『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』(著:トーヴェ・ディトレウセン、訳:枇谷玲子)

 自伝的作品が好きだ。ミラン・クンデラの『生は彼方に』、マルグリット・ユスルナールの「世界の迷路」三部作(『追悼のしおり』、『北の古文書』及び『なにが?永遠が』)、ダニロ・キシュの自伝的三部作(『庭、灰』、『若き日のかなしみ』及び『砂時計』)、そして、イルマ・ラクーザの『もっと、海を――想起のパサージュ』。自伝的作品は、「自伝的」ではあってもあくまで「作品」なのであって自伝ではないところが面白い。自分の記憶や記録から作品世界を織り上げ、書かれる過去と書いている今の両方に同時に身を置きながら、自らの記憶やルーツといったものの意味を問い直していくというところに、自伝的作品の魅力があるように思う。

 さて、トーヴェ・ディトレウセンの『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』(結婚/毒 | みすず書房 (msz.co.jp))。コペンハーゲンの貧しい労働者階級に生まれ育ったデンマークの詩人、小説家であるトーヴェ・ディトレウセンが、自らの半生を自伝的に振り返った作品だ。「コペンハーゲン三部作」とあるように、三作あるトーヴェ・ディトレウセンのオートフィクションを一冊にまとめ上げたのが本書。この記事では、「子ども時代」(原題は"BARNDOM")と題された一篇を取り上げることにしたい。

 朝、そこには希望があった。希望は、私が決して手を触れられなかった母の黒々とした髪の一瞬の艶めきのように、そこにあった。希望は、スペイン風邪やベルサイユ条約を報じる新聞紙上の上で組まれたまま微動だにしない母のか細い両手を見つめながら、私がのろのろと食べる生温かいオートミールと砂糖とともに、舌の上にあった。父は仕事に――兄のエドヴィンは学校に行っていた。隣に私がいたけれど、母は一人だった。現実世界から遊離した母の奇妙な心の平穏は、私が大人しくしている限り、続くのだった。午前が過ぎ去り、他の奥さん連中みたいに、イステ通りへ買い物に出掛けるまでは。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 これが本作の書き出しである。ここに書かれている「希望」とは何だろうか。読み進めるうちに、それが母と娘の間の奇妙な――そして往々にして母からの一方的な――休戦協定であることがわかる。娘(幼い頃の著者)が、おそらくは不安定な母の精神を揺らすことなく、心の交流はないものの安寧に、二人それぞれの世界で過ごすことができる日の可能性が「希望」とされているように読める。第1章の最後において、筆者は次のように書くが、これこそ、記憶に寄り添いつつ距離を置くことができるという、自伝的作品ならでは魅力を伝える文章ではないかと思う。

絵の中の船乗りの妻が、夫のいる方角を待ちわびるように見つめる一方、母と私は自分たちの世界に、大人であろうと子どもであろうと、男を必要としていなかった。私たちの奇妙で、はてしなくはかない幸福は、二人きりの時だけ生まれるものだった。そして私が幼い子どもでなくなってからは、つかの間の時を除いては、真にこの時に戻ることはなかった。母が亡くなり、生前の彼女について話す相手がいなくなった今は、一層、その一瞬の幸福な記憶が、愛しく思えるのだった。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 子ども時代というのは、親が世界における絶対的な支配者として君臨しているように思われるものだ。子ども時代の母の印象を書いた第1章に続く第2章は、その支配者の片割れである父の姿から始まる。

 子ども時代の底で、父が笑っている。父は暖炉みたいに大きく、黒く、古めかしかったものの、私にとって恐ろし気なところはひとつもなかった。父について知るべきことは知っていたし、それ以外で知りたいことがあれば、ただ尋ねればよかった。父の方から私に話しかけてくることはなかった。幼い女の子と何を話せばいいのか分からなかったのだろう。父は時折、私の頭を軽く叩いて、ヘッヘッヘと笑った。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 いつこちらが侵犯したとて一方的に破棄されるとも知れない休戦協定を結んでいて、ある種の緊張関係にある母とは異なり、笑っている父は恐ろしくはない。一方で、引用箇所からもうかがえるように、父と娘は親密とは言えないようだ。それを裏付けるように、第1章では母個人と母娘関係に焦点が絞られていたのが、第2章で父個人について書かれるのはこの部分のほかに、読書家であり社会主義者であるという点のみで、残りの大半は父を含む家族の関係についての記述が占める。

 第4章では、詩人、小説家トーヴェ・ディトレウセンが生まれる原因となった印象的な挿話が語られる。父は、トーヴェが文筆家を目指すきっかけを提供する一方で、その未来を、当時の常識的な見方で閉ざそうとする。

私が子ども時代に読んだ本は、元は全て父のものだった。五歳の誕生日の時には、グリム童話の特装版をくれた。この本がなかったら私の子ども時代は陰気で満ち足りないものになっていたことだろう。(中略)ある時、私は父にこう言った。「お父さん、「悲哀」ってどういう意味?」。私はその表現をゴーリキーの作品の中で見つけて、好きになったのだった。しばらく考えこんだ後で、父はぴんとはねた口髭の毛先をなでながら、口を開いた。「それは悲しみやわびしさを表す言葉さ。ゴーリキーは偉大な詩人だった」。すると私は大喜びでこう叫んだ。「私も詩人になりたいの!」父はたちまち額に皺を寄せると、厳しい顔つきでこう言った。「馬鹿な夢を見るんじゃない!女の子が詩人になれるわけがないだろう。」母とエドヴィンが笑う中、私は恥と悲しみで、心の扉を閉じた。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 家族関係を中心に、遊び仲間のルット、大好きなおばあちゃんやその他の親族、学校や近所での出来事などのエピソードが語られ、全部で18章から成る「子ども時代」の中心となるのが第6章だ。ここで筆者はいきなり次のように書く。

 子ども時代は棺のように長く、窮屈で、自力では抜け出せないものだ。(中略)人は子ども時代から逃れることはできない。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 「棺のように」とされる苦しい子ども時代。その苦しみはいつまでも続くように感じられる。狭くて暗い棺しか知らず、その中で懸命にもがいているうちに、死が唯一の希望に見える。

子ども時代から解放してくれるのは死のみで、それゆえ死が頻繁に頭をかすめる。死は夜まぶたにキスされると二度と目を開けられなくなる、白い服をまとった優しい天使みたいだ。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 そのような苦しさをやり過ごすため、トーヴェは仮面をかぶる。「大人」が「子ども」である自分を圧し潰すために、自分の世界に立ち入ってくることのないように。

私はそういう狡猾な子どもで、愚かさという仮面を誰にもはがされないように注意していた。私は口を少し開けたまま、澄み渡った空しか映らないかのように瞳を完全に空にした。心の中で音楽が流れ出すと、仮面の穴に気づかれないよう特に気を張った。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 そうした子ども時代について、筆者は、女であることを理由に父と兄には軽んじられ、母には疎まれ敵視されさえした自身の経験に基づいて、息苦しく絶望に満ちたものとして悲観的に総括する。

 子ども時代は暗く、地下に閉じ込められて忘れ去られた小動物のように、うなり声を常に上げている。子ども時代は、冷たさの中で吐く白い息のように喉から出る時、時に小さすぎ、時に大きすぎ、決してぴったりなことはなかった。治った後の病気みたいに、穏やかな気持ちで回想し語れるのは、子ども時代が行き過ぎてからだ。大半の大人は幸福な子ども時代を送ったと言うし、本人たちもそう思っているのかもしれないが、私はそうは信じない。単に嫌なことを忘れられただけに思える。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 そして、「子ども時代」の掉尾を飾る第18章。中学を卒業し、堅信礼を終え、ひとり残された家のリビングを見回しながら愛誦した詩を諳んずるトーヴェに、子ども時代がその終わりを告げる。

今、真っ黒に日焼けした肌が剥けるように、子ども時代の残骸が私からはらりと剥がれ落ちた。そしてその下から、不自然な、手に負えない大人の顔がぬっと現れた。窓ガラスの外で夜が行き過ぎる中、私は自分の詩のノートを読んだ。そして知らぬ間に、記憶の底に――私が残りの全ての人生で経験と知識をそこから引き出すことになる心の図書館の底に、子ども時代が静かに沈んだのだった。

『結婚/毒 コペンハーゲン三部作』所収「子ども時代」

 国民的な詩人、小説家としての名声を手にすることとなるトーヴェ・ディトレウセンであるが、本書からは、世界に馴染めない者として生を享けたように思う。語り口は感傷に流れ過ぎず淡々としているが、かえって愁いを帯びていて、寂しく寄る辺のない印象を持った。

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