『ステラ・マリス』について

 コーマック・マッカーシー。現代アメリカ文学を代表する作家のひとりで、アメリカ南西部を舞台に、会話文に引用符を用いず、句読点を極端に排するのを特徴とした乾いた文体で、人間の孤独と世界のあり方を書く。よく知られているのは、それぞれ映画化もされ好評を博した『すべての美しい馬』、『血と暴力の国』、『ザ・ロード』だろう。個人的には、国境付近で捕まえた牝狼をメキシコに返しに行く16歳の少年ビリーの、喪失と世界との対峙を描いた『越境』が一番好きだ。その彼の遺作が、『通り過ぎゆく者』と今回取り上げる『ステラ・マリス』の二部作である。

 『通り過ぎゆく者』と『ステラ・マリス』は、孤独なウェスタン兄妹の話だ。前者は、兄のボビーがあることをきっかけに、世界から追放される/世界を「通り過ぎゆく」話。後者は、ステラ・マリスという名の精神科病院に入った妹のアリシアと担当医との対話篇。時系列的には『ステラ・マリス』が先にあると読むのが素直ではあるけれど、読むのは『通り過ぎゆく者』→『ステラ・マリス』の順番が一般的なのだと思う。著者もその順番を推奨しているらしい。ただ今回は、『ステラ・マリス』の話をしたい。

 初読時の感慨は忘れられない。世界観に圧倒された『通り過ぎゆく者』を二度通しで読んで、それから『ステラ・マリス』を読んだ。吉祥寺にある井の頭公園のベンチで開いて、そのまま作品に引き込まれた。池の畔にいたはずが、いつの間にか自らも精神病棟のモノクロの部屋に立ち会っているように、アリシアとドクター・コーエンのふたりの声が響いていた。そういう作品はあまり多くない。否応なしに好きな作品になると感じた。

 アリシアは数学の天才(ちなみに兄ボビーは物理学の天才。)。トポロジーをやっていた。飛び級でシカゴ大を出て博士課程に入り、グロテンディークが所長を務めるIHESからも奨学金をもらっていた。精神分裂病に罹患しており、初潮を迎える頃に、常識人又は「健康な」人からすると幻覚・幻聴にしか思われない存在者を認識し始める。母とは早くに死別し、父はマンハッタン計画に携わっていた。兄ボビーは、レース中の事故で昏睡状態にある。自殺願望がある。
 そうしたアリシアに対して、ドクター・コーエンが生い立ちのこと、数学のこと、「幻覚・幻聴」のことなどを問いかけ、アリシアが、時にははぐらかし、時には真面目な調子で冗談を言い、時には茶化しながら、核心の周辺をぐるぐるとまわって答える。会話を通じ、この世界というものは何なのか、人間とはこの世界において何なのか、という問題についての彼女の見方と、彼女の孤独の底にあるものが仄めかされる。近づけたようでいて、ドクター・コーエンにも、読者にも、アリシアに近づくことはできない。

 例えば、初めのセッションでこういうやりとりがある。世界に対するアリシアの認識がどういうものか、そして彼女の自殺願望がどこから来ているのかをかなりの程度表しているようだ。世界、現実、認識、偶然、人間という存在者等に関する議論は、この部分をどう変奏しようか、というような話にも思える。

 ひょっとしたら単純にそれは人が世界に対して持つ関係の一つのモデルなのかもしれない。
 翻訳すると世界はきみが誰だか知っているがきみは世界を知らないと。そう信じている?
 いや。世界を経験するということはあなたがここにいることを世界は知らないという不愉快な真実に逢着することだとわたしは思う。それが何を意味するのかは知らない。もっとスピリチュアルな考え方をする人は匿名ということに恩寵を見出そうとするでしょうね。祝福されるということは悲しみと絶望を饗応すること。どう思う?
 わからない。
 それは人が問いかけることじゃない。人は不思議に思うだけ。実際のところ世界はわたしたちを意識しているんだろうかと。でもそれにはいい仲間がいる。その質問には。こういうのはどう。われわれには存在する資格があるんだろうか?それは特権だと言ったのは誰だったかな。ここに存在することと二者択一の関係にあるのはここに存在しないことよね。でも本当を言うとその関係にあるのはもうここには存在しないということなの。初めから存在しなかったということはあり得ない。初めから存在しなかったのならあなたがそもそも存在しないから。どう思う、先生?

『ステラ・マリス』(著:コーマック・マッカーシー、訳:黒原敏行、早川書房)p.36

 この作品の舞台は1972年。20世紀というのは、数学と量子論の隆盛により、古典的/常識的な素朴な世界認識が揺らいだ時代。この作品のねらいは、この世界が全く無根拠であるということ、そのことがよく見えてしまう者の生は、この世界では、虚無的で、孤独にならざるを得ないということを、20世紀の数学と物理学の世界観を手がかりにして描くことであると思う。そして、世界を認識するために人間が持つ強力な武器である数学と物理学には、世界観の基底的な領域でズレが存在していて、そのせいで、人間は世界をその全体としては決して把握することができないだろうという絶望的なかなしみも描かれる。それは、数学の天才アリシアと、物理学の俊英ボビーとの愛が、この世界では実を結ばないこととも重なる。アリシアがボビーに対して抱く止めようのない愛(『通り過ぎゆく者』では、ボビーのアリシアへの思いが語られる。)は、この作品を貫くもうひとつの主題である。世界に対する期待を捨てきれず、絶望的な虚無を乗り越えようとする「それでもなお」が切ない。
 世界の無根拠性、世界に在る者の根柢にある絶対的な孤独を提示するというペシミスティックな試みは、「それでもなお」の切迫した愛と絡み合う中で、必ずしも成功していないのではないかと思うけれど、そうした「失敗」こそが、この作品を神秘的で、特別で、かなしく愛おしいものにしていると感じる。

 冒頭、『越境』がマッカーシー作品で一番好きだと書いたけれど、『ステラ・マリス』は、同じくらい好きな作品になったし、この先より一層大事な作品になるに違いない。

ステラ・マリス | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン (hayakawa-online.co.jp)

越境 | 著訳者,マ行,マ,マッカーシー, コーマック | ハヤカワ・オンライン (hayakawa-online.co.jp)


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