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河口の町:其の13

 「綾が住んでいた家は、この道を真直ぐ行けばいいんだろ?」
 手取川の大橋を渡り終えると、夫が尋ねた。
「えっ?……あっ……そうよ。この通りをずっと行くと、坂になるの。その坂の下の右角の家……それにしても……あなた、私が話したこと、よく覚えていらしたわね」
 タイムトンネルの中を、一人で彷徨(さまよ)っていた綾は、予期せぬ問いに、どぎまぎしながら答えた。
「ちょっと、下りてみるかい?」
「いいの……そのあたりだけ、ゆっくり走って下さるだけで……」
 折角の夫の心遣いを、綾は素直にうけなければならないと考えた。
 あまり広くもないアスファルトの道路は、真夏の太陽に炒めつけられて、むんむんする熱気を放っている。日陰など全くない通りを挟んで、古びた木造の家屋が、寄り添うようにひっそりと肩を並べている。近くの神社の森からわき出す粘着力のある蝉の声だけが、あたかも拡声器を通しでもしたかのようなボリュームで、人通りの絶えた通りに流れている。
 「あの家がそうなの」
 綾が、近づいてくる四つ角の一軒を指指すと、夫は時々、後ろを振り向きながら、息子たちにもわかるように、説明し始めた。
 綾の心の中で、いつも父の姿にオーバーラップし、傷みと懐かしさに揉みしだかれてきたあの家が……目前に迫ってきた。
 周りの羽目板や、格子は黒ずんでいたが、いかにも雪国の建物らしく、かっちりとした骨組みの平家は、佇(たたず)む古武士の風情があった。
 表戸など開けなくとも、内部の間取りなど綾には十分見透すことができた。かぼちゃや西瓜の類が、いくつも転がっていた板張りの店の間、真中に囲炉(いろ)のあるだだっ広い茶間、盆栽棚が並ぶ庭に面した客間、三毛がよく昼寝していた縁側、その先の日当たりのよい父の書斎、昼間でも薄暗かった仏間、その仏間に横たえられていた父の遺体……白布をめくって覗きみた赤斑の浮き出た父のデスマスク……その顔こそ真白な綾の心に、くっきりと焼きつき、払っても、払っても、決して薄れることなく、いつも冷え冷えとした影を投げかけているものであった。
 体内を駆けめぐる歓喜も、ほとばしる情熱も、みなこの影の冷気に合うと、冷めて行くしかなかった。綾の胸には、こうして冷えた歓喜や情熱が、孤独や諦観(ていかん)の澱(おり)と化して堆積しているようだった。
 父の柩(ひつぎ)を送り出し、骨壺を迎え入れたその家は、二十数年に及ぶ、激しい時の流れなど全く預り知らなかったかのように、あの頃のままであった。狂おしい思いに駆られる綾と、静かな瞑想の面持ちで迎え、また見送ってくれるようであった。
 古ぼけた看板を掲げる写真館――擦り切れた暖簾(のれん)が揺れる銭湯――北陸線の無人踏切――徐行する車の窓から、食い入るように眺めた周囲のたたずまいは、ピンボケではあったが、綾の胸中のアルバムから取り出して並べたセピア色の写真と、何ら変わってはいなかった。今にもそのあたりから、だしぬけに汽笛の音が聞こえ、撚糸(ねんし)工場の機械の音が響いてくるような気がした。
 車が徐々にスピードを上げ出すと、綾は腫れぼったい目にサングラスをかけ、ゆっくりと振り返った。後ろには、ガムを噛む息子たちの屈託のない顔が並んでいた。黒々した四つの瞳は、同時にサングラスの母の顔に向けられた唇から白い歯がこぼれ、汗ばんだ頬が桜色に輝いていた。子供たち……綾の胸にいとおしさがこみ上げてくる。父はかくもいとおしいものを残して、去って行かねばならなったのか……。
綾は今更のように、父の悲しみの深さを思いやった。綾は、無意識に膝の上の両手を組み合わせていた。
 リヤウインドに映る河口の町は、セピア色を帯びて、次第に遠ざかって行く。
(了)

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