多恵(創作)

 思えば、昔からぼんやりすることが多かった。周囲と打ち解けているようでいながら、そうして場に馴染んでいる自分の姿を、他人のように眺める瞬間がよくあった。浮いているのとは違ったけれど、どことなく上の空で、話を聞いていないのかと相手を怒らせることもあり、友人と呼べる間柄は数えるほどしかいなかった。
 多恵とは大学のクラスで出会った。数少ない気の合う連中と気侭にやっていた榊と違って、多恵は日頃から、クラスメイトやサークル仲間など大勢の友人に囲まれていた。向こうがこちらをどう見ていたか知らないが、仲間内で明るく振る舞いながら時折、内に塞ぐような表情をする多恵のことが、榊は何となく気になっていた。
 二年の秋、その日の講義が終わり、榊がアパートへ帰ろうと駐輪場へ向かうと、多恵が珍しくひとりでベンチに座っていた。声をかけると、誰何するような目を向けた後、「あぁ、榊くんか」と知らぬ顔ではないのに安心したような表情を浮かべ、「帰るところ?途中まで一緒に歩かない?」と提案があった。
 昼の名残りとともに西へ沈む夕陽に照らされて、深さを湛えた藍色と淡い桃色が溶け合う白菫色の空の下、二人して自転車を押しながら言葉を交わしているうちに、気がつけば定食屋で差し向かいになっていた。どちらともなく互いの身の上を語って、その日は別れた。
 翌週の帰り、「どうせいないんだろうが」と思いながら薄い期待を抱いて駐輪場へ行くと、同じ場所に同じ姿勢で多恵が座っていた。「待ってた。今日も一緒に帰らない?」と訊ねられ、同じ定食屋に行った。腹を空かしていた榊は、一気に平らげ飯のお代わりまで求めた。茶碗を傾けつつ正面の多恵を覗き見ると、食事には手をつけずに、にこにこしながらこちらを見ている。かと思うと、すっと視線が手元に落ちて神妙な表情を浮かべたりもする。そしてまた、ぽつぽつと話し始める。
 「物心がつく前に父と母が離婚して、わたしは母に引き取られた。父には高校生になるまで会ったことがなかった。それまでも母からは会いなさいとたびたび言われていたけれど、よく知りもしないひとが父親だと言われても、どんな顔して会えばいいかわからなくて、先延ばしにしてた。それからは月に一、二回は顔を合わせてる。穏やかで優しいひとだけれど、親という実感はなくて、食事のときもお互いどこかぎこちない。二人きりでも気まずくならずに食事ができる相手って意外とすくないのね。榊くんは知ってた?」
 「茅場さんには友達が多いじゃないか。いつもひとが周りにいる。特に仲のいいひとたちもいるんじゃないの?そのひとたちとなら気まずいなんてことはないだろう」
 「あのひとたちとは、二人きりになるのはむずかしいかな。ほら、みんなわたしに明るい茅場多恵を求めるでしょう。みんながいれば、その場の燥いだ雰囲気に乗れるけれど、結局疲れちゃって。二人きりになったときに、いつもと違うと言われるのも何だか咎められているようで嫌だしね。その点、榊くんはわたしに興味がないから二人でも過ごしやすいんだと思う」
 「興味はあるよ」
 「本当?それにしては、ご飯を食べ終わったあと、遠くを見つめてわたしの話を聞いていないことがあるようだけれど」
 「昔からの癖なんだ。意識しないうちに、ふっとこころが身体から離れてしまっているらしい。すまない」と受けて、榊はまたやっていたかと思った。多恵には悪い印象を与えぬよう細心の注意を払っていたはずなのだが。
 「謝ることない。わからなくもないし。わたしも他人と過ごしたあとで家に帰ると、そんな顔になってるんだろうな。さすがに誰かの前でやりはしないけれど」とくつくつと笑う。その声が榊の耳に好ましく響いた。
 「嫌じゃないのか」と訊ねると、「それがあなたの自然体ならいいと思う。わたしもあなたの前では素直でいられるし。ひとりでいるのと勘違いして、思わず何でも話しすぎちゃうくらいには」と返ってきた。これまで生きてきて、この癖について異性から気味悪がられてばかりいた榊は、驚いて目を瞠り、思わず、「来週も、その先も、ここで」と切り出していた。
 「それはどういう意味かな?ここのお店が気に入ったの?」と、笑みを浮かべ、からかう調子で多恵が訊く。榊は、手を差し出しながら「おれと付き合ってくれないか?好きなんだ、君が」と交際を申し込んだ。はじめて覚える緊張とざわめきに、「好き」というのは、こういう感情のことかと思う。差し出された手を取って、多恵は、照れたように笑う。

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