風の博物館(掌編)
町のはずれに「風の博物館」と呼ばれる場所がある。この町の住民なら誰でも名前は知っている。けれど、誰も入ったことがない。館長は初老の男性。お祖母ちゃんが、今のぼくと同じくらいの年齢の頃からずっと、館長は初老の男性だったらしい。館長は町のみんなに愛されている。控え目で礼儀正しく、いつも静かに微笑んでいる。みんなは敬意を込めて、「館長さん」と呼ぶ。館長さんのことは、名前も、年齢も、家族構成も、声さえも全然知られていなくて、でもみんな、そうした謎を謎のまま受け入れて、たのしんでいる。
学校からの帰り道、館長さんに出会った。「館長さん、こんにちは」と挨拶すると、いつものように静かに微笑んで、会釈で応えてくれた。そして、「今日この後博物館に来るかい?」と訊ねてきた。これはいつもとは違う。ゆったりとして深い声だった。気持ち低めでなつかしい。声を聞いたのだってはじめてなのに、まさか博物館に誘われるなんて。
「風の博物館って何が展示されているんですか?風って展示できるんですか?」
「気になるのなら一度来てみるといいよ。」
行きたい気持ちはやまやまだったけれど、その日はお父さんが久しぶりに町に来て、一緒に夕ご飯を食べることになっていた。「明日でもいいですか?」と訊いてみた。
「明日か。博物館を案内できるか約束はできないが、寄ってくれたら歓迎しよう。」と言う。
今日なら大丈夫で、明日だとわからないって、一体どういうことなのだろう。不思議だ。ますます気になってくる。
「まだハンバーグが好きなんだな。」
「うん。」
「ここのハンバーグは美味しいからな。お父さんも好きだ。久しぶりに食べられてうれしいよ。」
「ところで、お母さんは元気か?」
「どうだろう。元気そうには見えるよ。でも最近お仕事を増やして帰りが遅い。」
「涼太は今何年生だったか。」
「この前四年生になったところ。そんなことより、お父さんは、風の博物館に入ったことある?」
「無いよ。お父さんだけじゃなくて、この町の誰も無いんじゃないかな。」
「今日、館長さんに遊びに来ないかって誘われた。」
「そうか、よかったな。どういうところだったか、お父さんにも教えてほしい。」
「うん、わかった。今度ね。」
玄関にインターホンが無いから、ノックをしてみる。中から音は聞こえない。館長さん、忘れちゃったのかなと思ったとき、音も立てずに扉が開いた。撫でるような風を頬に感じる。ただ、館長さんの姿は見えない。「ごめんください」と呼びかけてみても、自分の声しか聞こえない。昨日言われたとおり、今日はダメな日かもしれない。
「よく来たね。迷わなかったかい?」とどこからかなつかしい声がする。遠くの声が風に乗って運ばれてきたみたいだ。「案内しよう。今日はみんなご機嫌だ。」
みんなご機嫌って?と疑問に思ったけれど、口には出さなかった。自分の声は、ここでは余計だと思った。館長さんについて行けばいい。
「さぁ、ここだ。」と通された部屋には、ガラスケースばかりが整然と並んでいる。他には何もない。正直がっかりした。空っぽで、期待を裏切られたような気がした。顔に出ていたのかもしれない。館長さんは「期待外れだったかな?」と言って、少しいたずらっぽく笑う。そして、「見てごらん。」と、手に持っていた道具を使って、近くのガラスケースを照らした。
すると、そのケースの中に、くるくると渦を巻く淡い緑色の光が見える。「これはつむじ風。つい先日、新緑の公園で捕まえたんだ。」
「ガラスケースに仕掛けがあると思っているね?」こちらの考えを見透かしたように言う。「さわっていいよ。」とぼくの手を取り、ガラスケースの蓋を開ける。くすぐったい。本当に風なんだ。そう思った次の瞬間、ふっとケースから抜け出て消えた。草木の呼吸のような、あの匂いだけがしばらく残った。
「他にもあるの?」
「もちろん。これはどうかな。気をつけて。」
館長さんが例の道具で光を当てると、白茶けた中にどこか青みがかった流れが現れた。触れてみると切るように痛くて冷たい。思わず手を引っ込めて館長さんを見る。うらめしい。「これはツンドラに吹く風だ。永久凍土のある乾いた冷たい土地を渡る。痛かったね。」とポケットから出した膏薬が塗られると、不思議と途端に傷も痛みもなくなった。
赤々とした風もある。きっととんでもなく熱いのだろう、火山とか?触る勇気は出ない。ほとんど見えないくらいにかすかに色づいた風は、そよ風かしら。捕まえるって言っていたけれど、館長さんはどうやって捕まえたのだろう。思い出すたびに苦しい、あの風もあるのかな。
「五年前にこの町を襲った台風を覚えているかな。」
あの台風の夜、お父さんはうちに帰ってこなかった。翌朝帰ってきたと思うと、そのまま過ぎ去った台風を追いかけるようにして、ぼくたちを置いていった。お母さんは泣いていた。家の中がぐちゃぐちゃだった。照らし出されたそれは、黒々として秩序がない。あの日のぼくらの心を見ているようだ。
恐る恐るさわってみる。荒々しくて湿っている。手がびしょびしょに濡れる。喉が苦しくて、声にならない声が漏れる。顔も濡れた。
そいつは勢いよく飛び出して、部屋中を暴れ回って雨を降らせる。雨が上がる。台風が消えてゆく。「待って!」あの日は言えずじまいだった言葉を叫んでいた。
「台風の翌日に吹いた風だよ。」台風一過。わずかに湿り気を残したさわやかな風と、館長さんの声に押されて、部屋を出る。あの日のこと、お父さんのこと、はやくお母さんと話がしたい。
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