河口の町:其の8
あれは確か、去年のことだった……おばあちゃんに連れられて、親戚の家に行き、村祭りの御馳走になってきた夜から、私は病気になったんだった……近所のお医者さんから、疫痢(えきり)だといわれて、近所のお医者さんは、慌てふためいて、出張中のお父さんを呼び戻したんだった……お父さんは、飛んで帰ってくれたんだけど、その時、私はもう意識がなくなっていた……二日間の昏睡から醒めた時、私の目に最初に飛び込んできたのは、怖いほど真剣なお父さんの顔だった……黒眼鏡の奥から、私の目をじっとみていたお父さんの大きな目……あの日に見つめられ続けたから、私はきっと目が醒めたのだろう……天井からリンゲル液の瓶が、ぶら下がっていたし、枕許の仏壇の前で、おばあちゃんは一心にお経をあげていた……あの時のお父さんの怖い顔。
疫痢が治って元気になった頃……お友達の家で遊んだ帰り、お父さんのいるサナトリウムの傍(そば)を通りかっかった時のこと……学校の裏庭に続く松林のはずれにあるサナトリウム……海側にニセアカシヤの林があった……友だち二人と門をくぐって行くと、前庭の花壇一面に、色とりどりのコスモスが群がり咲いていた……みんなで、きれいだ、きれいだ、といっていたら、コスモスの花の中から、ぬっ、とお父さんの笑った顔が現れた……もう、びっくりしたこと……お父さんは、私に、どこまで遊びに行ってきたのかと聞いたっけ……その時、看護婦さんが、先生、お電話と呼んだから、お父さんは、直ぐ駆けていっていまったんだけれど……。
あれも、お正月休みのこと……炬燵(こたつ)にあたりながら、お父さんは、結核菌のお話しをしてくれていたんだけど……私が頼むと直ぐ、宿題の絵を手伝ってくれたっけ……ちょっと口先を尖らせたお父さんの顔は、真面目だったこと……時々首を、右に左に傾けながら、白い画用紙に、スッスッスッスッ、と鉛筆を走らせる。音をたてる鉛筆の先から、鉢巻き姿の桃太郎が表れて来たんだった……お父さんの真面目な顔、優しい笑顔、怖い真剣な顔、怒った顔。
綾は、ありとあらゆる父の顔を、思い浮かべてみる。だが、かたく目を閉じ、口を少しあけた眼鏡のない土色の顔は、綾の記憶にあるどの父の顔とも、どうしても一致しないものだった。
(其の9続く)
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