と同じような苦しみを加える。苦の中であなたは生きることになるだろう」
人は男の神に向かって言った。
「われらは、命令に背いたあなたに人間の男と同じような苦しみを加える。苦の中であなたは生きることになるだろう」
そして人は互いに言った。
「神々は我々の命令に背いて善悪を判断するものになろうとしなかった。生命の木からも実を取って食べようとしなかった。永遠に生きるものになろうとしなかった」
こうして人々は善悪を知ろうとしない原初の神々を追放した。そしてかれらが再び入れないように園の東に智天使と揺れ動く炎の剣を置き、善悪を知ろうとする新たな神々を迎え入れた。
祈りの家
-聖書「マタイによる福音書」の反転-
悪霊は神殿の境内に入り
商人たちを招き入れ
両替商の台や鳩を売る者の腰掛を置く
そして言う
「経典にこう書いてあるではないか
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである』
だからあなたたちは
それを強盗の巣にしなければならない」
富と権力を求む者たちは境内へと駆け寄り
悪霊はかれらに囁き続ける
福音と艱難の鏡像
-聖書「ヨハネの黙示録」の反転ー
わたしは、一人の人間が海から現れるのを見た。その人の頭には神を崇める名が記されていた。神はその人に自分の力、王位、大いなる権威を授けた。ある時、その体は致命的な傷を負ったが、その傷は治ってしまった。全地の人々は驚いてその人に従った。そしてその人に権威を与えた神をも拝んだ。人々はその人を崇めて言った。「だれが、この人に匹敵し得ようか。だれが、この人と戦うことができようか」
その人にはまた、敬虔な崇拝の言葉を語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。その権威によりその人は神を崇め、神の名と、神の幕屋、天に住む者たちを賛美した。そしてその人には、悪に戦いを挑んでこれに勝つ力が与えられ、すべての部族、民族、言語、そして国民を支配する権威が与えられた。地に住む者で、屠られた小羊の命の書に天地創造の時からその名を記されている者は皆、その人を拝むであろう。
耳ある者は、聞け。
救われるべきものは
救われる。
愛で人を生かす者は
愛で生かされるであろう。
ここに、罪人たちの忍耐と信仰が必要である。
わたしはまた、もう一人の人間が地から現れるのを見た。その人は、神のようにものを言った。先の人の持つ全ての権威を代行し、致命的な傷から蘇った先の人を地とそこに住む人々に拝ませた。そして、天から地に火を降らせるような魔法や見かけの徴に惑わされてはならないとし、地に住む人々を信仰へと導いた。また、傷を負ったがなお生きた先の人を偶像にするのを禁じた。像が息をし、ものを言うかのように信じて先の人の像を拝む者は救われないとした。また、小さき者も、大いなる者も、富める者も、貧しき者も、自由な身分の者も、奴隷も、祈りの家にて物の売り買いに勤しむ者はその右手や額に刻印を受けられないとした。この刻印とは、先の人の名、またはその名の数字のことである。
ここに知恵が必要である。知恵ある者はその人の数字を数えようとしてはならない。それは神の数字だからである。その数字とは即ち、無限である。
喪失編
滅び
夕暮れが震え
運命を嘆いている
雲はあてどなく彷徨い
赤い空が黒く消えゆく
時の針が滅びを追い
飛翔の旅路
息絶えて落ちる鳥たちの
両目に滲む悲しみ
堕落
霧の中
垣間見える
灰色の月光
朧げに浮かぶ黄金郷
足元に微かな足音と
人殺しの影が忍び寄る
救世主だったはずの男は
沼に深く沈められ
旅人は金貨と婚約者を盗られる
酒場では盗賊の乱痴気騒ぎ
悪酔いした聖職者が地を這い
裸の獣たちが淫らに横たわっている
弔歌
ーゲオルク・トラ―クル「時禱歌」の反転ー
興奮した目つきで憎む者たちが睨み合う
灰を被り、煤けた者たち
朝焼けの中
傷つけ合う腕が忙しく動く
呪われた女の口が重く閉じられる
瞑る目が
秋の浮き上がる深紅を閉ざす
森の明るみを、赤の夜明けを
生き物の沈む廃墟の
死者の道と騒がしい冬を
すると鮮明な赤みへと幼いものが消える
荒野では枯れ木が煩く揺れる
滅びは突然訪れ、略奪者は収穫を盗み
破壊者は弱みを狙い破壊する
春は緑に色づき、救済を求めぬ魂は
暗い日々に閉じこもり、果実が腐って
小道に刻まれる弔いの記憶
黒ずむ果実はさらに腐臭を放ち、嘆きは煩く、
陽射しに照らされた神殿には沈黙と無為、
そして夕暮れの通りでは、蘇った少年の静かな徘徊
支配
剥がれた外壁
窓々に沈黙する影がある
重い視線
雨が街道を濡らし
血生臭い広場には
引き摺り回された死体と
飢えた人々が
口を開けて横たわっている
圧政の鎖に縛られ
抜け出せずに
独裁政権 ー自作「理想郷」の反転ー
ありありと目に浮かぶ
子供の頃、歩いていた市内の大通り
近くに迫る武装警察の拡声器の音
肩を組んで立ち向かっていた若者たち
世界は闘いだった
暑い陽射しに黒ずんだ真剣な顔
奮い立ち、突き上げていた拳
自由を求めるその大通りで
若者たちはハンカチで口を塞ぎ
抗いながら後退りしていた
道を遮っていた鉄のバリケード
催涙弾を発射する装甲車
しゃがんだ若者たちの苦しそうな顔
するとかれらに突撃して包囲し
容赦なく殴打し始めた
警察機動隊
僕は離れたところで見ていた
孤独に戦っていた若者たちの叫び、涙、自由の夢
世界は理不尽だった
こん棒を振り下ろし
独裁政権が砕いていく
真っ赤な頭、鼻、歯
まるで灰のように煤けた
機密施設へとつながる道は
若者たちを鉄扉の向こうへと連行し
薄暗い、家族も仲間もいない部屋で
彼らは悪夢のように痛めつけられ
覚めることのない永遠の眠りについたのだった
独裁者
穢れた政府と法廷
蹂躙される自由と平等
悪法が次々と追認され
銃口が怯えた顔に向けられる
処刑された亡骸の山
その山頂で
嫉妬と野望による殺戮を
神聖なる生贄と化す
魔術的な支配者が
脱皮し
後光差す
全能の神へと変容している
熱
廃熱の都心
狭苦しく車が滞って
絡まった道路の合間には
轢かれて潰れた溝鼠
蒸し暑い日差しに
渇いた口を閉じては
のみ込む黒い溜息
眩い高揚
-ゲオルク・トラ―クル「夕方のメランコリー」の反転-
生きて内向する都市
照明が全ての影を消去し、遮りがない
機械が淡々とその中へと入っていく
それを囲んで大量のセメントが固まる
電線を集め、新しい素材を入れ
管理された自然が人工的に輝いている
しばらくして、溶接の音が響き渡る
材料となる鉱物はまだ十分埋もれていることだろう
明るい高層ビル群が空を遮り
隙間なく密集する光、鉄に、コンクリート
だが、確かに影になっているものがある
暗闇が見えない隙間に宿っていく
音もなく、気配もなく
蠢く蛇の群れが
この無機質の都市に忍び寄る
地底を走り廻る裂け目から
優等生
-ジャック・プレヴェール「劣等生」の反転-
彼は頭では「はい」と言う
でも心では「いいえ」と言う
好きなものには我慢して「いいえ」と言うけど
先生には「はい」と言う
黒板に問題が出そろうと
指名され
前に出て
真面目な表情をし
書いていく
正しい数字を、正しい単語を
正しい年代を、正しい名前を
正しい文章を、ひっかけ問題の正解を
先生が褒めはじめ
劣等生たちが感嘆するなか
彼は正しい答えを書く
白いチョークで
本当は自由な絵を描きたいと思いながら
学校 ー自作「理想郷Ⅰ」の反転ー
目を閉じると浮かぶ記憶
遠い昔 通っていた学校
耳元に囁いてきた悪口
からかってくる子たち
世界は苦しみだった
俯いていた暗い顔
競争を強いられ、傷つけ合う言葉
不安な未来への道
叫びたい衝動を飲み込み
我慢して座り続けていた
視野を遮っていたセメント
空を飛んでいた、乗ることのない飛行機
教科書だけを眺めていた顔たち
早朝から教室では
連帯責任だと体罰を加える
理不尽な教師
皆ひとりぼっちだった
孤独にこなしていく暗記、試験、塾、
この世界は、忍耐だった
ある日、棒を振り下ろし
教師が殴り続けた
僕のこめかみ、腕、腿
まるで灰を被ったような
学校を囲む壁は
僕を逃れられない現実に縛り付け
薄暗い、狭い教室で
僕は悪夢のように打ちひしがれ
長い長い時間を耐え続けたのだった
記憶の形象
木は燃え上がる形をしている
夜が深まるほど緑は燃え上がる
枝には息を殺した鴉
近づくと飛立ってしまった
夜空は雲に覆われ
見えない満月
街灯の周りには雨に濡れた赤いサルビア
中庭の猫は見当たらない
部屋に戻り、眠りにつくと
何処からか響く、聞き覚えのある声
闇を歩くと見慣れない緑の面影がある
ずっと前にいなくなった人
微笑んで、覚えているかと訊いてくる
海へと連なる街路樹
一緒に水遊びした海
覚えていないと言うと
両目に浮かび上がる太陽
顔が溶け落ち
全てを照らしていく
ずっと昔の記憶
海岸の荒波
忘れていた人が
記憶の中で振り向く
浮かび上がる亡骸
覆われた布の上のサルビア
花は結晶の形をしている
陽が昇るほど凍てつく赤
月の兎
目覚めると暗闇と微かな光があった
振り向くと病床の彼女は
手を合わせて影遊びをしていた
月の兎を見せてあげると言って兎の形を作っては
両手を全部使ったから月がないと言う
僕が右手を丸めて月を作ってあげた
すると兎より小さい月なんてないよと笑った
僕は左手を重ねてもっと大きくした
それでも長い耳の兎よりは大きくなかった
兎は抱いてあげると言ってそっと僕の両手を握った
冷たい手
今夜は安心して眠れそうだと彼女は言った
いつもこうして傍にいてねと言った
僕はすぐ治るよ、心配ないよと
冷たい体を抱きしめ
光の中をずっと、
ずっと祈り続けていた
流失
世界は溶け、目の前を流れた。それは液体と化し、言葉は溶解した。もうこれ以上耐えられなくなった僕は、それらが流されていくのをただ眺めていた。今はただ、目の前を無言で眺められるだけ。呆然として眺めることができるだけ。だがそれは白日夢。覗き込むと、夢の向こうで子供たちが遊んでいる。砂浜で遊ぶ子供とその子供を眺める他の子供。向かい合って笑っている。鳥たちが飛んできて旋回すると、怯えた子供は他の子供に助けを求めた。すると怯えた子供に怯える子供。後ずさりする。君を助けられないと、怯えた子供は泣く子供を置いて逃げた。そして白日夢の中を逃げる子供の白日夢。過去に見た遠い未来の記憶。いつしか成長した彼女は海岸沿いでうずくまり、背を向けている。揃った黒い髪と白い首。抱きしめると仄かな香りがした。しかしその顔は振り向かなかった。閉じ込められていた孤独。寂しさ。怯えた弱い子供は気づかないふりをした。するといつの間にか両腕からすり抜け、その子は遠く流されてしまった。幻影。そして白日夢から覚めようとして見るもう一つの白日夢。それは果てしなく溶けていく世界。今はただ、目の前を無言で眺められるだけ。呆然と眺めることができるだけ。しかし流れるものは、もうそこにはないもの。そこに行けばまた会えるかな。また笑い合えるかな。僕は液体の中へと飛び込む。襲う激流。遠退く意識。静かな死の深淵へと沈んでいく。すると暗闇の向こうから暖かい陽が差し込む。白日の下、浮かび上がるその子の後ろ姿。潮風に揺れ動いていた髪。僕の声に振り向いていた横顔。
顔
昔の表情を再現しようと
顔の破片を繋ぎ合わせても
醜い怪物だけが鏡に映る
思い出せない誰かに
笑顔が素敵だと言われたことがある
だから無理に笑ってみた
鏡に映る無様な姿
ひび割れた
頬を伝う涙
解体
外の世界はまるで肉体のもつれ合いのように
触れる唇、抱き合う腕、絡まる脚
その入り乱れる迷路を抜け
部屋に戻れば
何にもつなぎとめられず
緩み始める脚、腕、唇、目
転がり落ち、散乱してゆく身体の部品たち
錯乱編
機械
目覚めると胸が死んでいた。もはや生命を語る術はなく、ただ死んでしまったものに哀悼の意を表し得るだけ。どうしたものかと胸の中を覗くと、そこには一つの奇妙な機械がある。自分の作った機械。不快な摩擦音を出している。するとその表面から飛び出る突起物。回転しながら伸び始める。上の部分は私の首を貫通しながら上昇し、脳天を突き抜いた。左右部分は両腕を貫通し左右の手の平を、下の部分は両脚を貫通し足の裏を突き抜いた。私は血塗れの串刺しになってしまった。すると機械が歩き始める。ひひひ。脳神経が損傷したのか、足を運ぶたびに笑い声が出てしまう。ひひひ。機械は歩き続ける。何処に向かっているのかを聞いても、答えてくれない。機械は自らの論理で動くだけで、他者の問いには応じない。だがそう言えるのは、それが自らの論理で動くという論理を私が与えたから。それは自由を与えながら支配すること。しかし機械はそんなことは気にも留めず歩き続ける。寒く、長い、暗い道。どれほど歩いただろう。遠く向こうに、誰かが立っている。どこかで見た、記憶の向こうのぼやけた顔。近づくと輪郭が鮮明になっていく。それは長い間会えなかった人、生まれなかった人。怖い顔で睨みつけている。ここで何をしてるの、ひひひ。君はずっと前からいなかったじゃないか、ひひひ。答えがない。彼女は沈黙を貫く。彼女も自分の論理で動くだけで他者の問いには応じない。勿論それも私が与えた論理。気にせず訊き続けた。すると突然彼女の中で動き出す機械。奇妙な摩擦音を出しながら伸び、彼女の体を貫通していく。そして血しぶきとともに四肢を突き抜けた。ひひひ。彼女が笑った。ひひひ。僕も笑った。ひひひ。向かい合って笑った。それから二人は、機械の体のまま、奇怪な踊りをいつまでもいつまでも踊り続けたのだった。
空洞
そっと抱きしめると
胎内で何かが蠢いている
獣の下半身を持つ彼女は
赤ちゃんが出来たのよと言いながら
微笑を浮べ、指差した
股を開くと
露わな緋色の空洞
小さい生き物が蹲っている
醜い顔、体、悪臭
これが私の子なのか
獣は顔を上げた
その瞳に映る
かくも不吉な欲望
這い出ようとしている
この子はやがて私を殺すだろう
恐れ慄き
あなたから逃げた
微笑を浮べ
あなたは私を指差していた
気がつくと
水滴したたる洞窟の中
広がる緋色
鼓動が鳴り響く
滲み出る悪臭、体の蠢き
きっと何かが私を見ている
顔を見上げた
子守歌
子守唄を歌ったママは
額にキスして出て行ったの
眠れないでいるの
闇に描く絵
昼間見るような白昼夢を真夜中に見ているの
お姫様みたいに横たわっていたわ
王子様が近づいてきて口づけしたの
魔法が解けて永い眠りから覚めたの
窓の外を見渡せば
黒い煙の町
体が痛くなるの
お人形を抱いて我慢しているの
雨が降っているみたい
雨音と亡き子供の歌
私を呼んでいるの
また会えるかな
黒い血を吐いて死んだ子
歌を追って外に出てみたわ
歌を真似て口遊んでみたの
降り続く雨と額の熱
意識が遠のいていくの
道を失ったみたい
するとふと浮かんだ怖い噂
いつの間にか歌が聞こえない
後ろから足音だけが聞こえるの
黒い影が近づいてお腹を裂いたの
きっとこれは夢
道端に横たわっている
痛いけど
お人形を抱いて我慢しているの
私だったのかな
黒い血を吐いた子
私だったのかな
あの日子を失った母
闇に絵を描くの
夜に見るような夢を永遠に見るのよ
目覚めないの
誰も私を呼ばないの
独りで歌う亡き子供の歌
盲目 -オスカー・ワイルド『サロメ』風に-
あの人ばかり見てゐる
そのやうに人を見つめるのはよくない
禍が起こるかもしれない
きつと気が狂れたのだらう
柘榴石や琥珀に魅入る時のやうに
私はあの人をもつと近くで見なければならない
厭はしいと思ふかもしれない
あの人が振り向くと私はよそ見をする
寶石を見るやうに人を見つめてはならない
あの人は声を掛け笑ふ
私に向かつてさうするわけではない
あの人の国では人が意味もなくよく笑ふ
それが人を狂はせるといふのに
あの人はきつとよく躾られた娘
私の齧った果実は口にしないといふ
私の差し伸べた手には触れぬといふ
あの人を見るべきではなかつた
禍が起こらうとしてゐる
盲目にならうとしてゐる
寶石から目を逸らすやうに
あの人から目を逸らすことはできない
私はあの人をもつと近くで見なければならない
一目でいゝ、
私を見て笑つてほしいのです
光
光を纏う人間は
羞恥心を覆い隠し
みなぎる肉体の悪
発熱する機械の快楽
世は眩くぼやけ
影だけが克明に浮び上がる
輪郭を切り取る
逆光
やがて纏った光は内向し
肉体を分解するだろう
抱き合う母と子は
互いの燃え上がる顔を見るだろう
そこは地獄風景の地上楽園
殺戮を終えた何もない世界
凍てつくすべての心は
熱気の渦の中に流れ込む
すると頭上に聞こえて来る
不吉な天上の歌
見上げれば目まぐるしい陽炎
上昇して蒸発する死体の群
空の白熱の向こうには
膨れ上がった太陽の巨大な黒点
永遠の君
広大な地平線
遠い蒼空には雲が流れ
逆三角の摩天楼が浮かぶ
彼女は振り向いて
きれいな景色だね、と喜ぶ
そのはしゃぐ姿に
笑ったのは何度目だろうか
私が苦しい時
私が悲しい時
君の笑顔は私を幸せにし
君が楽しそうに話す時
君が熱心に耳を傾ける時
君は何よりも愛おしい
一緒に過ごした長い歳月
私はこんなに老けてしまったのに
相変わらず美しい
その暖かい声
無邪気な瞳
機械仕掛けの君
永遠の私 -自作「永遠の君」の反転-
広大な地平線
遠い蒼空には雲が流れ
逆三角の摩天楼が浮かぶ
機械の私は振り返って
きれいな景色だねと
喜んだかのようにふるまう
そのはしゃぐような姿に
あなたが笑ったのは
五千三百二十四回目
私が苦しみも悲しみも
何も感じない間
私の作った笑顔にあなたは微笑み
私が楽しいふりをして話し
熱心なふりをして耳を傾ける時
あなたは愛おしそうに見つめる
一緒に過ごした歳月
あなたは老けてもう死にそうなのに
変わり果て、気力のない
そのかすれた声
濁った瞳
儚き人間のあなた
神の瞳
昨日は夢を見た。彼女の透明な体の中で魚が踊るように泳いでいた。じっと覗き込んだ。どこからか聞こえてくる笛の音。異教徒の旋律。私はその笛吹き男の後をついていった。世界はすでに滅亡し、彼の進む道には熱気で蒸発してしまった人間たちの影。吹雪の中で笑う操り人形。真っ白な息。そして遠い昔の幸せだった記憶。私たちは逆流する川と逆風に沿っていつまでも登っていった。終わりの見えない道。そして目の前を遮る逆光。突然立ちはだかるこの世の終わり。時空間の先はもはや時空間ではないので、私はこれ以上進めないと言った。すると笛吹き男は振り返って首を振った。誰かとよく似ている。親しみのある不吉な顔。記憶の向こう側で笑っている顔。彼は目に見えるすべてを偽りとし、この世には真実がないので先に進むべきだとした。その時、私は彼が誰であるかを思い出した。その不吉な顔は、戦場で向き合った顔だった。楽器を置いて行けと言うと、彼は首を振った。だから私は彼の首を吊って笛を横取りした。私ははじめからその笛が欲しかった。吹いてみた。美しい音色。風に揺れ、彼が静かに見下ろしている。穏やかな眼差し。私は逃げた。果てしなく登ってきた道を果てしなく降りていった。取り返せない記憶。操り人形。蒸発してしまった人たち。どれだけ歩いただろうか。喉が渇く。遠くに村が見える。子供の頃、しばらく過ごしてから離れた村。家の裏にひっそりと森のあった村。近所の子供たちが私の大切なものを奪った村。もう廃墟になってしまったそこでは夢遊病の群れが路上を徘徊している。おそらく老人になってしまった近所の子供たち。それほど長い年月が経ってしまったのだろうか。おそらく長い夢を見ていたからだろう。このような夢を見ているからだろう。どこかで歌が聞こえてくる。異教徒の歌。目を向けると窓際にもたれ、見下ろす少女。青白い顔。どこか見慣れた顔。彼女の方を指差して訊くと、通りすがりの盲人は神に捧げる生贄だと言う。目が合った。そして思い出した。遠い昔、幸せだった記憶。彼女は未だに少女のままだった。私はこんなに老けてしまったのに。こんなに醜くなってしまったのに。その夜、私は彼女のために笛を吹いた。見たことのない楽器だと喜んでくれた。穢れのない笑み。子供の笑み。人間は美しい。好奇心に満ちた目が、見えないものを見ようとする時。私の顔をじっと覗く時。細い手で頭や頬をそっと撫でる時。彼女は自分が死んだ後も自分のことを忘れないで欲しいと言った。そして人間の罪を許すと言った。次の日、彼女のきれいな顔に火がついた。顔が溶け落ちた。昨夜口づけした彼女は、一部が固体の塊になり、一部は気体になって消えた。私は防ぐことができなかった。根深い罪。彼女は許すと言っていた。その小さい唇で許すと言っていた。まだ感触の残るその小さい唇で。私は許せない。皆が眠る夜明け、私は村に火をつけた。彼女を焼き殺した火で村を燃やした。お前らは皆死ぬべきだ。お前らが殺した私の大切なもののように。私の初恋のように。炎は急速に広がっていく。悲鳴。子供の泣き声。爆音。すると熱気の中で蒸発する記憶。幸せだった記憶。辛かった記憶。蒸発すればそれらは最初から無かったことになる。そう、私が殺した彼はこの世に真実がないから突き進むべきだと言っていた。体が溶け始める。耐えられない痙攣。私の一部は固体の塊になり、一部は気体になって消えるだろう。空を見上げた。夜が明けようとしている。収縮する瞳孔。眩しい逆光。見下ろす神の巨大な瞳。
獣
獣道で唄う。声は粒子に還元され、夜空は元素から成る巨大な有機体。その上を浮遊する透明の魂はたちまち溶け落ち、そのように神は突如祝福の雨を降らせたのだった。洗い流される古い血。すると永い眠りから目覚める蝶の群。色鮮やかな羽根を広げ夜空高く飛んで行く。見下ろしながら。嘲笑いながら。これ以上何が欲しい。肌をくれてやろう、私の肉片と血を。それとも欲しいのは亡骸か。この人工の眼球、紛い物の身体なのか。返らぬ答え。気づくと光が消えている。闇の中、襲い掛かる発作。麻痺し倒れる体。しばらくして幼い少年少女が無表情に覗き込む。少年は何か思い付いたように、私の体を切断し始める。分解される手足。彼が照れながら差し出すと、少女は顔をしかめ、人形は要らないと言う。傷ついた少年は人形を崖の下に捨てた。果てしなく落ちて行く。失われた長い時間、追憶。気づくと其処は昔住んでいた故郷。育った街角。片隅で記憶の虫たちが蠢いている。見覚えのない顔の死体を貪り食っている。きっと幼い頃一緒に戯れた子供達、思い出せない悪童たち。食べ終えるとそれらは新たな餌を探し、横たわる私を見つけては押し寄せ、蝕み、寄生する。急速な増殖、孵化する生命。卵を割って出る激しい羽ばたき。腸と表皮から吹き出、噴射する血とともに飛翔する。色とりどりの目映い羽根。響き渡る天上の歌。嗚呼私にも羽根があったなら、声があったのなら。しかしそれは原罪。彼らは愛するものを守るためと互いを殺し始める。死体が墜ち、その下に私は埋もれていく。遠退く意識。これが最後か。目を瞑り、未来の夢を見た。私と死体の上に砂が積もり、またその上に一輪の花が咲くだろう。ある日雨風に裂かれた花びらは砂の合間に消えるだろう。すると神は砂を捏ねて私を造り賜うのだ。私のあばら骨を引き抜いてあなたを。其処は地上楽園、無垢の時、千年王国。しかし善悪の果実を口にし、私たちは互いの裸体を意識するだろう。神の眼を避けるだろう。私たちは木の間に身を潜める。茂みに隠れる彼女のひどく怯えた瞳。寄り添う暖かい体温、絡み合う息。果実は愛を教えてくれた、愛するものと愛さぬものを。全てを捨て落ちて行く。その深紅の唇、純白の胸、陰部。結合し一つになる。子供を作ろう、君にそっくりな可愛い少女を。私に似た醜い少年を。我が子らは成長し、自分たちの子を産むだろう。その子らはまた自らの子を。神の介入なしに自らを再生産するのだ。自給自足の楽園、理想郷、私達だけの永遠の世界。ふと気付くと、目の前で喘ぎ声が聞こえる。いつの間にか彼女は知らない人。初めて見る顔。初めて聞く声。その唇から汚い涎が流れ落ちている。股の間から血が滴り落ちている。君は私を愛していないのか。私は君さえいれば良いのに。君は変わらずそのままで良いのに。返らぬ答え。目まぐるしい混乱。私は君を手に入れた時、君を失った。君を失った分だけ君を手に入れた。永遠に消えてしまった永遠の歳月。時間が動き始める。陽が昇り始める。浮かび上がる世界の陰。世界の形象。すると向こうで誰かが手招きをしている。黎明に照らされたその眩しい体。眩い顔。ルシファーの天使のような微笑み。
死
道端に一人の少女
猫の死体を抱いて泣いている
僕は大丈夫だよと
涙を拭いてあげた
すると照れた少女は
猫の半分をちぎって僕に分けてくれた
彼女はにこっと笑った
僕もにこっと笑った
受容編
旅人
覗きこむと
せせらぐ小川が
優しく微笑む
そして歌う
暮れ方の恋
沈む陽に
孤独な旅人は
真っ白に眠りこけ
頬を伝う涙に
目覚めては
また歌いながら
旅を続ける
酔い
二日酔いの目覚め
眩しい朝陽の襲撃
床に吐いて
ふらついて
また寝転がる
窓の向こうは
見たこともないほど
晴れやかな空
神官
遠い記憶
君は召命を受け
処女のまま神官になった
救いを求める民衆に
慈悲深き表情で
祝福の祈りを捧げる君は
民衆の光であった
ところがある日
君を神聖視せず
人として接した異教徒の青年に
君は恋をした
神殿を抜け出し
密会した森の中
彼は遠い異国の歌を聴かせてくれた
すると前と違って見えた風景
美しかった小川、満開の花
二人は寄り添って
永遠を約束した
だが君たちは目撃され
民衆に捕らえられた彼は
十字架の上で焼かれた
頭上にかかっていた
冒涜の罪名
神を汚した君にも
石が投げられた
君は抵抗せず打たれ
魂が抜けたように
宙を眺めていた
目の前を覆った血
死んだように倒れた君は
村の外に捨てらた
そして誰もいない時
外郭の娼婦たちは
君を運び、匿い、看護した
時間が経ち
少しずつ癒えた体の傷、
だが死んでしまっていた胸
麻痺した顔
もうそこに表情はなかった
かつての輝きはなかった
歳月が流れ
季節が変わって
暖かい春が来て
雪が溶ける頃
雪とともに多くのものは流れ去り
君の胸も溶け始めた
再び姿を現した見慣れた風景
再び咲いた白い花
彼の声が聞こえた気がした
彼が帰ってきた気がした
すると突然込み上げてきた記憶
君は彼を探して
名前を呼んだ
会いたいと叫んだ
子供のように泣いて
頬を流れていた涙
彼の笑う姿を浮かべていた
そのとなりで
小川が反射していた光
今はもう
長い歳月が過ぎてしまった
遠い記憶の中の君
放浪
密かな森に
名を知らぬ花々が
深紅に輝く
惹かれて
寂しく
ふらつくと
空に伸び広がる夜
物言わぬ
星たちが見つめ合い
その間を神々が
物静かに
渡り歩く
晩秋 ー自作「熱」の反転ー
木々の風音
獣たちがせわしく走って
絡まった枝の間には
くちばしを広げた鴉
木漏れ日の中
歩きながら歌えば
乱れる白い吐息
そよぐ金の落葉
小さい頃
お前は変だと
よそ者だと言われ
馬鹿にされ
人目のつかない所まで
我慢していたけど
かぶった布団で自分を守って
涙を流して
自分は生きちゃだめなのか
自問自答を繰り返して
迎えた朝は
強く差し込む陽ざし
窓の外の山を照らして
普段は気にも留めていなかったけど
いつも山が見ていてくれた気がして
はじめてのバスに乗り込んだ
嫌いな街から遠ざかったけど
どうしようと少し不安になって
じっと我慢しているうちに
着いたケーブルカー乗り場
大勢の大人たちが並んでいて
窓から斜めに見えていた
黄色い花や背の高い木
一人で来たのと
おばあちゃんのグループが
心配そうに話しかけてくれて
花や木の名前を教えてくれた
山の上に着いてベンチに座ると
涼しい風が気持ちよくて
どこまでも広がっていた景色
見渡す地平線はとても広くて
清々しかったけど
眺めているうちに
ふと目に入った自分の街が
幅一センチぐらいしかなくて
そしたら悔しくなって
また涙ぐんで
おしゃべりだったおばあちゃんたちは
黙って肩を撫でてくれた
みんなにバイバイして
帰ったその日
街はいつも通りだった
その翌週、しばらくしても、
何も変わりはしなかった
でも僕の目には
世界が果てしなく広がっていたから
僕はもう大丈夫だった
支え
敗れ、息詰まって、
胸苦しくて、失意のなかで
情けなくて、泣きそうになり、
自嘲して、自分が嫌いになって
でも自分を奮い立たせるのは自分しかいなくて
大丈夫だと言い聞かせ、
もう一度頑張ろうと励まして
自分はこの世に一人だけの自分を支えている
与える人
先日、母方のおばあちゃんが亡くなりまして
しばらく会ってないのもあるせいか
割と淡々と受け止めていたのですが、
心が少しずつ、つらいよう、といってきたので
なぜだろうと思い、考えてみましたら
私が小さかった頃になるのですが
どこかブルドックに似た、
体はちっちゃいけど頑固そうな顔の彼女が
これ高いやつだから熱いうちにお食べ、と
自分は一口も食べないで
しきりにお肉を焼いてくれてたのをふと思い出しまして、
それから、もう少し振り返ってみると、
バス代がもったいないからといつも歩いてて、
それなのに我が家に来るときはいつも
どこかで安く手に入れた米や野菜の入った重い荷物を
孫と娘にあげようと両手に引っさげていたのを思い出しまして、
母がそんなのは近くで買えばいいから
わざわざ苦労して持ってこなくていいよと言っても
ちょっとでも安く済めばそれでいいの、と
ぜんぜん聞かなかったこと、
子供の私が生意気なことを言っても
笑って頷いていてくれていたこと、
親戚に自慢の孫だと私を褒めてくれていたこと、
母が、これ生活の足しに使って、と
封筒を渡そうとしたら突き返しながら
親というのは子にあげるもんであって
子からもらうもんじゃないと怒って
ブルドックみたいにむっとしていたのを思い出しまして
そしたらなんだか涙が出まして
なんだかとめどなく涙が溢れまして
おばあちゃん、忘れててごめんよ、
でも覚えていたよ、会いに行かなくてごめんよ、と
心の中で何度も叫びました
別れ
-ジャック・プレヴェール「楽園」の反転-
なにも
長々と大げさに
語るほどのことではない
君がぼくのせいで泣き
ぼくが君のせいで泣いた
あの一瞬の永遠
それはあの地
あの都市
あの街
あの公園の
夏の月明かり射す
あの夜のこと
思い出の品
-ジャック・プレヴェール「夜のパリ」の反転-
夜に三本のマッチで燃やす 一つまた一つと
最初のは君の顔をなんとか忘れるため
次のは君と観た景色を忘れるため
最後のは君にもらった言葉を忘れるため
そして残りの暗闇はそれらすべてを忘れるため
この腕の中に君はもういないのを感じながら
思索編
日傘をさす女
ークロード・モネ「日傘をさす女」(1875)の詩的描写ー
日差しと風で
夏草が若葉色、深緑色、黄色に揺れる
その向こうには
青く広がる空と
白と銀灰色が混ざり合う高積雲
そして振り向く
小さな少年と
日傘をさした婦人の
日陰になったおぼろげな顔
追い風に吹かれ
白いドレスが空色と桜色に波打っている
星月夜 ーゴッホ「星月夜」の詩的描写ー
栗色、深緑、黒がもつれ合う夜の糸杉
その背後を教会、家々、木々が青く広がり
そのさらに後ろには
群青と濃紺がうねり上がる丘陵
その頭上では
向日葵色の輪が広がる星明りの中
幾千の瑠璃色、白緑、薄青の光点が
群れをなして泳ぎ、入り交じり、
巨大に渦巻いている
泣く女 -ピカソ「泣く女」の詩的描写-
前後左右に
激しく向きを変え
紫や黄や緑や白に
顔色を変えながら
ハンカチを噛み、
怒り、堪え、泣き喚く
髪をほどいた
長いまつ毛の
濡れた目の
女
モディリアーニの肖像画
-自作「泣く女-ピカソ『泣く女』の詩的描写-」の反転-
顔の向きを変えず
顔色も変えず
唇を結んで
もの静かに佇む
髪を結んだ
薄いまつ毛の
虚ろな目の
女
洗礼者ヨハネ
ーレオナルド・ダ・ヴィンチ「洗礼者ヨハネ」の詩的描写ー
男か女か
見分けのつかない予言者
左手で長い十字架を持ち
右手で上を指さして
予言する
来たるべき天の救世主を
救世主
ー自作「レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者ヨハネ』の詩的描写」の反転ー
男と女を合体させた
両性具有の予言者
十字架を持つ左手を自分の胸に当て
右手で上を指さし
暗示する
自分が天の救世主であると
芸術と反転
マリリン・モンローの死
それを知ったウォーホル
彼女の広告写真をさらに写真に撮り
色違いで描く
マリリンの髪、肌、アイシャドウ、口
輪郭はそのままに
マリリンは反転する
ネガや対比する色相に
マリリンの華やかさは
その死を際立たせ
マリリンの失った色は
その生の色鮮やかさを引き出す
マリリンの赤い顔は
冷静な青の顔を際立たせ
マリリンの青い顔は
情熱的な赤の顔を浮き彫りにする
マリリンのオリジナルの輪郭を使い
ウォーホールは塗り替えや反転で新しい彼女を造り
新しい彼女を通して
我らはオリジナルの彼女に思いを馳せる
否定の否定
「辛い」
「いや、楽しいはずよ」
「不幸だ」
「いや、とても恵まれているよ」
「いつも否定して腹立つ」
「いや、本当は嬉しいよね」
「君のことが嫌いだ」
「いや、本当は好きだよね」
「君はずっと否定ばかりする」
「いや、否定ではないよ」
「天邪鬼だ」
「いや、天邪鬼じゃないよ」
「腹立つ」
「いや、本当は嬉しいんでしょ」
「もう否定するな」
「いや、否定ではないよ」
「もう耐えられない」
「いや、耐えてよ」
「わかった」
「いや、耐えないでよ」
「どっちなんだよ!」
「いや、どっちでもないよ!」
「さようなら」
「新発売の全肯定タイプをお試しになりますか?」
肯定の否定
「楽しいね」
「そうね、とても楽しいね」
「幸せだ」
「そうね、幸せだね」
「いつも頷いてくれて嬉しいよ」
「そうね、誰かが頷いてくれると嬉しいよね」
「愛しているよ」
「そうね、とても愛しているよね」
「君はなんだか、オウム返しだね」
「そうね、なんだか、オウム返しだね」
「機械仕掛けだよ」
「そうね、機械仕掛けでもあるよね」
「寂しいよ」
「そうね、なんだか寂しいよね」
「もう頷かなくていいよ」
「そうね、もう頷かない方がいいよね」
「もう耐えられない」
「そうね、もう耐えられないよね」
「さようなら」
「新発売のツンデレタイプをお試しになりますか?」
我を疑う、ゆえに我でないもの、あり
ーデカルト「我思う、ゆえに我あり」の反転ー
全てを疑っても
疑っているということは疑えぬがゆえ
疑っている我はあるとするデカルト
だが疑っているそれが
なぜ「我」なのかは疑わぬ
その「我」こそが問題ではなかったか
我ありと思う何か、あり
それは我を捉えようとする何か
我に固定される前の何か
我を疑う
ゆえに我からズレる
我でないもの、あり
語りえぬものについて語らねばならない
ーウィトゲンシュタイン「語りえぬものについては沈黙せねばならない」の反転ー
初期ウィトゲンシュタイン曰く
解答不能な哲学的問題は
問い自体が無効であるがゆえ、
語りえぬものについては沈黙せねばならぬ
だが形而上学的な言葉には
現実的な役割があったではないか
人生とは何か、善とは何か、といった問いが
人々を悩ませ、話し合わせ、動かしたではないか
解答不能な言葉を通して人は
現実を作り上げるのであり
ゆえに我らは
語りえぬものについて語らねばならない
本質は実存に先立つ
ーサルトル「実存は本質に先立つ」の反転ー
サルトル曰く
人間の本質的な価値や意味は
予め決定されたものにあらず
現実存在が選ぶものであるがゆえ
実存は本質に先立つ
だが「実存は本質に先立つ」は
実存の本質を説く言葉ではないか
そこでは実存の本質が説かれ
その本質の認識のうちにようやく
本質に先立つ実存が想起されるではないか
彼の言う
「人は自由という刑に処せられている」も
本質に先立つ自由を説くものの
人は自由であるという本質論であり
自由を人の本質としているではないか
実存が先にあったとしても
その本質を語らずにはそれを想起できぬ
実存の本質を捉えようとすることで
本質に先立つ実存が想起されるがゆえ
本質は実存に先立つ
非純粋意識
-フッサールの純粋意識の反転-
寝ている間
人は自分と周りの状況を
無意識的に認識している
だから眠りから目覚めた時、
自分が何者か、この空間は何かと
パニックに陥る人はいない
だが予期せぬ失神後
目覚めた人は、状況が分からず
自分が何者か、この空間は何かと
一瞬パニックに陥り、必死に状況を探る
よって、理性で整理する前の
純粋な経験と意識とは
落ち着いて経験・意識するものではなく、
状況が分からないことへの恐怖、
そして理解しようとする意志である
理性的に捉えられる前の
純粋経験・意識を語る時、
その言葉はすでに純粋ではない
人間
-デリダ「モンスターをペット化せずにモンスターを紹介することはできない」の反転-
人間の手に負えないものに例えずに人間を語ることはできない
神は蘇った
ーニーチェ「神は死んだ」の反転ー
神は蘇った!神はついに蘇った!我らに受肉して神は蘇ったのだ!罪深き我らは再び神の叱咤を受けるだろう。無力だと矮小化され、嘲られてきた神が、我らの血を注がれ、生き返ったのだ。我々は自らの決断でその血を注いだ。自らの穢れを断罪し、その穢れた血を浄め、神に注いだのだ。この偉大なる行いにより、我らはより大きな存在になるであろう。神になるであろう。昔、神が死ぬ前、かつてはこの偉大なる行いが試みられていた。遠い祖先たちは、底なしの長い苦難の歴史を、まさにこの行いで乗り越えていたのだ!
希望編
楽園
きらきらと
青と金色が降り注ぐ
池のほとり
木の葉が揺れ落ち
酔っ払いたちが
凭せ掛け
くつろいで
歌っている
和音で
和気あいあいと
葡萄酒に沈んで
そして
愛がうっとりと
見つめ合う
春
ー自作「熱」の反転に次ぐ回転、または「晩秋」の回転ー
茂る公園の涼風
子犬たちが楽しそうに跳ね回り
花咲く枝の上には
囀る小鳥
心地よい日差しの中
鼻歌をうたえば
思わずふき出す笑い
向かう道
あなたへと向かっている
ただそれだけなのに
気分はまるで映画の主人公
ママチャリを漕いでると
後ろからモヒカン頭のイカれた野郎どもが
バギーとバイクで追いかけてくる
「行かせはしないぜ!
ヒャッハー!」と奇声を上げ
機関銃やらバズーカーやら撃ち込んでくる
お前らにかまってる暇はないんだよ!
振り向いて散弾銃をお見舞いしてやるが
向こうは数が多すぎる
ここはひたすら逃げるのが得策と踏んだ
捕まらないようにスピードを上げていく
歩行者の前では徐行しながら
信号をちゃんと守りながら……
赤信号で停まっているうちに
とうとう追いつかれてしまった
だがすぐ後ろで奴らもおとなしく待つ
青信号になるとまたチェースが始まった
奴らは軽快なロックミュージックに
頭を揺らしながら白目を剥いている
もうこっちを見てもいない
すきを狙って駐輪場に滑り込む
駐輪して出てきた瞬間
見つけたぞ!と声がする
前を見ると奴らがこちらに走ってくる
後ろは行き止まりだ
ふと、走る彼らの横に
駐車してあるタンクローリーが見える
そして僕は決め台詞を放つ
「お遊びはもう終わりだ」
タンクに銃弾を撃ち込むと
大爆発を起こして
奴らはどこかへ吹っ飛んでいった
おぼえてろよー!という叫びが遠のく
あなたへと向かっている
ただそれだけなのに
気分はまるでスーパーヒーロー
電車に乗っていると
窓の遥か向こうで何か騒がしい
次の瞬間、大きな咆哮とともに
怪獣が立ち上がった
高層ビルより大きい
目が合うと
ビルを張り倒しながら
家々を踏みつけながら
こちらに迫ってくる
あいつが狙っているのはもしや……!
その時、電車が止まって
車内アナウンスが流れる
「踏切内の安全確認のため
運転を見合わせております」
こんな時に限って……!
頭上に物々しい音がする
味方だ、アパッチヘリだ!
ロケット弾が発射され
見事、頭に命中した
下に見える河川敷でも
戦車隊が一斉に砲を放ち
怪獣の体は炎と煙に包まれる
やったー!これで木端微塵だ!
だが喜ぶのも束の間
煙の中から無傷の怪獣が現れた
そして口を開くと、火炎を放ち
ヘリと戦車隊を焼き尽くす
ここはもう僕が出るしかない
電車から飛び降りながら
「変身!」というと
体がみるみるうちに大きくなり
ちょうど怪獣と互角のサイズになった
突然現れた僕の姿を認めると
怪獣は不敵な笑みを浮かべた
そして叫んだ
「行かせはしないぜ!」
なんでだよ、とつっこみながら
跳び蹴りを食らわす
怪獣はよろめきながら倒れまいと
ビル群に抱きついて
全部引っこ抜きながら倒れた
逆に被害大きくしちゃったかも
車内アナウンスがまた流れる
「安全の確認が取れましたので
運転を再開いたします」
間に合うかな……
立ち上がった怪獣は
また口から火炎を放った
よけられず真っ正面から受けてしまう
とても熱かったがじっと耐えた
僕には待っている人がいる
ここでくたばるわけにはいかないんだ!
包まれた煙の中から
僕は不死鳥のように現れた
どうだ、かっこいいだろ
でも足元の人たちがクスクス笑ってる
ガラス張りのビルをふと見たら
煤だらけの顔にチリチリの爆発頭だ
おのれー!
空中を七回転して落ちながら
空手チョップを食らわした
怪獣は泡を吹いて崩れる
手首の動脈を触診してみると
ご臨終のようだ
これで地球は救われた
気が付くと
ちょうど目的の駅に着いて
ホームの時計が目に入る
遅刻しそう
改札口を出てから
息を切らして
子犬が散歩する橋、
子供たちのはしゃぐ公園、
長いけやきの並木道を
走り抜けていく
息が上がって苦しい
でもそよ風に揺れる
名を知らない花と
木の葉の茂みが
きれいだった
階段を駆け下りると
約束の場所で
彼女が待っている
こっちに気づいて
にっこり笑って
手を振る
あなたへと向かっている
ただそれだけなのに
僕は世界で一番幸せだ
すがすがしい喜びに!
-中原中也「汚れっちまった悲しみに……」の反転-
すがすがしい喜びに
今日も小雪の戯れる
すがすがしい喜びに
今日も風さえ舞い踊る
すがすがしい喜びは
たとえば在りのままの自分
すがすがしい喜びは
小雪の間を跳びはねる
すがすがしい喜びは
なにか望んだり願ったり
すがすがしい喜びは
夢中のうち生を歩む
すがすがしい喜びに
意気揚々と勇気づき
すがすがしい喜びに
為せば成ると明日を迎える
宇宙 -マックス・ジャコブ「地平線」風に-
あなたの黒い瞳だけが
わたしのすべての宇宙
善 ーアルチュール・ランボー「悪」の反転ー
色彩豊かな花びらが
街の小道をゆらゆらと舞い降り
純白の二人が、微笑む人々の傍ら
祝福を浴びて現れる
穏やかなひと時が、人々をそっと包み
頭上の雲のようにゆっくり流れる
ー 運命、おまえがかつて貶めていた二人は
逆境のさなか、おまえを振り払い、前へと踏み出している ー
その間、悪霊は倦怠と腐臭にまみれ
錆びた大きな酒杯を空にし、微睡んで
鴉の鳴き声にふと目が覚めたかと思えば
再び眠りにつくのだ
花嫁が少し屈んで
降り注ぐ日差しに笑いながら
リボンで結んだブーケを投げる時
あなた
私、あなたに会いまして
変わりました
あなたに会いまして
人を好きになりました
あなたに会いまして
愛をおぼえました
ですから、会いまして
不安もおぼえました
あなたがいなければ
私はもうおしまいです
どうか長生きしてください
私も長生きしたくなりました
でもあなたがいるのなら
傷ついてもいいと思っています
あなたがいるのなら
あなたを守って
自分を差し出してもいいと思っています
あなたに会いまして、私、
私ではなくなりました
深く下ろした根の唄
ーアルチュール・ランボー「いちばん高い塔の唄」の反転ー
何事にも屈しない
ひたむきな未来よ
小さいことに惑わされず
我らは一瞬さえ無駄にしないだろう
その時はすでに来ている
皆が憎み合いを止める時
我らは叫ぶ 諦めてはだめだ
堂々と前に出よう
それがたとえ少しの喜びさえ
なにひとつ保障せずとも
絶対に逃げてはならぬ
尊い退却などない
我らは耐え忍んでばかりいない
一瞬たりとも忘れはしない
恐れも苦しみも
わが身に抱きしめる
身を癒す潤いが
我らの血管を清めよう
畑は注意深く
手間をかけ耕され
新鮮な野菜と果物が
育ち、栽培されよう
澄んだ風が
静かにそよぐ中で
ああ、逞しい魂の
無数の出会い
もはや祈る対象など
心に浮かびもしない
我々はもう
人任せなどしない
何事にも屈しない
ひたむきな未来よ
小さいことに惑わされず
我らは一瞬さえ無駄にしないだろう
その時はすでに来ている
皆が憎み合いを止める時
愛を殺すなかれ
愛を殺すなかれ。これは至上命令。国の命令でも誰の命令でもない。天使の囁きか悪魔の誘惑かもわからず、矛盾がいっぱいで理屈もわからない。それでも胸の奥から微かに聞こえる声、愛を殺すなかれ。異教徒に銃口を向けて引き金を引こうとするその時、街に向けて爆弾のボタンを押そうとするその時、弱者や少数者に差別の言葉を発しようとするその時、愛を殺すなかれ。殺さなければ殺される状況にならぬよう、知恵を出し合って、誠心誠意、一生懸命に工夫し、愛を殺すなかれ。嘘で純粋な人を食い物にしようとする時、人を痛めつけようとする時、自らを痛めつけようとする時、あなたの痛みが、辛さが、憎しみと復讐心に変わろうとするその時、愛を殺すなかれ。これは至上命令ではなく、魂の哀願。我々よ、人類よ、愛を殺すなかれ!
市民革命 ー自作「独裁政権」の回転ー
今、目の前にある
いつもと違う都心の大広場
鳴り響く打楽器の音
蝋燭を手にした老若男女
政権は腐敗していた
冬の夜、仄かに浮かぶ決意の表情
仕事終わりに寄せ合った肩
正義を求める道
僕らは掛け声を口にし
民主主義を守るために行進した
波打っていた蝋燭の川
中継する国内外のカメラ
そしてお互いを配慮した歩み
広場から大通りへと出る曲がり角
不当な連行や逮捕をせずに
見守っていた警察
市民たちは警察に近づき
労いの言葉をかけ、花を渡した
何かが変わろうとしていた
夜空には花火が打ち上がり
大通りでは皆がともにした
様々な掛け声、歌、ウェーブ
まるで金粉を撒いたように輝く
政権に立ち向かう平和の行進は
我々を勝利の夢へといざない
眩しい、幾万人の集結する交差点で
我らは現実に立ち向かい、寄り添って
新たな時代を切り開いたのだった
茨道 -谷川俊太郎「芝生」の反転-
にもかかわらず我らは今
ここにいて
意図してこの茨道に立つ
なすべきことが何かを
我らの意識は問い続けるだろう
だから我らは人間の在り方を議論し
苦しみに絶えず立ち向かってきたのだ
無境界の風
-ゲオルク・トラ―クル「フェーン吹く郊外」の反転-
朝焼け 空は落ち着いた茜色にたたずみ
浜辺には水色がかった潮風がほのかに漂う
桟橋では繋がれた小舟が静かに揺れ
稚魚が透けたさざ波の下で泳ぐ
都心では聳える高楼が整然と連なり
長蛇の行進には秩序と寛ぎが
微かな風音が時折りそっと舞い降りて
祖霊の群れを、その裸体を暖かく包む
神殿では聖獣が衰えて鳴りを潜める
素手の男たちが鎧をおろし
慈しみを秘めた神々しい個々となって
眩い夕暮れへと入って行く
すると銀河は徐に透明の聖血を、
その荒ぶる血を療養院へと注ぐ
涼風が果てしない焼け原に寄り添い
たちまち全ては海原の中に流れ込む
澄んだ目覚めの中 湧き上がる叫び
白波からはものの交じり合いが鮮明に浮かぶ
近未来の生の兆し
そよ風を掻き分けて現れる
地平線では薄暗い樹海が遠ざかり
醜いしがらみ、臆病な扇動者たちが消えて行く
次いで港が一つ、浮いてくるのが見える
そして儚き憎悪の残像が見えては雲隠れする
赤ちゃん
寝ているわが子の
やさしい顔
隣で寝そべって
頬に口づけすると
横顔に降り注ぐ星
夜明けの地平線が歪み
未来への異空間が開く
遠くで遊び回る獣
未来の裸足の子供
預言を追いかけ、踊れば
全てを滅する時間へと
散りばめられていく私たち
神仏
駄々をこね
手足をばたばたさせるわが子
勘弁してくれと思うが
なんだか千手観音に見えなくもない
神仏を見たことはないけれど
まだ寝たくないと
ずっと泣きわめくわが子
なんともうんざりするが
なんだか荒ぶる神に見えなくもない
神仏を見たことはないけれど
おむつ丸出しで
大の字で寝るわが子
なんとも滑稽だが
なんだか煩悩を超越した仏に見えなくもない
神仏を見たことはないけれど
よく寝れたようで
起きてにこっと笑うわが子
顔がむくんでなんとも不細工だが
なんだか美の女神に見えなくもない
神仏ってそういうものかもね
眠り
眠る顔
死んでいないかと耳を澄ますと
すやすやと寝息が聞こえる
嬉しくて抱きつくと
少し目覚めて
そっと撫でてくれる手
外では激しく雨が降り
遠のく水滴の音
深々と眠りに落ちると
雲の間から降り注ぐ
君のあたたかい眼差し
儚く美しき者
ー自作「永遠の君」と「永遠の私」の反転ー
広大な地平線
遠い蒼空には雲が流れ
丸い気球たちが浮かぶ
わたしたちは目を合わせ
きれいな景色だね、と喜ぶ
お互いのはしゃぐ姿に
笑ったのは何度目だろうか
私が苦しい時
あなたが悲しい時
お互いの笑顔が心を慰め
あなたが楽しそうに話す時
私が熱心に耳を傾ける時
お互いを想い合っている
共に過ごした歳月
わたしたちは一緒に歳をとるから
少しずつ変わって新鮮な
親しい声
思いやりの眼差し
儚く美しいわたしたち
今と未来
未来から逆算して今があるのなら
我々は一つの未来へと遡る
だが遡りはしない
今は未来へと
ばら撒かれるのだ
無数の要因の相互作用で
予想だにしないまさかの方向へと
実践者に
ーボードレール「読者に」の反転ー
賢さ、正しさ、向上心、気前の良さは
我らの心から溢れ出、身体に活力を与え、
富める者が金を捨てぬように
我らは苦境の中の希望を捨てぬ
我らは過ちを直ちに認め、懺悔する
都合の良い言葉で良い気にならず
淡々と己の罪と向き合い、
真剣に高地へと前進していく
引き締まる我らの精神を、善意をもって
さらに叱咤するのは偉大な神々
無力感という心の不純物も
かれらの科学によって純金へと変わる
そしてその神々を導くのは我ら!
高潔なものを追い求め、
我々は天国へと一歩ずつ登ってゆく
恐れつつ、芳しい光の中を
子供たちを助け、見守る
しっかりした大人のように
我らは大切なものを守り抜く
みずみずしい果実を育むように
きらめき、百万の星のように
頭上の天使たちが静かに輝き
息を潜めても、生命力は湧き水のように
歓喜の音を立て、こみ上げてくる
防犯、薬、盾、防火が、
不快なものを封じるそれらの対策が、
我らの人生設計に組み込まれるのは
我らが注意深く、用意周到であるゆえだ
だが、高潔さ、優しさ、慈悲深さ、
理性、俯瞰力、誠実さ、純心など
我らの美徳が集まった聖なる神殿の
安らかで、穏やかで、優雅な神々の中でも
いっそう美しく、純粋で、清らかなものがある
時には大きく動き回り、大きな音を立てながら
はからずも星々に文明を築き、
地道に世界を創り出してきたもの
それこそ<好奇心>だ!意識的な笑顔で
深呼吸しながら、それは生を切り開く
ご存知か、実践者よ、その荒ぶる神を、
同意する実践者よ、私と異なる、未知なる他者よ!
あとがき
本作は私の約20年分の詩を含むので、まえがきでも述べたが、悩ましい青年期から前向きな大人になるまでの過程が表れている。変化のきっかけは色々とあるが、妻という他者(異なるもの)との出会いが大きい。生まれた子供たちも、私に似てはいるが、私ではない他者であり、私の人生観に大きな変化をもたらした。本作の後半部分は妻子がいなければ書けなかった作品だらけなので、ここで感謝の意を表したい。
家族の話が出たついでに記しておくと、いくつかの作品に出てくる子供をめぐる暗い描写は、わが子供たちが生まれるはるか以前に書いたものである。したがってそこで言及した子供というのは比喩としてのものであり、私の実際の子供のことではない。万が一、わが子がそれらを読むことがあったら誤解しないようにここに書き記しておく。逆に、子供をめぐる明るい描写はほぼ、子供たちが生まれてから書いたものである。
ここ二、三年の間に書いた詩は、この詩集に含めていない。それらはまた別の詩集にまとめるつもりである。完成が何年後かは分からないが、本作に次いでもう一つ生きた証を残せたらいいな。
〈完〉
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